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2007年4月22日 - 2007年4月28日

2007年4月28日 (土)

Viva Kerala ! -(2)

民宿エメラルド・アイルで一泊した後、翌朝、まだ朝霧の残る運河から再び渡し船に乗った。対岸からクルマに乗り換え、アレッピーの街をしばらく走り、街道筋から林の中の細い道に入り、狭い敷地の中にある小さなホテル案内所に着いた。そこでまずココヤシの身のヘタを切り落としてストローを差し込んだだけのココヤシ・ジュースが出された。冷やしてないので生暖かいジュースがストローを伝って口に入ってくるのだが、これがとても爽快な味だった。

手続きを済ませて、小さな渡し船でいよいよボートホテルに向かった。運河に停泊するボートホテルは、竹か籐のような植物で編んだ曲線的で不思議な形をした船であった。中に入ると部屋は3部屋あり、船の前半分は、結構広いリビング兼ダイニング空間になっている。前方は完全にオープンで、船の進む方向に展望が開け、その真ん中に船長の舵取り席がある。この船全体をわれわれが借り切るのである。船の乗組員が紹介された。船長は年配の男前の風貌で物静かな人だった。シェフはアーリア系でない(おそらくはドラビダ系)民族の人でこの人が一番英語が得意のようだった。、機関長はまじめそうな人であった。

しばらく出航準備の時間があり、いよいよ船は動き出した。スタートのときエンジンはかなり大きな音をたてていたが、一定の速度に入ると小さな音になった。船はゆっくりとした速さで背の高いヤシの茂った運河を進み、やがて大きな海のように湖水が開けた場所に出た。何漕かのボートホテルや帆を張った舟があちこちにゆったりと漂っている。波もなくどこまでも明るく穏やかな風景である。南インドの強い日差しの中で帽子もかぶらず船長は悠々と舵取りをしていた。船の進行方向が完全にオープンなので、リビング空間には心地よい風が入ってくる。やがて昼時になり、湖岸に停泊して休むことになった。運河や湖の岸はどこでも船が係留できるようになっていて、そこには地元の農民たちが使っている生活道路があった。

食事を終えてしばらくすると、岸の農道からかごを持った男が船内に向かって何か話しかけるので、行ってみると、大きな生きたエビを4匹見せて「採れたばかりだが買わないか」と持ちかけてきた。I氏と相談して、値段は少し高めだけれど日本円に換算すれば安いものだという結論になって、そのエビを買った。後になってから考えれば、これは船のスタッフとの見事な連係プレーのようであったが、とにかくこれをシェフに頼んで夕食で料理してもらうことにした。

やがて再び岸を離れ、また別の広い運河へと入った。しばらくゆったりと進んだ後、船はまた接岸した。シェフが出てきて、ちょっと案内したいところがあるので、といってわれわれを船の外に誘った。岸から奥に入る農道をしばらく進むと、小さなキリスト教の協会があった。そこは150年以上も前から地元の人たちが敬愛するある牧師の建てた教会だった。何の変哲もないローカルな教会であったが、礼拝にやってきている農民がみなきれいな衣装を着て待っていた。

この教会への行き帰りに見たものはケララの農民生活を象徴するもののようであった。

まず驚いたのは、カールマルクスの写真を配したポスターである。マラヤラム語の文字で書かれているので内容は分からないが、選挙ポスターのようであった。後に調べたところケララ州は、かなり長期に縄って共産党政権が州を支配していたのである。中央政権ともうまく折り合いを保ち、安定した施政を行っていたそうである。そういえばアレッピーの街角でもあちこちに鎌と鎚をあしらった見覚えのある赤旗が立っていた。

農道を歩いていると向こうから空き缶を楽器のように叩きながらやってくる若者に出会った。私がカメラを持っているのを見ると彼は「写真を撮ってくれ」という。彼はそのまま行ってしまったが、しばらくして学校帰りらしい子供たちに出会った。その子も「写真とって」という。写真を撮ってやると、「見せて」というので、液晶画面にいま摂った写真を出して見せた。すると、「ウアー」と声を上げこの写真が欲しいという。これは紙にプリントしなければならないので無理だといっても通じない。仕方なしにこの写真はカメラの中から出せないからダメ、というと、「じゃそのカメラをちょうだい」と言い出した。邪気のない子供の言うことなので、どう応えてよいものか本当に困ってしまった。

