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2007年8月21日 (火)

ネットワーク社会について(1)

Web2.0といわれる、双方向ネットワーク社会が急速に社会の形態や生活のあり方を変えつつある。これはまず第一に情報工学的技術の進歩によるものであるとともに、現代資本主義社会のひとつの到達点でもある。その中で特徴ある現象として次のようなことが挙げられる。

 コンピュータの普及と光ファイバーなどネットワーク回線の普及によって各コンピュータが「対等な関係」(必ずしもそうとばかりはいえないかもしれないが)で結ばれ、その上を世界規模で統一されたプロトコルによる情報のやりとりが行われるようになったことがまずあった。しかし、このことは一方で、ネットワーク社会でアピールされたさまざまな個人の見解が、アクセス数を指標にして淘汰され、アクセス数が多い情報源がますます人々の注目を浴びやすくなるという現象を生んだ。その主役が検索エンジンである。アクセス数という「客観的」インデックスによって「自動的」に処理することで、この現象を「つくり出した」のである。そのため、いったんネット社会で名を売れば、あとは「有名人」として注目されるようになり、黙っていてもお金やチャンスがやってくるようになる。そのためにはまずどんな手段を使ってでも注目度を上げねばならない、という考えが当然現れる。

 この現象は「民主主義」という政治形態の特徴をいわば「無機化」して表現したものともいえる。誰でも意見を言えるし自分の主張をアピールすることができる。しかしそれが注目に値するかどうかは「世間の趨勢」が決めるのである。であれば、その「世間の趨勢」はどう決まるのか?ネットワーク社会以前には、それは生身の人間同士の時間をかけたやりとりの総計として行われたが、いまは検索エンジンなどのオンライン上のメカニズムによって瞬時に自動的にこれが行われる。なんというクール(冷たい)な社会であろうか!諸個人それぞれのもつ人間としての「尊厳」はいったいどこに行ってしまったのだろう?民主主義の真骨頂は議論に議論を重ねて結論を導き出すことであって、その過程で諸個人が自分の主張と相手の主張の違いの意味を理解し、ある部分納得できなくとも納得できる部分で合意をしていくというプロセスではなかったか。この時間をかけてディスカッションを行うというプロセスを無視し、人気投票的な見解や、「誰もが認めるであろうからいちいち議論する必要はない」という見解が支配するところからは、いかに恐ろしい結果が生じるかはこれまでの歴史が証明している。そもそも人気投票的な結果は、「かっこいい」とか「実行力がありそうな感じ」といった非常に表面的で感覚的なものの反映であることが多い。そのため、選ばれる側もそのことを意識し、かっこよく、あるいは実行力のありそうなアピアランスを演出する。要するに肝心の中身はどうでもよくなるのである。いまの選挙を想像してみればよい。また「このような方向で結論が出ることは多くの人たちが認めるであろうからそれにたいする議論は必要ない」という考え方も、実は、「世間の趨勢」を見こし、それを前提にして出てくる考え方であって、議論する前から結論が出ているという形である。実はこの考え方は「世の中の趨勢」が持っている間違った方向性への批判を諸個人の考え方の中から汲み上げ、それを議論の俎上にあげてディスカッションし、それを原動力として「世の中の趨勢」を軌道修正しようとするのではなく、「世の中の趨勢」を「権威」として利用し、あらかじめ予定された方向に結果を持っていきたいがために恣意的に諸個人の考え方を無視するものである。政府主催の公聴会や許認可での諮問機関による結論がどのように政府の思い通りになるように恣意的に導かれているかを見れば明らかであろう。これはきわめて危険な傾向である。しかもいわば無法地帯となりがちなネットワーク社会では、正当なディスカッションが保証されず、さまざまな犯罪や悪意に満ちた妨害や脅しの温床になっている。ネットワーク社会が生み出す「水平化」現象は、一見民主主義社会をより推し進めているかに見えるが、実は両刃の剣であって、無自覚のうちに人々に支配的な権威に対する正当な疑問を放棄させ、みなが正しいというものに従って行けばよいという気持ちを植え付けるようになるだろう。そして少数意見に耳を傾けようとすることが少なくなり、社会は大きな本質的矛盾を孕みながらも、それが根本的に克服されることなく、ゆがんだまま、その見かけだけを修正することを繰り返す。現代社会の中にはびこりつつあるこのような傾向はネットワーク社会の持つ無限の可能性を著しくゆがめ、とんでもない方向に導く可能性を孕んでいるといえる。

 そしてその中で、ネット・ビジネスがそのサイトの本来の機能を売り物にするのではなく、それが注目度を上げたり、多くのユーザを獲得することによってそこに広告を載せることが多くの収入を得るための手段になるという現象が現れた。ユーザはたしかに無料で便利な検索サイトが使えるのはうれしいが、実は自分たちがある広告を見せられ、そこに出ている商品に金を払ってくれる対象としてしか意味を持たないということに気づくべきである。無料であることは単に多くの人々の注目を得るための手段なのである。ソフトウエアの開発にかけた膨大な労力と時間がそれに相応しい形で価値を評価されるのではなく、単にユーザを増やすことでそれにともなう広告収入や副次的な利益を得ることが主目的になってしまえば、高い機能を持つが多大な労力のかかるソフトウエアの開発は行われなくなり、その代わりに手っ取り早く金儲けができるビジネスに向かう傾向が増えるであろう。ソフトウエア産業は、労働賃金が安く(つまり生活費が安く)知的水準が高く、そして文句を言わずに長時間労働をしてくれる人々が多く存在する国へと転出していく。その反面いわゆる先進資本主義国では、ブランドや注目度(目新しいデザインやアニメやゲームなどでのおもしろさや奇抜さなども含む)などの「付加価値」による利益や広告料など、本来社会に必要な生産にとっては「どうでもよい」ことが主要な産業になってゆくという傾向が強くなると考えられる。地味ではあるが本来社会にとってなくてはならないもの(ソフトも含む)に対する人々の認識度が低下し、それにともなって、モノづくりの場合と同様にソフトウエア産業も空洞化が進み、有能な人材が育たなくなってゆくのではないだろうか。

 しかし、このような世界的な傾向が顕著になっていくとしても、全世界を結んだネットワーク社会はなくならない。その実体の中からわれわれにとって「確かなもの」を見いだし、それを汲み上げることこそが近未来社会のデザインにとって必須な要件ではないだろうか?

 

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