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2007年6月3日 - 2007年6月9日

2007年6月 8日 (金)

モノづくりにおける目的・手段関係

本来のデザイン行為が人間のモノづくり行為の中にあるということはすでに述べた。

人間が、類人猿からどのようにして人間になり得たのかという問題に関しては、さまざまな研究があり、最近ではさまざまな新たな知見が発表されているので、それらを参照して頂けるとよいと思う。その中で古くから言われているように、道具を用いるようになったことと、言葉を獲得したことが大きな転機であったことは確かであると思われる。道具を使うようになったということは、何かの目的を達成するために、あるものをそのための手段そして用いるという行動パターンの形成ができるようになったことを意味する。これを「目的=手段関係」と呼ぶことにしよう。実は、「目的」は、客観的にどこかに存在するのではなく、つねに「目的意識」という形で、意識の内部にある。しかし、目的は実現されたあかつきには、外在的な存在となるのである。目的意識の原型は、多くの人間以外の動物にも見られる「本能」であると考えられる。個体生存本能、種の保存本能は本能の中核をなし、動物や、さらに広く生物一般の持つ根源的能力であるともいえる。この本能を、「目的=手段関係」として、より意識的に行おうとするのが人間の「モノづくり」であるといえる。本能の段階では、自分と外界との区別が「即自的」であった(つまり自己が未分化だった)のが、「目的=手段関係」が形成されるようになったことによって、自分と外界の区別を意識できるようになったと考えられる。例えば、食べ物がなくなり、飢えているときに、目の前をウサギが横切ったとしよう。初めはウサギを追いかけて手で捕まえようとするだろうが、やがて、それが無理と分かると、人間ならば何か道具を使って捕まえようとするだろう。たまたまそばに適当な大きさの石ころが転がっていたとしよう。人間は、すぐさまその石ころを掴み、ウサギに向けて思い切り投げつける。そしてそれが見事に当たれば、彼はようやくウサギを捕まえることができ、飢えを凌ぐことができることになるだろう。このとき、石ころはウサギを捕まえるという「目的」のための「手段」としてその「機能」を発揮したのである。実は「目的=手段関係」とは、「機能関係」と呼び変えてもよいものである。そして、この石ころがある目的のための手段としての機能を発揮することを知ることによって、外界に「客観的に存在するもの」が、意識内部にある「目的」を達成(外在化)させるために必須の存在であることに気づくのである。ここに、目的意識を持った自分という主体的存在と、それを達成させる手段という客体的=対象的存在、そしてさらには目的意識を発生させている根拠としての「外界と自分との関係」という存在を人間は知るのである。

ここでは、ウサギを捕まえるために、たまたまそこに適当な大きさの石ころが転がっていたから、それを手段として用いたのであるが、いつもそう都合よく手段が転がっている訳ではない。そこで、当然、人間は、その手段となるべきものを自分の手で作り出そうとしたであろう。それが人間の「モノづくり」の始まりであったと考えられる。

 人間は、「モノづくり」によって、外界(自然界)にもともとあったものに手を加え、自分の目的にあった(つまり手段として相応しい)形に作り替えることを始めたのである。それによって、手段は偶然そこにあったものを用いたり、一生懸命探さなくても、つねに手元にあることになった。それは、自然の加工であると同時に手段の創造でもあった。偶然自然に存在したものが、最初から人間の目的意識を達成させる必然性を持った「道具」に変身したのである。だから人間の作り出すモノはほとんどすべて、この道具性を具えているといえる。

  したがって、人間が生み出したモノは、最初からその目的に沿った形をしており、目的を達成するための機能を持っているのである。そのため、人間が生み出したモノは人間の内面の意識の表現でもあり、この客観的な、生み出されたモノを通じて、他の人間はそのモノを生み出した人間の内面を知る手がかりを得るのである。人間の生み出したモノは、それが何のために創り出されたのかという意味で、その目的意識を客観的な形で表現しており、共同体において個々の成員によって共有できる意識の媒介物にもなり得たのである。それは、生産のために必要な道具という共通の意識をもたらす場合もあったであろうし、共同体を結束させるシンボリックな「意味」を形成する場合もあったであろう。そういう意味では、人間の「モノづくり」は言葉の発生や芸術的表現と切っても切り離せない深い関係にあったと考えざるを得ない。