船に戻り、ふたたびクルーズが始まった。ゆっくりと進む船の両岸では、層民たちの生活の気配が漂っていた。子供が水辺でもぐって遊んでいたり、部屋の窓からテレビの画面が小さく見えたりする、どこからともなく祈りの唄のような声が聞こえてきた。祈りの唄はコーランでもなく賛美歌でもない。独特の哀愁を帯びコブシのかかったお経にも似た節回しである。どこかでスピーカーを使って流しているようであった。やがて今晩の停泊地に接岸した。何ということのないあぜ道の岸に船を係留した。すぐ前方に運河が入り江のようになった溜まりがあり、そこに無数のカモが群れていた。そばに、長い棒を持った男が一人小舟の上に立っていた。やがてその男が水面をバチンと叩いた。するとカモの大群が動きだし、男はすばやく舟を動かして群れを追った。カモはぐるぐると渦を巻くようにある方向に動き出した。するともう一人岸の岸の農道にいた男が板のようなものを岸に渡した。カモの大群の先頭がその板を伝って陸に上がり始めた。見る見るうちに1000羽近いカモの大群がそれに従って陸に吸い上げられて行った。見事な「カモさばき」である。ちょうどアメリカのカウボーイが牛の大群をコントロールするのと良く似ているので「カモボーイ」と呼ぶことにした。

その晩の食事には、言うまでもなくあのエビが登場した。油でからっと揚げてカレー味を付けた単純な料理であったが、何よりも水辺を渡る風を感じながら、船のほの暗い照明の下で食べる雰囲気は最高であった。

バックウオーターの典型的風景

ユニークなデザインのボート・ホテル。ほとんどみんな同じデザイン。

ボートホテルの内部から見た景色。


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Viva Kerala ! -(1)

インド旅行記はいよいよ佳境に入る。

デリーからムンバイ経由の国内便で2時間ほど南に飛ぶとケララ州の港町コーチン(コチともいう)である。ここはかつて大航海時代を切り拓いたヴァスコ・ダ・ガマが不慮の死を遂げた場所であり、その後、ポルトガルなどを通じてカトリックが入り込み、いまだにキリスト教徒の多い地域である。またオランダ、イギリスなどによる香辛料争奪戦が繰り広げられたところでもある。コーチンの街はクルマで通り抜けただけであったが、デリー周辺に比べるとこざっぱりした町並みで、ものすごい交通ラッシュもなく、あの物乞いの姿も見えない。街には大きなカテドラルがあったりしてどことなくヨーロッパ風である。まず最初に気になったのは、街のあちこちにある看板の、デリー周辺では見なかった不思議な文字である。その渦巻き状の文字は、後にマラヤラム語というケララ地域特有の言語の文字であることが分かった。コーチンからクルマで40分ほどのところにバックウオータと呼ばれている水郷地帯で有名なアレッピー(アレップラともいう)という街がある。アレッピーに向かう途中は、田園の中に所々ヤシの木が生い茂るのどかな農村地帯である。街道筋から細い道を折れ、水田地帯をしばらく走ったあと大きな運河縁の空き地でクルマを降りると、やがて対岸から客を乗せて渡し舟がやってきた。古い手漕ぎの木造舟である。ちょうど矢切の渡しのような雰囲気である。舟に乗ると船頭が一本櫓でゆっくりと漕ぎだした。あたりは夕暮れ時で舟の櫓がたてる水音以外に聞こえてくるのは、少し離れた場所から聞こえてくる「バチン、バチン」という不思議な音だけであった。両岸はヤシの生い茂った林が続き、木の間越しに農家が散在しているのが見えた。水面にはホテイアオイという浮き草が島のようにいくつも群生して漂っている。やがて対岸の民宿の岸壁に着き、舟を降りた。そこで対岸の農家のあたりで白っぽいサリーを着た年配の女性らしい人が洗濯物を石に叩き付ける昔ながらの「タタキ洗濯」をやっているのが見えた。さきほどの「バチン、バチン」という音の出所はこれであった。

