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2007年6月10日 - 2007年6月16日

2007年6月14日 (木)

モノづくりにおける機能概念

 人間のモノづくりは「目的=手段関係」で外界と内面の世界を繋いだことは前述した。またこれを機能関係と呼んでもよいことも述べた。これを次のような式で現すことができる。

 m = f(p)  ここで、m: 手段、p: 目的、そしてf: 機能である。機能は英語でfunctionであり、関数も英語でfunctionである。つまり手段は目的によって決まる関数であり、それが目的と手段の機能関係を表すのである。

 通常、このm は手段としての実体(material)を表すが、場合によっては、方法(method)や媒体(media)を表すこともある。この辺りのことは、後に詳しく述べるつもりである。

 ここで、mが実体を表す場合は、機能関係が実体の形を規定することになる。これが、古典的機能主義の有名なテーゼである「形態は機能に従う(Form follows function)」である。

 なぜ、「古典的」と言ったかというと、建築家 L. サリバンがこのテーゼを用い始めたと言われる時代(20世紀初頭)には、橋梁や機関車などのように、構造や機構がそのままその人工物の働きを表現している状態が、「美しい」と感じる人々が登場してきたからである。19世紀の建築や家具などに見られるような装飾によって機構や構造が覆い隠されているものに比べ、正直にその働きを目に見える形で表現している橋梁や機関車の方が美しいと感じたわけである。この一種の倫理観をも含んだ美意識は、当時ドイツ工作連盟の主宰者であった H, ムテジウスによれば「ザッハリッヒカイト(Sachlichkeit)」という表現を与えられていたのである。

 この場合のザッハリッヒカイトは力学的な機能と形態の関係を指しており、機械工学的あるいは力学的な意味での機能であった。しかし、その後、技術界は電機電子工学の時代に入り、電機製品や電子機器では、機構や構造が目に見えないものになってしまった。また一方では、機能主義建築が、「住むための機械」という言葉に表されるように、無機的な形態になって行くと、当然それは、人間の感覚にとって違和感を生じるようになった。そこで再び人間の心理に適合した形態が必要であると考えられるようになっていった。電機電子機器の世界では、機構や構造が見えなくとも、その機能を正しく発揮させるための「操作」が需要であることに気づき始めた。そこから、誤操作を避けるためのインターフェース・デザインという考え方が生まれてきたのである。しかし、この電機電子工学の進歩による、人工物の形態の任意性(arbitrariness)の増大,言い換えれば形態の力学的法則による制約からの解放は、別のところで、新たな展開を見せ始めた。それは、販売促進のために、インダストリアル・デザイナーが、工業製品を「魅力的に」演出するという要請である。こうした時代の流れの中で、「形態は機能に従う」は、もはや時代に適合しない古典的機能主義のテーゼとして「お蔵入り」させられてしまったのである。

 しかし、この過程をもう一度振り返り、「機能」という概念を、物理的機能だけではなく、使う立場の人間の肉体的あるいは認知的条件を含んだ生理的な機能、さらには満足感といった心理的な面まで含んだ機能にまで拡張し、より広い観点から捉え返してみると、次のようにいえる。

 力学的な機構や構造が人工物の形態を決めていたときには、機能は物理的機能だけを意味していたが、電機電子機器が登場し、人工物の形態が力学的機構や構造から解放されることによって、人工物の機能を発揮させるための操作が正しく行われなければならないという要求が生じ、操作のしやすさ、分かりやすさという、生理的な機能が機能概念に含まれることとなった。さらに、販売促進のために「魅力的な」製品をデザインするためには、購買者の心理をかき立てるような形態のデザインが必要になってきた。そして心理的な機能をも「機能」概念に含むことになったのである。この広い意味での機能を、「目的=手段関係」として捉えれば、やはり「形態は機能に従う」といえるのである。

 ところで、ドイツ語のザッハリッヒカイトは日本語では当然性とか蓋然性とかいう訳しかないが、これと似た思想が柳宗悦らの民芸運動の中にもあった。これと反対の意味として、「形態の恣意性」がある。特にいわゆるポストモダンデザインの中には、この形態の恣意性をねらったものが多く、これはいわば、モダニズムに代表される機能主義へのアンチテーゼであると考えられてきたようである。だがこの恣意性の中に何らかの普遍性があるといえるのであろうか?私には、やはり、人類が有史以前から営々とアノニマスなかたちで続けてきたデザイン行為の在りかたの方が、はるかに普遍性があり、重要であると感じざるを得ない。そしてその中でつねに繰り返されてきたモノづくりの論理を明らかにすることこそがデザイン基礎論の課題ではないかと考えている。

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