 さらに言えば、人間はモノづくりの中で、かつて物理学者 武谷三男が言ったように、自然界の持つ「客観的法則性」を目的意識に沿って「意識的に適用する」ことを通じて、技術の本質を身につけるとともに、そこから自然界の法則性を、より深く知ろうとする科学の本質をも身につけるようになったと考えられる。そしてその能力が、やがて17〜18世紀ヨーロッパで、科学として自立し、逆にその後の産業革命期において技術や工学の飛躍的発展をもたらすことになったのである。


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人間の普遍的能力としての「デザイン行為」

 販売促進の武器として、消費社会の旗手として登場したデザイナーという職業は、「修正資本主義社会」という特殊歴史段階のミッションを持って現われたが、いま○○デザイナーといわれる人々がやっているさまざまな仕事の中身は、実はそれ以前の時代において、家具職人であったり、建具屋であったり、馬車職人(コーチビルダー)であったり、陶工などの仕事に該当するものであったりすることが多い。もちろん、電子機器やOA機器などは、あらたな人工物のジャンルであるから昔はなかった。さらに遡れば、城郭や橋、船などの建造、普通の人が住む家を造る人、農具を作る人などの仕事の中には、すべて本来の意味でのデザイン行為が含まれていたと言えるだろう。しかし、その当時はだれも自分が「デザイナー」だとは思っていなかったのである。

 現代においてさえ、自分はデザイナーだと少しも思っていない人たちが見事なデザインをやってのけていることが多い。例えば、ケララのバックウオーターで300艘もあるといわれるボート・ホテルも写真で示したように現地の素材を生かした実に見事なデザインである(Viva Kerala-2 参照)。その気候に合った居住性、風景にマッチした外観ともに現代のもっとも優れたデザインの一つに入れて構わないだろう。こうした、いわゆるアノニマス・デザインにこそ、長い時間をかけて、リファインにリファインを重ねて完成されてきた息の長いデザインが多いのである。それは、現代の大量消費社会の職能としてデザイナーがやっているような、せいぜい数年使うだけでゴミとして廃棄してしまうことを前提にデザインしているのとは、ワケが違うのである。

 私は、この、人類が「ものづくり」を初めて以来、営々と何万年も磨き上げてきた本来のデザイン能力こそ、いま地球環境問題が危機を迎えている時代に必要な能力だと思う。それは決して、デザイナーという職業のみが行いうるものではない。社会のあらゆる分野に働くあらゆる人々が潜在的に持つ、本来のデザイン能力を共通の大きな目的に向けて結集すべき時代なのだと思う。

 私は、かつて奉職していた大学で、このような、本来誰でもが持っている能力としての、デザイン能力をどう抽き出し、どう磨き上げて行くかという問題を中心に「デザイン基礎演習」およびその理論篇である「デザイン基礎論」という授業を行ってきた。従来のデザイン系大学での「基礎デザイン」という授業のほとんどは、色彩論と形態論という心理学や芸術表現の基礎理論に近い内容であった。しかし、本当にデザインの基礎理論がそれだけでよいのかどうかつねづね疑問に思っていた。そこで、デザイン思考とデザイン知識という、より普遍性の高い視点で新たなデザインの基礎理論を私なりに構築しようと試みたのであった。

 「デザイン基礎演習」は、受験勉強で多くの知識を学びながら、それを実際に何かの問題解決において適用してみる機会もなく、ただ大学に入るためだけに覚えてきた学生に、ものづくり的な問題を与え、その解決の中で知識のインテグレートと適用の体験をさせようというのが目的であった。

 例えば、「たまご3個を一度に持ち運ぶ道具を、紙だけ使って作りなさい」という課題を与えた。学生は最初戸惑っていたが、やがてたまごという手がかりのない曲面体を紙の持つフレキシブルな材質でどうサポートすればよいかを、いろいろ実際に試しながら考えて行った。その結果、実におもしろい、見事な解決がいくつか生み出されたのである。

