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2007年5月14日 (月)

¥100 shop and Good design shop

21世紀に入る直前から、日本ではいわゆる100円ショップが街に登場しだした。そこに並べられている商品は、例えばヘヤードライヤーだとかホッチキスだとか、これも100円で買えるのか!と驚かされるモノが多い。これらの商品はほとんどが中国やアジア諸国で生産されたモノである。ご存知のように、商品の価値は、基本的にはその商品を生産するのに要した労働と流通・販売などに要した付帯労働など、投入された労働量(通常労働時間で測られる)によって決まり、さらにそれを基礎として市場における重要と供給のバランスによって市場価格が決まる。現在のように市場が国際化している場合には、労働力が安い国で作られた商品が、国際商品市場での価格競争では圧倒的に強い。

 100円ショップでは、品質やデザインを問わなければ最低限必要な生活用具はほとんど揃うのである。これは収入の少ない人々にとってはまことにありがたい存在である。一方お金に余裕のある人々は、品質やデザインのよい商品をいわゆるGood Desgn ショップで買うことが多いであろう。

この100円ショップが街に登場しはじめた頃から、世の中の「格差」が目立ち始めたのである。誤解を避けるために言うが、100円ショップが格差社会を生み出したわけではない。むしろ逆で、格差社会の進展にしたがって100円ショップの持つ社会的意味が大きくなってきたのである。いわゆるワーキング・プアーの人たちや乏しい年金で生活する人々の多くは日々の暮らしに必要な生活用品を100円ショップで求めざるを得なくなっているのである。

しかしこれら100円ショップで販売されている商品を生産している国の労働者たちは、驚くほど低い賃金で長時間働かされているのである。彼らがなぜそのような低賃金で暮らして行けるのかといえば、それは彼らの生活に最低限必要なモノ(食物・衣料費や住居費など)が彼らの国では驚くほど安く入手でき、また質素な生活なので、われわれのようにモノを次から次へと買い替える必要もないからであろう。

労働賃金は、いわゆる労働市場(就職戦線などともいわれている)における需要と供給の関係で決まるが、その基本となる労働力の価値は、モノとしての商品と同様に労働力を生み出すのに必要な労働量によって決まるのである。しかし労働力は誰かが工場で作り出した人工物ではなく、食料や衣類を消費しながら生活の中で日々新たに再生産されるのである。だから労働力の価値は労働力を日々再生産するために必要なモノに対して投入された労働時間によって決まることになる。つまり、安い生活資料でも生活できる人々には安い労働賃金しか支払われないことになるのである。

おそらく100円ショップに並んでいる商品は、デザインなどに時間をかけていわゆる生産費用を高くしては市場で勝てないため、デザインなどは二の次になっているのであろう。しかし生活に困っている人々は、背に腹は代えられないため、こうした商品で我慢せざるを得ないのである。

一方 Good Designショップに並ぶ商品をデザインするのはもっぱら西欧や日本のような高度消費社会で生活しているデザイナーたちである。このような商品は実際にそれを作るのに投入された労働量(デザインに要した時間も含めて)をはるかに超えた基準で実際の市場価格が決められる。いわゆる付加価値である。この付加価値の経済学的分析は別の機会に行うが、これは市場の需要と供給の関係を意図的に操作する(需要を煽り、それに対する供給を意図的に制限することで市場価格をつり上げる)ことによって決められる価格である。例えば有名デザイナーのブランド商品などというのがこれの典型的な例である。付加価値商品とは市場価格を下げる努力で競争するのではなく、商品イメージやブランドという仮幻的価値を付与することによって市場の競争に勝とうとする商品であり、それが可能になるには、実際の商品の価値よりはるかに高い市場価格であってもそれを買うことができる人たちがかなりの数存在することが前提なのである。

いま世の中は「新富裕層」といわれる競争社会の勝者たちと、ワーキング・プアー、ニート、年金すらもらえない高齢者など競争社会から脱落した人々にによる「新貧困層」に二分化されつつあるように見える。そしてデザインの世界もこれに対応して二分化されつつあるのではないだろうか?それが100円ショップとGood Designショップとの関係に象徴的に現われているように思えるのである。

そういう視点でアジアの国々の人々とわれわれ日本人の関係を見直すと、一方でわが国の生活資料商品がアジア産の低賃金労働者の労働に基づく安い商品に駆逐され、多くの生活資料生産企業が倒産し、そこで働いていた人々が貧困層に落とし込まれたと言われるにも拘らず、わが国の「新貧困層」の生活にとっては、アジアの低賃金労働者の労働によってもたらされる100円ショップの商品が、いまや必要不可欠になりつつあるのではないだろうか?そしてこのような形でアジアの低賃金労働者とわが国の新貧困層が実生活の上で結びつくことによって、たとえ表面ではナショナリズム的な反発意識を持っていても、実は互いに同じ立場に置かれていることが見えてくるのではないだろうか?

アジアの低賃金労働者も、わが国の新貧困層も、ともに一生懸命働いて社会に役立っているにも拘らず、Good Designとはほど遠い世界に暮らしている。デザインはいったい誰のためのものなのか?わが国や西欧のデザイナー諸氏は、一握りの新富裕層によって惜しみなく金が動くGood Design商品のデザインのためだけに能力を捧げていないで、このような現実にも目を向けるべきでなのではないだろうか?

アレッピー市内の傘やさん

アレッピー市街

アレッピーのお店(何でも屋さん?)


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