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2007年5月27日 (日)

「付加価値」って何?ー(1)

技術の水準に差があったときには、商品市場は技術を売り物にして競争する。しかし、それが横並びになってしまうと、今度は、デザインで競争する。

デザインは商品に付加価値を付与するといわれる。では、付加価値とは何なのか?

それには「価値」という概念をもう一度確認しなければならない。価値は経済的カテゴリーであって、個人の価値観とは区別しなければ混乱を生じる。価値は、所有物の交換という場面から始まったものであると言われ、所有物の交換の場面における個人の価値観同士のぶつかり合いの中から、客観的な価値という概念が成長してきたと考えられる。例えば、機織りの技術を持ったある男が余剰の木綿布を持っていて、これを自分の生活のために消費する必要はなくなったため、より必要な物に交換したいと願っていたとする。そこへ、海で魚を捕った漁師が魚を売りにきた。機織り男は、今晩の食事に魚を食べたいと思った。そこで、木綿布と魚を交換しないかと漁師に問いかけた。漁師も丁度仕事着が欲しかったので木綿布と魚を交換することになった。そのとき、互いにどのくらいの量の魚が欲しいか、相手はどのくらいの布が欲しいのかを言い合い、量的合意点を見いださねばならない。例えば木綿布一反と魚4匹で交換が成立したとする。すると、ここでは、木綿布一反と魚4匹が等価であるという合意が得られたことになる。この場合、機織り職人にとっては、余剰の木綿布はもう使わないので、自分にとって有用性がないものであり、漁師の持っている魚こそ有用性があるものである。漁師にとっては丁度その正反対の状態である。この場合、経済学の言葉でいえば、機織り職人にとっては、木綿布は等価形態にある商品であり、魚は相対的価値形態にある商品といえる。彼にとって相対的価値形態にある商品「魚」は使用価値として現れるが、木綿布は使用価値はなく、魚と単なる等価な(その意味では抽象的な価値を持った)商品となる。漁師にとってはこの逆である。この等価形態の商品(つまり抽象的な価値を持った商品)が、何とでも交換できる一つの特殊の媒介的役割を果たす「第3の商品」(つまり交換手段としての商品)として成長したのが貨幣である。ここで、当然異なる二人の個人的価値観が合意に達し得たのは、木綿布1反と魚4匹が、さまざまな偶然的要素をはらみながらも、異なる物の間に存在する何かしら共通のしたがって客観的なある尺度で量られたということを意味している。これが価値量であり、その価値量を形成する実体は、それら異なる物(正確にいえば異なる使用価値を持つ物)を作り出すためにそれぞれ必要な社会的に平均的な労働時間である。もちろん魚は人間が作った物ではないが、海に船を繰り出し網で魚を捕まえて街に持ち帰らなければ、それらは人々の食卓に上ることはないのであるから、そのために必要な労働時間という意味である。

商品経済が発達した社会では、商品市場は、さまざまな偶然的あるいは恣意的な要素によって左右される社会的需要とそれを満たすための供給の動的なバランスに応じていわゆる市場価格が決まる。ある場合は商品の価格は実際の価値よりも遥かに高く推移し、ある場合には価値より低くなることもある。しかし、常に価値はその商品を生み出すのに必要な社会的に平均的な労働時間として価値量の中心を成すのである。

どのような社会にあっても、社会全体として必要とされる分野の労働を、その社会の構成員がそれぞれの能力に応じて分担して行わねばならない。この社会的分業(社会的に要請される分野への労働力の配分)を、それぞれの分野が社会的に必要とした労働時間を基礎として商品の価値という形で表現し、市場における商品の等価交換という間接的な形で労働の社会的配分を実現しようとしたのが商品経済社会であるといえる。

 この形を歴史上初めてほぼ完全な形で実現したのが、人間の労働力をも商品として市場で扱うようになった資本主義社会なのである。商品経済がもっとも発達した段階である資本主義社会では、生活に必要なあらゆるものが商品として生産され、人々はそれを日々購入することで生活するようになった。しかし、生活に必要なものを購入するお金は天から降ってくる訳ではなく、自分で稼がねばならない。もともと大きな財産を持っていた人たちは、それを運用すればリッチに生活することができるのだが、何も持っていない人々は、自分の労働力を売りに出し、それによって、生活に必要な金を稼がねばならない。つまり資本主義社会というのは、人間の労働力までもが商品として市場(労働市場)に出され、それら労働力商品が、生産手段を所有する人々に買い取られ、そこにおいて労働力が生産的な労働として生産手段とともに消費されることによって、社会的に必要なものが生み出されるという仕組みの社会なのである。人間の労働力とは、その人が社会的役割の中で何を分担できるのかを現し、その人の社会的存在意義を示すものである。それが人間の作りだした商品と同様に労働市場で売買されることにより社会が成り立ち、歴史上かつてなかったような、価値という概念が「経済法則」の中心概念として捉えられる社会が資本主義社会なのである。

労働力の商品としての価値(つまり労働賃金として支払われる貨幣の価値量)は、それを生み出すのに必要な労働時間によって決まる。といっても人間は人間の労働によって直接生み出された人工物ではないから、労働力を日々の生活において再生産するのに必要な生活資料商品の価値をもって、それに当てるのである。それが労働賃金であって、これは本来の意味での「収入」ではない。なぜなら、労働賃金は労働者の生活の中で、生活資料商品と引き替えに、貨幣として支払われ、再び資本家の手に環流するのだから。

労働賃金と引き替えに買い取られた労働力は、商品の生産過程において消費され、生産に必要な手段(素材原料、機械類などの労働手段)が持つそれぞれの価値を商品に転移しながら、それが生み出されるのに社会的に必要とする平均的労働時間(必要労働時間)の新たな労働を加えることによって新たな商品の価値として結実する。しかし一般的な労働は必要労働時間を超えて行われる。これを剰余労働時間といい、剰余労働時間によって付け加えられた価値部分を「剰余価値」と呼んでいる。

労働の生産性が高まることによって生み出された社会的な余剰労働時間やそれによって生み出された余剰生産物は、社会全体に必要な社会的ファンドとして蓄積されるべき物である。どんな社会でもその構成員が100%健康でいつでも働ける人々であるなどということはありえない。かならず、不本意な原因で働けなかったり、若年や高齢で働けなかったり、病気や障害を持っていたりする人たちが存在する。したがって、社会は当然それらの人たちが社会全体にとって必要な人々の一部であるとして考えねばならない。そのために、働ける人たちが剰余労働によって生み出す社会的共通ファンドは必要なのである。

しかし資本主義社会では、剰余労働時間は、資本が市場において競争に打ち勝つために必要な新たな資本部分として投資あるいは蓄積される。

今日の資本主義的経済学では、この剰余価値を付加価値と呼んでいることもある(労働生産性を云々する場合など)が、一般的には、付加価値は市場での商品売買における通常の価値を基準とした価格以外の方法で市場価格を上げうる手段の総体をさしている場合が多い。実は、付加価値の捉え方の問題は、単に概念規定の問題ではなく、人間観や社会観そのものに関係する問題を背後に持っていることに注意しなければならない。

次回はこの付加価値がなぜ今日強調されるのかという問題に今少し深く入って、デザインとの関連をみようと思う。


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