 デザイナーに必要な技術として製図の図法を教えていた私は、まずアイデアスケッチを描き、次にレンダリングを描き、それを図面化して外形モデルを制作して課題を完成させるというデザイン演習の教育方法にもかねがね疑問を感じていた。モノをつくるには、つくったモノが本当にうまくデザインされていたかどうか使ってみなければ評価はできないのである。そして、モノをデザインする過程においても「試してみる」ことを繰り返しながら、デザインを決めて行くのが本来の姿であると考えていた。この「試行錯誤過程」こそが健全なアノニマス・デザインの中に見られるプロセスであると思う。

 上述した授業はまた、学生がどのようなプロセスでデザイン問題を解決をして行くのかを観察するよい機会でもあった。学生の思考のプロセスの中で、何が問題を解決させる手がかりになったのか、どうすればその問題解決と発想のプロセスをうまくサポートできるのかといった問題に、以後、私の研究テーマが絞られていったのである。

 それ以前に、すでに私は、コンピュータを用いて、どのようにデザイン発想を支援できるかという研究テーマで研究を重ね、いくつか論文を書いていた。しかし、どうしても「デザイン発想支援」という目的が、しっくりしないので、悩み抜いていた。要するに、今日の大量消費社会のもたらす害を促進させる研究なのではないかという疑問であった。それに対する私自身の回答が、このブログで述べてきた(そしてこれから述べようとしている)私のデザイン思想であり、実際の授業での回答が上記に述べた「デザイン基礎論」であった。しかし、私は大学での長い助手時代に11年間も「干され」ていたという大きなハンディーがあり、研究者として社会に貢献する時間があまりにも短すぎたため、志なかばで大学を退職せざるを得なくかり、いまだにその研究の成果を世に問うことができていない。

 そこで、このブログでは、これから新たに「新デザイン論」というテーマで、私の考えているデザインの本質について述べることにしようと考えたのである。話は設計論から哲学や論理学にまでおよぶ予定なのでいささか退屈かもしれないがお許し願いたい。


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2007年6月 7日 (木)

職能としてのデザインと普遍的なデザイン行為

 さて、ここでようやく、本来のデザイン論へと話は辿り着く。

 すでに述べたように、インダストリアル・デザイナーという職業は、1920年代のアメリカにそのルーツを持つ。その「誕生の秘密」は販売促進であり、社会経済的背景は、いわゆる修正資本主義社会における、恐慌を防ぐために過剰資本を蓄積させずに、資本の利潤を獲得するメカニズムとして、労働者の見かけ上の賃金を高水準に維持することで「消費力」を付けさせ、それによる生活資料などの不生産的消費の拡大促進を図るという仕組みである。この「修正資本主義社会」のモデルとなったアメリカ型消費社会が、第二次大戦後西欧や日本に定着したのである。そこにはインダストリアル・デザイナーが「生活の夢」を演出する役割として要請され、職能教育機関も整備されてきた。かく言う私も、そのまっただ中でデザイン教育を受けで育ってきたのである。

 デザイン教育の中で、このような職能としてのデザイナーを肯定し、それを普遍化しようとするのはむしろ当然であったというべきであろう。実際、1970年代頃まではデザイナーがわれわれの生活の在り方に形を与え、そのモデル(そのモデルが良いか悪いかは別として)を生み出す役割を果たしてきたのである。しかし、21世紀初頭の現在、もはやそのモデルは通用しなくなった。つまり、もはや、かつての職能としてのデザイナー像は、決して普遍的な姿ではなかったことが明らかになったのである。理論面においても、マーケティングの手法をデザインの理論として大学で教え、「商品の差別化」のためのアイデアの創出手法、などということがデザイン理論の「最先端」とされるようでは、デザインの本来解決すべき問題が何も見えてこないのである。