民宿エメラルド・アイルの門をくぐるとさまざまな種類の熱帯樹の繁る広い敷地の奥に小さな広場を取り囲むような不思議な形をした瓦葺きの建物が見えてきた。民宿の主と2人のスタッフは、大変親切に出迎えてくれ、4部屋のうち3つが空いているので適当に入ってくれといって案内してくれた。残る一部屋にはフランス人のグループが泊まっていた。説明によると、この建物は主の祖父が150年も前に建てた古い木造建築で、それを大切にメンテしながら使っているのだそうだ。コの字型の間取りも面白いが、広場に面した部屋の前は深い庇が出ていて、その下の空間にはベンチが置いてあり、夕涼みができるようになっている。寝室の奥のドアを開けるとシャワールームとトイレがあり、大変清潔であった。さらにその奥にオープンエアーの露天シャワーがあった。私は夜暗くなってから、この露天シャワーで頭上の月を眺めながら体を洗ったが、実に快適であった。この建物には、昔、穀物などを貯蔵したらしい床の高い小部屋があり、そこは絵が掛けられていて小さなギャラリーのようになっていた。

そして夕食である。南インドではさぞかし辛い香辛料を使った食べ物が出てくることだろうと覚悟していたら、予想に反してマイルドでさっぱりとしたカレーであった。細かく切り刻んだ野菜をペースにしたカレーをチャパティーやナンに乗せて食べるのであるが、ご飯もある。このご飯が、あの細長いインディカ米かと思いきや、まるっこくて大きくしかもふんわりとしたお米のご飯なのである。インド製のビールKing Fischerもちょうど中国の青島ビールのような軽さでさっぱりしてうまかった。ここの食事は、あの北インドのバイキンマンと強烈な「特効薬」のパンチのために弱っていた私の胃腸にはまことにマッチしていたのである。おまけにここで出されるマサラティーがまた美味しかった。さらに驚いたことには、熱帯であるにも拘らず、あまり不快な虫や蛇などにお目にかからないのである。私はこの民宿エメラルド・アイルが痛く気に入ってしまった。

そこで考えた。ケララは北インドとは異なる別の文化を持っているらしい。しかもそれはわれわれ日本人が2000年以上も慣れ親しんできた田園風景のルーツのようなものを感じさせる。民宿の古い建物も、出てくる食べ物もどこか、われわれの心を安堵させる雰囲気を持っている。これは最近になって政策的に観光化された結果なのだろうか、それとも昔からそのままに続いてきた状態なのだろうか?同宿したフランス人グループの一人と食事の際に話をしたが、彼らも私と同じような気持ちを味わっていたのかどうかは分からなかった(私の語学力がなかったので)。

この後、私はより深くケララに魅せられることになるのである。

民宿エメラルド・アイル

エメラルド・アイルの門

すぐ前に広い運河がある。

エメラルド・アイルの夕涼みベンチでご機嫌のせがれ。


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2007年4月27日 (金)

城の内と外

インド旅行記はまだ続く。

前回はあまりデザインと関係のない話だったので、今回はもう少しデザイン的な話をしよう。

Gippytummyに悩まされてからは少し元気がなくなっていたが、宿泊地のニムラーナ・フォートホテルはすばらしかった。低いが急峻な山の斜面に建造された古い城塞の跡をそのままホテルに改装したのである。入り口は巨大な城門であり、夜になると大扉が閉じられてしまうらしい。城門をくぐって狭い曲がりくねった道をのぼって行くとレセプションがある。レセプションから各自の部屋に案内されるのだが、途中狭い通路を曲がりくねりながら何度も階段を上がったり下りたりするので、方向感覚が失われてしまう。迷路のようである。たどり着いたわれわれの部屋は不思議な間取りであった。入り口を入るとすぐ寝室があり、大きなダブルベッドがあった。左手に少し曲がったへこみの扉の奥にはトイレと浴室があった。ここまでは普通の西欧型ホテルである。しかし、トイレと反対側に曲がった階段があり、そこを上ると中二階のような高さに窓もドアもない小部屋があり、そこにベッドマットが敷いてあった。多分昔は召使いかボディガードが使ったのだろう。一緒に連れてきた倅が親父とダブルベッドに寝るのは嫌だといい、この召使い部屋で寝ることにした。

