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2007年6月 6日 (水)

「浪費人間」の悲劇とアジアの民

 昨年、退職金を叩いて、老後のために家の建て替えをした。そのとき、古い家の物置小屋に入っている10年〜30年以上も前に買ったさまざまな古い使わなくなった製品の処分をした。壊れた家具類、使わなくなったアウトドア用品、古いビデオカメラ、古いパソコン、古いストーブ、子供が小さかった頃に買ったおもちゃ類、そしてそれらが入っていた箱などなど。その膨大な量の「ゴミ」を処分しながら、つくづく、自分の人生はただ、まだ使えるモノを使わなくなり、捨てては、新しいモノに買い換える、という生活を繰り返してきたのだと思い知らされた。日本の経済はこうして生活者に膨大な浪費を生み出させ、浪費することこそが人生であるような人々(私自身を含む)を生み出すことによって成長してきたのである。その中で、新しいデザインのクルマが出れば、多少無理をしても貯金を叩くかローンを組んでそれを買い、ボーナスが出れば、それで新しいビデオカメラを買って子供の映像を記録した。モノを買うことに生きがいを感じ、もらった給料の可処分部分をそのように浪費して行ったのである。このように十分にその寿命を全うせずにゴミと化すような製品をデザイナーの力を借りて次々と作っては売ってきた企業は、われわれの給料をそういう形で吸い上げ、利潤を増やして行ったのである。「消費者の立場を大切に」と言われ、あたかも世の中に「生産者」と「消費者」という違った人間集団があるかのように思い込まされてきたわれわれは、実は、労働の場では「生産者」の手足として働き、家に帰ると、明日の労働力を養うために、生活資料を消費する「消費者」に早変わりするのである。実際に職場ではわれわれの手で消費材を生産しているのに、なぜ生産者とは呼ばれずに「消費者」としか呼ばれないのか?このような消費人間にさせられてしまったわれわれが、挙句の果てには、省エネキャンペーンの対象となり、環境問題の責任の一端を持たされ、「消費者の意識革命こそが必要だ」などと言われ、今度は新たにエコ製品を買わされるとは、何たる屈辱か!エコ製品が増えれば、そうでない製品に埋め尽くされた状態に比べて一時的には環境破壊物質の増加率が低下するだろうが、生産の総量が減らない限り、決して環境破壊は根本的に解決はできないであろう。

 このような情けない「浪費人間」に成り下がってしまったわれわれが、「先進国の民」という自尊心の色眼鏡を掛けているために、まったく見えなかった世界がある。それがあのケララの民に見たようなアジアの人々の生活である。

ケララのゆったりとした時間と、昔ながらの生活を変える必要のないところは自信を持ってそれを維持し、必要最小限の近代技術を取り込んで自分たちの文化を守っている人々の生活ぶりを見て、私は少なからずカルチャーショックを受け、それがこのブログを書き始めるきっかけになったと言ってもよいのである。

 もちろん、ケララの人々の生活にも実際はいろいろな問題が山積しているだろう。決してそれが「現代の理想郷」ではないことは明らかである。しかし、おそらくは数十億人ものアジアの人々が、営んでいるさまざまな生活様式は、決してアメリカ・西欧・日本のような先進資本主義国の「便利なモノに溢れた生活」を目指しているのではないといえる。例えば、仮に中国やインドの人々がアメリカや日本と同様な大量消費社会になったしたら、地球環境はたちまち壊滅的な破壊を被り、石油や森林などの資源は完全に枯渇してしまうだろう。気候は激変し、農作物の収量は激減するだろう。このようなことは誰にでも想像のつくことである。

 もはや、アメリカ資本主義型消費社会は、われわれの目指すべき21世紀の生活ではなく、破綻した古い経済モデルにおける理想像でしかない。

アジアの人々の多様で質素な生活がそれを無言で示しているのである。


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