 かつて、 19世紀末、資本主義社会がすべての生活資料を商品化し、それらを生産する労働が資本家的に分業化される有様を見て、それに対抗すべくアーツ・アンド・クラフト運動を興して異議を唱えたのがW. モリスであった。しかし、彼は資本主義社会のもたらす技術と生産力の向上という積極面をも否定し、中世の生産様式に戻ろうとしたために運動は挫折してしまった。その後、1919年、第一次大戦での悲劇を教訓化し、新生ドイツのワイマールに生まれたバウハウス運動も、資本主義社会のもたらす矛盾を「芸術家的な目」で直観し、社会主義思想の影響を大きく受けて出発した。バウハウスはデザイン運動であるとともに一つの思想運動でもあった。しかし、これも1930年代中葉にナチスにより弾圧され、挫折してしまった。

 大正末期から昭和初期にかけて、わが国でも柳 宗悦らによる民芸運動が起り、西田哲学や柳田民俗学などと影響し合いながら、資本主義社会に代表される近代西欧文明とその生活様式への異議申し立てがあったのである。この中には当時のナショナリズムと結びつき、日本が「大東亜共栄圏」の生活のモデルとなることを主張した「汎美計画」を出版した小池新二(私は1965年に大学で小池氏の最後の教え子であった)もいた。しかし、第二次大戦後、これらの流れは、その思想的な面が換骨奪胎され、形だけの(しかも付加価値を目指した商品としての)クラフト・デザインあるいは日本的伝統デザインとして受け継がれたのである。

 第二次大戦後の新たな資本主義的生活様式は、これらの運動とは無関係に、アメリカ型民主主義とセットでわが国に上陸し、戦後一時期の混乱をくぐり抜けて、1960年代から90年代までアメリカ型生活文化が花開いたのである。そしてその中で、インダストリアル・デザイナーの職能も、「普遍性」を付与されたのである。

 しかし、言うまでもなく、人類は、自らの手でモノを作るようになって以来、数十万年に渡って、本来の意味でそれをデザイン(つまり、それが作られる前にすでに頭の中でそのイメージを浮かべる行為)し、労働の結果として出来上がったモノを生活の中で用いることによって、そのデザイン行為の善し悪しを確かめてきたのである。これを「普遍的なデザイン行為」あるいは単に「デザイン的行為」と呼べば、現代のデザイナーは、現在の社会が持つ歴史的に特殊な商品経済的仕組みにもとづく社会的要請の中で、モノづくり(生産的労働)の中のデザイン行為的な一部面が、「使う人間との接点になる部分の形や色について考え、デザインする分業種」として独立した職能となったのだと言えるだろう。それは決して本来の「普遍的デザイン行為」そのものではなく、その歴史的に特殊な現象形態であると言えるだろう。

 このような視点で、職能としてのデザイナーと普遍的デザイン行為とを区別するとき、初めてデザイナーの本来のミッションが、その特殊的分業種としてのミッションの範囲を超えた、つまりデザイナー以外のあらゆるモノづくりに携わる分業種の人々との連携の元に新たな社会的生産の仕組みを生み出す方向に向けられねばならないことが明らかになるのである。

 ここで誤解を避けるために断っておくが、私は、デザイナーという職業を現代資本主義社会とともにあとかたもなく壊滅させようとなどいう過激な思想は決して持ってはいない(どだい、そんな思想はまったく現実性がないのだから)。むしろ、「使う人間との接点になる部分の形や色について考え、デザインする分業種」として独立したがゆえに、人間の普遍的労働の中のデザイン的側面が、目に見える形でわれわれの社会に登場したのであって、ただそれを生み出した社会のメカニズムが持つ矛盾を当然のことながらその分業種も「誕生の秘密」として抱え持っているということを言いたいのである。

 そしてこの了解のもとに新たなデザイン論は展開されるべきである、というのが私の主張である。

 さらに言えば、資本主義社会は、社会の主人公であるべき労働者階級(直接モノを生み出す人たち)に多大な犠牲を強いながらも、ある時期、社会全体の生産力を著しく向上させ、科学技術の進歩を促したという意味で、人類社会にとって積極的な意味を持っていた。しかし、20世紀後半からのいわゆる「修正資本主義社会」で、すでにその限界を現し、経済恐慌による歯止めがかからない、際限のない大量消費によって地球全体に危機をもたらしている。「修正資本主義社会」は、日々地球を危機に近づけながらもコントロール不能に陥り、本来社会的に必要な生産ではなく、グローバルな過剰資本の回転にのみその利潤源を依存するという「寄生性」をあらわにしているのである。