翌朝はさわやかな晴天であった。同行のI氏がプールサイドでモーニングティーを飲もうと誘ってくれたので倅と一緒にプールのある屋上ガーデンに行った。そこからは朝日に映えるニムラーナの村が一望でき、すばらしい景観だった。I氏の声でふと山の方を振り返ると、野生のクジャクが2羽、斜面のブッシュと城塞の屋根にとまって互いに鳴き合っていた。どうやら雄と雌らしい。写真好きのI氏は早速カメラを構えて雄が羽を広げるのを待ったが、ついに何事も起らずクジャクは去ってしまった。この城塞ホテルは土に埋まっていた遺跡を発掘してそれを改装したのだそうであるが、その複雑な城塞の構造とホテルとしての近代的機能が絶妙にマッチしたデザインなのである。ここに泊まる客はその何とも言えない不思議なエキゾティズムに魅せられてしまうのである。

レストランで朝食を摂った後、I氏の提案で城の外の街を見に行こうということになった。城門を出るとすぐ、道ばたにあった小さな店から目つきの鋭い若者が出てきて、話しかけながらわれわれと一緒に歩き出した。どこから来たのかとか、何が見たいのかとか言っているようだった。城門の外は、街というより小さな田舎村であった。道が悪く未舗装の泥道には、村の家庭排水がそのまま流れ出てきており、道の真ん中に汚水の川ができていた。ホコリだらけのトラックが荷台に一杯の荷物を積んでその汚水の川にタイヤを半分落としヨタヨタと左右に揺れながら走ってくる。汚水のハネがかからないように避けながら歩いて行くと、村人たちの視線を浴びていることを感じた。さきほどの若者のほかに次々とわれわれに付いてくる人間が増えた。私と倅は緊張で少し体を固くした。どこかで取り囲まれて金を強請り取られるのではないかと心配になったからである。しかしI氏は平然と写真を撮り続けていた。ホコリだらけの泥道の脇では、昔ながらの鍛冶屋さんがガタガタと音を立てて回っている古い機械を使って農具を作っていたりする。ずっと昔どこかで見たことのある風景であった。やがて何事もなく再び城門をくぐってフォートホテルに戻った。例の不審な付け人たちは結局われわれが城門をくぐるまで付いてきたがそこで去っていった。

ホテルをチェックアウトしてデリーに戻るクルマの中で私は考え込んでしまった。あの豪華で見事なデザインの城塞ホテルの中と、デザインの世界から忘れ去られてしまったような城外の貧しい村との信じられないようなコントラストは何だったのだろう。これは最初にデリーに着いたときに感じた、スラム街と高級住宅街のコントラストに似ているが、少し違うように思えた。あの小さな村の住人たちはカフカの小説にあるような城を毎日眺めて暮らしているのだが、それは別世界でありながら、「村の誇り」でもあるかもしれないのである。彼らはそこにやってくる外国人やインドの金持ちたちが落としていく金の幾ばくかのおこぼれにあずかることもできるし、運が良ければ城に職を得ることもできる。彼らは決して卑屈なゆすりやたかりなどではなく、堂々とお金儲けをしようとしているのである。そのような彼らの気持ちを理解することなく、付け人たちに身を固くして構えていた自分がいささか恥ずかしくなってきたのであった。

ニムラーナの城塞ホテル外観

ニムラーな城塞ホテルのプール。

ひとたび城外に出ると、このようなぬかるみの続く田舎の村。

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2007年4月26日 (木)