 すでに歴史的な使命を終えた資本主義社会を強引に維持しようとするのではなく、むしろ資本主義社会が産み落として行った科学技術の成果を以って、それを新たな経済社会の仕組みの中で、より全人類のために生かすことを考えるべきなのだと思う。例えば、コンピュータサイエンスとネットワーク社会という遺産は新たな社会をデザインする場においてこそ本来の力を発揮するのではないだろうか?いまこそ、資本主義社会が遺したこれらの科学技術を駆使して、新たな、地球全体が有機的に連携した社会が求められているのであり、地球を危機に陥れる際限のない大量消費社会ではなく、「必要ものを必要なだけ生産する社会」をデザインすることがわれわれに求められているのではないだろうか。

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2007年6月 6日 (水)

「浪費人間」の悲劇とアジアの民

 昨年、退職金を叩いて、老後のために家の建て替えをした。そのとき、古い家の物置小屋に入っている10年〜30年以上も前に買ったさまざまな古い使わなくなった製品の処分をした。壊れた家具類、使わなくなったアウトドア用品、古いビデオカメラ、古いパソコン、古いストーブ、子供が小さかった頃に買ったおもちゃ類、そしてそれらが入っていた箱などなど。その膨大な量の「ゴミ」を処分しながら、つくづく、自分の人生はただ、まだ使えるモノを使わなくなり、捨てては、新しいモノに買い換える、という生活を繰り返してきたのだと思い知らされた。日本の経済はこうして生活者に膨大な浪費を生み出させ、浪費することこそが人生であるような人々(私自身を含む)を生み出すことによって成長してきたのである。その中で、新しいデザインのクルマが出れば、多少無理をしても貯金を叩くかローンを組んでそれを買い、ボーナスが出れば、それで新しいビデオカメラを買って子供の映像を記録した。モノを買うことに生きがいを感じ、もらった給料の可処分部分をそのように浪費して行ったのである。このように十分にその寿命を全うせずにゴミと化すような製品をデザイナーの力を借りて次々と作っては売ってきた企業は、われわれの給料をそういう形で吸い上げ、利潤を増やして行ったのである。「消費者の立場を大切に」と言われ、あたかも世の中に「生産者」と「消費者」という違った人間集団があるかのように思い込まされてきたわれわれは、実は、労働の場では「生産者」の手足として働き、家に帰ると、明日の労働力を養うために、生活資料を消費する「消費者」に早変わりするのである。実際に職場ではわれわれの手で消費材を生産しているのに、なぜ生産者とは呼ばれずに「消費者」としか呼ばれないのか?このような消費人間にさせられてしまったわれわれが、挙句の果てには、省エネキャンペーンの対象となり、環境問題の責任の一端を持たされ、「消費者の意識革命こそが必要だ」などと言われ、今度は新たにエコ製品を買わされるとは、何たる屈辱か!エコ製品が増えれば、そうでない製品に埋め尽くされた状態に比べて一時的には環境破壊物質の増加率が低下するだろうが、生産の総量が減らない限り、決して環境破壊は根本的に解決はできないであろう。

 このような情けない「浪費人間」に成り下がってしまったわれわれが、「先進国の民」という自尊心の色眼鏡を掛けているために、まったく見えなかった世界がある。それがあのケララの民に見たようなアジアの人々の生活である。

ケララのゆったりとした時間と、昔ながらの生活を変える必要のないところは自信を持ってそれを維持し、必要最小限の近代技術を取り込んで自分たちの文化を守っている人々の生活ぶりを見て、私は少なからずカルチャーショックを受け、それがこのブログを書き始めるきっかけになったと言ってもよいのである。

 もちろん、ケララの人々の生活にも実際はいろいろな問題が山積しているだろう。決してそれが「現代の理想郷」ではないことは明らかである。しかし、おそらくは数十億人ものアジアの人々が、営んでいるさまざまな生活様式は、決してアメリカ・西欧・日本のような先進資本主義国の「便利なモノに溢れた生活」を目指しているのではないといえる。例えば、仮に中国やインドの人々がアメリカや日本と同様な大量消費社会になったしたら、地球環境はたちまち壊滅的な破壊を被り、石油や森林などの資源は完全に枯渇してしまうだろう。気候は激変し、農作物の収量は激減するだろう。このようなことは誰にでも想像のつくことである。

 もはや、アメリカ資本主義型消費社会は、われわれの目指すべき21世紀の生活ではなく、破綻した古い経済モデルにおける理想像でしかない。

アジアの人々の多様で質素な生活がそれを無言で示しているのである。


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2007年6月 4日 (月)

デザイナーのミッションー(2)

 第二次大戦に先立つ1930年代中葉、アメリカは F. ルーズベルト大統領の指揮のもと、大規模な経済改革を思案していた。アメリカの経済政策は一歩誤れば、世界の資本主義体制を崩壊させかねない重大な局面に立たされていたが、当時イギリスのケンブリッジ大学を拠点に経済学の研究をしていたJ.M. ケインズの「雇用、利子、貨幣の一般理論」(1936)で提唱する経済哲学がアメリカの経済政策に大きな影響力を与えていた。ケインズ理論の影響を強く受けたアメリカのニューディール政策では、当面、金融恐慌をもたらした過剰資本をいかにして処理するかという問題に焦点が当てられたと考えられる。

 イギリスやアメリカ、フランスなど、主要な資本主義国のほとんどが、第二次世界大戦前後に、それまでの金本位制を離脱し、管理通貨制に切り替えた。ニューディール政策では、通貨の価値を国家が中央銀行の機能を通じてある程度コントロールすることで、名目的には賃上げという形をとるが、実質的に労働賃金(労働力商品の価値)の資本価値に対する割合を相対的に引き下げながら、同時に電源開発や高速道路網建設などの大規模な公共投資を積極的に行うことで、雇用の確保と経済恐慌の防止を行おうとするものであった。

 この政策は、第二次世界大戦という大量破壊(戦争という不生産的大量消費)を通じて、はじめて軌道に乗り始めた。この政策をきっかけとして、戦後いわゆるクリーピング・インフレーションといわれる緩慢だが恒常的インフレ状態を維持しながら、労働者への名目的賃上げを通じて、消費市場を活性化させ、直接生産資本の過剰を防ぎながら同時に過剰資本を不生産的に消費することで、労働運動の激化をも防ぐことに成功したのである。ここに、生産資本の再生産に直接結びつかない大量消費(不生産的消費とでも呼ぶべき)を前提として成り立つ新たな資本主義体制の仕組みが動き出したである。こうして戦後は軍需産業とともに、労働者の生活資料産業がこの不生産的消費を支える2大分野として脚光を浴びることになり、不生産的大量消費が、戦後、資本主義社会において過剰資本の形成を防ぎ、従ってドラスティックな経済恐慌を防ぎながら膨大な利潤をもたらすメカニズムとして登場したのである。このケインズ・モデルによる新たな資本主義体制は修正資本主義とか国家独占資本主義と呼ばれており、この体制の中で、はじめてインダストリアル・デザイナーは新職業としての市民権を得たのである。

 やがて、大量生産・大量消費のメカニズムが先進資本主義国を覆いつくすことになったのである。販売促進のための宣伝広告やデザインが新たな産業の花形となり、労働者は名目的に上がって行く賃金を、産業側からの大消費キャンペーンに煽動されて、生活消費物資やレジャーなどに大半使うようになった。 一方で工学的技術革新による生産性向上が進むとともに、他方では生活消費財産業や、レジャー産業などの第三次産業が大きな比率を占め始め、国内の第一次産業は縮小し、輸入依存傾向を辿った。やがて、20世紀末には、生活廃棄物や自動車の排気ガスなどが急速に増加し、環境汚染が進むと同時に地球資源の枯渇が現実の問題となってきたのである。