Gippytummy

インドに行く前に、水には気をつけよと言われてきた。念のため下痢止め薬も持ってきたのである。しかし、である。

デリーのP氏の案内で、ファティープル・スイークリーを見学した後、アグラに行き、タージマハールにほど近いホテルに泊まったのである。その晩、P氏の部屋で一杯やることになった。私がジントニックが好きだと言ったので、P氏はちゃんとジンを用意してきてくれたのである。彼はホテルの係員に氷をもらってきてくれて、冷たいジントニックで乾杯をした。暑い一日だったので冷えたジントニックは実にうまかった。話は弾み、夜遅くまで飲み、したたかに酔ってベッドに着いた。ところが明け方近くなってお腹がゴロゴロ言い出し、トイレに行った。少々下痢をしてしまった。ちょいと飲み過ぎたかなと思い、念のため日本から持ってきた下痢止めを呑んでそのまま休んだ。

翌朝早くタージマハールを見るためにクルマで出かけた。そこでのことは前回書いた通りである。その後アグラ城を見学してからいったんデリー空港に戻り友人のI氏をピックアップして今度はニムラーナという田舎町にあるフォートホテルに行くことになっていた。往復数時間のドライブである。ところが、このドライブの途中で腹がゴロゴロ言い出し、猛烈な便意を催しだした。何とか我慢しようとしたが、堪えきれずP氏にトイレに行きたいと告げた。P氏はドライバーにもう少し行くとハンバーガーショップがあるからそこに寄ってくれと指示していた。ハンバーガーショップに着くや、クルマを降りてトイレに急行した。しかし、トイレに着く前にすでに暖かい物が肛門から漏れ始めたのを感じた。汚れたパンツをトイレのゴミ箱に捨て、とにかく出す物は出したので楽になって再びクルマに乗った。

デリー空港でI氏をピックアップし、夕暮れ近い街道を田舎町のニムラーナに向けてひた走った。やがて再び腹の具合がおかしくなり始め、猛烈な便意が襲ってきた。もう日はほとんど暮れて、暗い田舎の道ではトイレもない。おまけに途中の州境で検問のため渋滞がありかなりの時間待たされた。とうとう堪えきれなくなって、街道筋の小さな店でトイレを借りることになった。クルマを降りた瞬間、下の方からドッと生温いものが溢れ出して一気にスネを伝って流れ落ちていくのを感じた。トイレに着くまでにズボンの裾からボタボタとそれがたれ落ちるのが分かった。途方もなく惨めな気持ちであった。トイレは真っ暗で電灯もついていない。仕方なく夜陰に乗じてトイレの外の野外で用を足し、持ってきたロールペーパーで後始末をした。2枚目のパンツをそこに捨て、ズボンに着いた便を拭き取ったが、とても拭ききれる状態ではなかった。仕方がないのでそのままズボンをはいて、クルマに乗るときに新聞紙を尻に敷いて乗った。もう恥も外聞もなかった。そのまま一時間ほど走った後、ニムラーナの古い城塞を改装したホテルに入った。そこで部屋に入ってから浴室でズボンを洗濯し、風通しの良いテラスに干した。夕食の際P氏に日本から持ってきた下痢止めが効かなかったというと、「インドの下痢には日本の薬は効かないよ。インドの薬をあげるからこれを呑みなさい。」といって錠剤をくれた。確かにその錠剤を呑んだ後下痢は止まったが、今度はもともと腸内に住んでいた善玉菌までも薬でやられてしまったらしく、どうも食欲がなく今ひとつ腹の状態もすっきりしなかった。

ずっと食べ物や飲み物には気をつけてきたのに、何が原因なのか最初はさっぱり分からなかったが、後になってから、どうもあのジントニックの氷が原因であったらしいと気づいたのである。しかし、好意で冷たいジントニックを作ってくれたP氏にはそんなことは言えなかった。だが、それにしても、なぜ一緒にジントニックを飲んだP氏は大丈夫だったのだろう?私の推測ではインド人であるP氏にはすでに免疫ができていたからであろうということだ。

それにしてもインドの「バイキンマン」は強い!日本の「下痢止めアンパンマン」は敵わなかったのである。これもインド4000年の歴史の成果なのか!?いずれにしてもインドはバイタリティーに溢れた国である。