 労働者は名目的に上がった賃金を大半、生活消費財産業やレジャー産業に消費し、貨幣を資本家の手に還元し、資本はそれによって大きくふくれあがった。しかし、その膨大な資本価値は、新たな利潤を目指すための資本として金融市場や不動産市場など再投資され、本来社会に必要なファンドとして、国家機構を介して労働者に還元されることは少なくなって行ったのである。もはや恐慌をもたらす心配がなくなった過剰資本は、国際的な過剰流動資本として世界中を駆け巡り、あるときはオイルマネーという形で、あるときは不動産マネーとしてそしてあるときは敵対的企業買収の資金としてわれわれの社会を蹂躙しているのである。

そしてその結果、世の中に働けど働けど暮らしが楽にならないウアーキング・プアーをどんどん輩出しながら、富は一部のニューリッチに集積しつつある。資本主義国の政府は、一方で地球環境の危機を訴えながら、同時に他方で、景気浮揚のために消費の拡大を叫ぶという全く矛盾した政策を推し進めているのである。多くの労働者たちは、国際競争に勝ち残るためと言われ、過酷な長時間労働で、心身ともに疲れ果て、限界に来ている。彼らはGood Designを享受することもできない。しかし、ニューリッチたちは、高級マンションや別荘を持ち、Good Design商品に囲まれた生活をしている。いったい誰のための競争なのか!地球環境を急速に悪化させ、自然破壊を推し進め、いったい何のための競争なのか!

デザイナーはこの流れの中で、いったい何をしてきたのであろうか?もともと販売促進の武器というミッションをもって誕生したデザイナーという職業は、これでもかこれでもかと本来買い換える必要もない、新しいクルマや耐久消費財を買わせて、モノの溢れる住環境を生み出し、ゴミの集積を生み出したのではないだろうか?たしかに、われわれはモノが豊富で便利な生活をすることができるようになった。しかし、それが本当に豊かな生活なのであろうか?

 デザイナーが悪いのでは決してない。むしろ、デザイナーという職業を生み出した経済社会の仕組みをわれわれはもう一度しっかり見直し、すべての人たちにとってそれぞれの形で豊かであるようなあらたな社会システムを、すべての人たちの手でデザインし直す時が来ているのではないだろうか。これこそが、本来の意味でのデザインのミッションなのではないだろうか?

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デザイナーのミッション−(1)

 商品に付加価値を付与するために有名デザイナーのブランドが用いられていることは前回述べた通りである。しかし、付加価値を付与することがデザイナーのミッションだと言ってしまえばそれで終わりかというと、ことはそう単純ではない。

 実は、なぜそうなのかということを解き明かすには、「デザイナー誕生の秘密」つまりデザイナーと呼ばれる職種が、世の中にどのようにして登場してきたかを考えねばならない。われわれが学生のときに習った近代デザインの歴史は、N.ぺヴスナーの「ウイリアム・モリスからバウハウスまで」が定本であったため、それがそのままデザイナーという職業の誕生の歴史であると思っていた。しかし、現実には、バウハウスとはほとんど無関係に、1920年代後半のアメリカに登場した、「インダストリアル・デザイナー」が直接のルーツであることを知ったのは大学を卒業してしばらく後のことであった。そしてその1920年代末こそ、ウオール街株式大暴落に始まる現代資本主義社会の一大転換点でもあったことを知ったのもその後のことであった。

 19世紀末までの西欧中心の産業資本主義社会は、ほぼ10年に一度の経済恐慌が起り、多くの労働者が路頭に迷った後、生産方式の改良などにより再び好況期が来るということを繰り返していた。この産業資本主義社会に特有の経済恐慌をどう捉えるかは経済学者の間でも意見が分かれるようであるが、経済学者 宇野弘蔵によれば、生産力の増大は生産物の価値を、したがって商品の市場価格を下げるが、好況期においては、労働力市場での労働力の供給が需要を上回り、労働力商品の価値つまり労働者の賃金が高騰し、それが資本の投入に見合った利潤を生み出し得なくなったときに、過剰資本状態となり、そのときの急激な信用への依存度の増大が、ドラスティックな経済恐慌を引き起こさせるといわれている。

 しかし、これは視点を変えて見れば、資本主義生産様式が、過剰資本を生み出さないようにすると同時に、間接的にそれによって過剰生産を防ぐ自動調整の役割を果たしていたとも考えられる。要するに資本主義生産様式では、労働者の多大な犠牲のもとに、経済恐慌という形で過剰に生産物を生み出さないように調整するメカニズムが働いていたともいえるのではないだろうか?

 20世紀に入って、ヨーロッパ中心だった資本主義社会は、アフリカやアジアにその版図を拡大し始め、植民地獲得競争が激化してきた。植民地の原材料や労働力を支配していった資本主義国は、金融資本という社会全体のあらゆる資本を支配しうる形で資本蓄積や投資を行い、同時に自らは産業資本主義時代の「モノづくり国家」から「金貸し国家」へと変貌しつつあった。帝国主義段階の資本主義といわれるこの状態は、やがて第一次世界大戦という形でその矛盾を爆発させることになった。数千万もの人々の命が失われ、その過程で、資本主義化が遅れたロシアに革命が起き、非資本主義的な社会体制を生み出させることになった。

 第一次世界大戦後、敗戦国ドイツでは、資本主義社会のもたらした悲劇に対する反省や、ロシア革命からの影響で、新たな社会体制への動きが盛んとなり、その流れの中からバウハウス運動も生まれたのである。初期のバウハウスのスローガンは反資本主義的内容を色濃く持っている。

 しかし、一方で、ヨーロッパとは一線を画して独自の資本主義体制を築いていたアメリカは、第一次大戦で戦勝国となり、大きく破壊されたヨーロッパの資本主義体制に代わって、敗戦国への賠償をめぐる資本援助などを通じて、相対的安定期といわれた1920年代の10年の間に、大きく国際的地位を上昇させた。高度な生産技術を持った産業資本と株式などによる金融資本の調達を駆使し、敗戦国への借款をテコとして、またたくまに巨大自動車産業や巨大電機産業を興し、大規模農業の採用などによって労働者や農民の生活様式を一新して行った。その発展の頂点にあった1929年秋にニューヨークのウオール街で突如株式大暴落が起ったのである。

 アメリカではこれと相前後して、W.D. ティーグ、R. ローウイー、N. ゲデスなどといった舞台美術家や彫刻家などの前歴を持つ人たちが、「インダストリアル・デザイナー」という看板で旗揚げし、さまざまな工業製品のデザインを手がけるようになった。この経緯は、例えば、R, ローウイー著の「口紅から機関車まで」に詳しく述べられている。

 また自動車メーカーGMにおいては、Tモデルで独走していたフォード社に打ち勝つ戦略を掲げたスローンの指揮によりクルマの買い替え需要を狙った戦略を立て、Color and Styling Sectionが社内に設けられ、画家のH. アールが招き入れられている。少し遅れて1930年代になると、イギリスでもアプライド・アートという名前で呼ばれていた同種の職業が登場し始めており、ハーバード・リードが第二次世界大戦直後の1940年代後半にこれらを取り上げ、「インダストリアル・デザイン」という本を出している。

 ウオール街の株価大暴落に始まった金融大恐慌は、1930年代になると、世界中の資本主義国を不況の大波に飲み込むことになる。アメリカでは失業者が街に溢れ、労働運動が高まり、新興ソ連を中心とした「社会主義勢力」の影響力が次第に増しつつあった。チャップリンの「モダンタイムス」に描かれた通りである。ドイツではアメリカやイギリスなどの戦勝国へのナショナリズム的反発が強まり、ソ連の影響下にあった左派勢力を強権的に抑えてナチスが政権を掌握する。そしてバウハウスは閉鎖されることになったのである。

 やがて再び、今度は、当時すでに東アジアへの侵略を始めていた日本をも巻き込んで、第二次世界大戦の悲劇が繰り返されることになるのである。この第二次大戦を挟む10年ほどの過程で、資本主義社会はどう変わったのか、そしてその中でデザイナーという職種がどのようなミッションを負って登場したのかを次に見てみることにしよう。


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