デリー郊外の商店。


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2007年4月25日 (水)

タージマハール考

前回に引き続き、インド旅行での印象を記す。
デリーからクルマで1時間半ほどの所にあるアグラには有名なタージマハールがある。300年以上も前に、造営されたこの宮殿のように美しい建物と庭園は、17〜18世紀の北インドを支配していたムガール帝国の王であった人が、愛する后に先立たれ、后のメモリアルとして無数の労働力と当時の国家財産の大半を使って建てたものである。大理石造りのこの世界遺産を排気ガスから護るため、クルマは周辺数キロメーターの範囲で立ち入れないし、工場も建てられないそうである。そのため、途中でクルマを降ろされ馬車に乗り換えさせられた。
初めて見たタージマハールは、さんざん写真で見てきたにも拘わらず、あらためてその美しさに一瞬フリーズしてしまった。ちょうど朝日が昇る時間に、薄紫の淡い陽光を受けて、朝霧の中に浮かび上がったその真っ白な姿はまことに感動的であった。まさに絵のようなこの情景は、しかし、一歩一歩宮殿に近づくにつれて、これが本物なのだという実感を徐々に増した。それはまず、その大きさであった。写真で見ると大きさの実感は分からない。近づいてみると、白い大理石はやや黄ばんではいるが、いまでも純白の宮殿というに相応しい。タージマハールはその入り口近くに来ると、圧倒的な大きさで視野を埋め尽くすのである。しかもそのディテールは、近づくほどに、驚嘆すべき密度で現れる。大理石に描かれた幾何学的抽象文様がくまなく広大な室内を覆っている。それが単なる壁画ではなく象嵌であることに驚かされる。正面ゲートから続くシンメトリカルなフランス的ともいえる庭園といい、四方から見て同じシンメトリカルなデザインの建物といい、くまなく室内空間を埋め尽くす緻密な文様といい、イスラム特有の論理的・数理的計算を感じさせるデザインである。それでいて優美で女性的な美しさにあふれているのである。このような美しいメモリアルを造営してもらうほど王に愛されていた后はまことに幸せ者であったと思う。しかし、その後王は、タージマハール建造において国家予算の使いすぎで、責めを受け、息子に幽閉され蟄居を余儀なくされる羽目となった。タージマハールから1キロほど離れたアグラ城の蟄居部屋から毎日夕日に映えるタージマハールの遠景を眺め、后の思い出に浸りつつ寂しい余生を送ったのだそうである。
私はこの話を聞いて、ふと思った。領民にとって、王は確かに無計画で、領民のことなどより自分の后の思い出のことしか考えないハチャメチャな王であったかもしれないが、そのハチャメチャさのお陰で、後世のわれわれが、この世にも希な美しさを誇るタージマハールと対面する恩恵を受けているのである。しかし、世界遺産の多くは、実はこうして、どうしようもない勝手な独裁的支配者のお陰で文化史に登場したのである。当時貧困の中でタージマハール建設の重労働に耐えた職人や労働者たちからみれば、かく言うわれわれはまことに勝手な連中であろう。歴史の皮肉とでもいうべきであろうか。
しかし、さらによく考えてみれば、たとえそのきっかけを作ったのは王であったとしても、その美しい人類の遺産を直接生み出したのは、毎日貧困と苦しい労働にあえぎながら、気の遠くなるほど長期にわたってそれに耐えた労働者や職人たちなのである。王は自分の美意識を実現させるために、高度な美的センスと政治・経済的支配権を持ってはいたが、実際それを目に見える形に実現し得たのは、棟梁であり、石工であり、装飾職人であり、建具師であり、重い石材を運ぶクーリーたちであった。彼らは、それがどれほど美しいものを生み出す労働なのかなど考える余裕もなく、毎日の与えられた労働と生活に明け暮れていたであろう。王はあたかも自分が一人でこの美しい宮殿を造り出したかのように思いこんでいたであろう。こうしてそれぞれの人々の喜びも悲しみも苦しみもすべてを包み込んでこの美しい宮殿はインドの大地にいま佇んでいるのである。

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2007年4月24日 (火)

Made in India

先月インドに初めて旅行した。私の友人のインテリアデザイナーI さんがP氏が経営する インドの会社を通じてインテリア用品のデザインをしており、たびたびインドに行くので一度一緒に連れて行ってもらおうと考えたのがきっかけであった。

夕暮れのデリー周辺の街では、猛烈な交通ラッシュに驚いた。普通のクルマはもちろんのこと、小型オート3輪タクシーやバイクが10センチでも先に割り込もうとクラクションを鳴らして猛烈なせめぎ合うをやり合う。そこに大型のトラックやボディーがベコベコになって窓ガラスもないバスが小型車をかき分けながら割り込んでくる。車線の真ん中には牛が交通ラッシュなどどこ吹く風かと言わんばかりにのんびり寝ころんでいるのでクルマはそれをよけて通らねばならない。そしてそれらの間隙を縫って歩行者が乱れ歩く、といった具合である。交差点で信号待ちしていると、どこからともなくぼろを纏って幼い子供を抱いた物乞いたちが現れ、クルマを取り巻いて窓をトントンと叩く。悲しそうだがきつい視線で中にいる私を見つめ、金をくれとせがむのである。私は目にやり場に困った。

ようやく信号が青になってクルマが走り出し、ホッとするが、窓外の町並みは、貧しい。ほとんど崩れかかったような2階建てに煉瓦積みの家並みが続き、窓ガラスもない部屋の中は外から丸見えである。そしてやたらと多い人間の数。用もなさそうなのにブラブラ歩いている人たち、露天の周りでしゃがんで何か食べながら仲間と話をしている人たち、路上にツバを吐きながらいいカモはいないかとねらっているような目つきの良くない人たち、哲学者のような容貌の孤独で貧しそうな老人などなど。

しばらく公園のような樹木の多い地区を過ぎて、番人の居る踏切のようなゲートを通過すると、その中は高級住宅地区であった。入り組んだ城下町のような道を何度も曲がって、ようやくインド人実業家のP氏の邸宅に着いた。

邸宅の前でヘッドライトを上向きにすると、門番がガラガラと大きな門扉を開けた。中にはいるとそこには高級車が何台も駐車している。それぞれ家族のクルマだそうである。それに専属の運転手もいるらしい。美しいサリーを着た家族の女性たちに案内されて、入った邸宅の中は、どう見ても我が家の10倍くらいの広さである。広いホールを挟んで大きなキッチンとダイニングが2つづつあり、状況に応じていろいろと使い分けているのだそうだ。親や兄弟家族も一緒に住んでいるので、大家族である。食事は専属の料理人がおり、いつでもすぐに用意してくれるらしい。インテリアはちょっとクラシックで、派手ではないが贅沢な造りである。朝になると庭に野生のクジャクがやってくるそうである。P家の人々は実に親切で明るく感じの良い人たちであった。

インド製の絨毯や家具などは、欧米や日本で安くて良質なデザインのインテリアグッズとして人気があるが、それがどのようにして作られているのかはあまり考えたこともなかった。P氏は、このような先進国の買い手の要望に応じて日本人デザイナーにデザインさせ、インド人職人の安い労働力で作らせた絨毯などを日本や欧米に売り込むことで富を築いたのであろう。

わずか数時間の間に、デリーの街角でかいま見た下層庶民の生活と、上流階級の人たちの生活のあまりにかけ離れた世界。これがインドの現実なのだと少なからずショックを感じた。そしてわれわれ日本人もインテリアデザインという「個人的な趣味の世界」においてこのインドの現実にコミットしているのである。インド人職人たちの生活を実際に見る機会はなかったが、おそらくは、下層階級に属する人々であろう。インドでは古いカースト制が残存していてそれがインド社会発展のための大きなネックになっていると聞いたことがあるが、実はそのカースト制をうまく利用しているのではないだろうかという疑問も湧いた。

その後のインド旅行中でも、いろいろと考えさせられることが多かったのである。

デリー近郊の市街地にて

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