« 2007年6月10日 - 2007年6月16日 | トップページ | 2007年6月24日 - 2007年6月30日 »

2007年6月17日 - 2007年6月23日

2007年6月23日 (土)

現代社会におけるモノづくり

 前回までに述べた内容で、現代資本主義社会の経済的メカニズムの中で、消費拡大のために商品購買者の購買欲を促進することをミッションとして登場したデザイナーという職業が、不生産的消費の拡大による利潤の増大という資本の目的をあらゆる分野で果たしながら、同時にそれが資本主義社会を含めた人類社会全体の基盤でもある地球環境の破壊とその資源の枯渇を促進しているというおおきな矛盾を現出させており、それに対する批判(例えばこのブログの著者のような)をも生み出してきたことを明らかにした。しかし、同時にその批判を媒介として、実は人類が普遍的なものづくりの中で、つねに行ってきた、目的=手段連関を中核とする「普遍的な意味でのデザイン行為」が初めて見えてきたこと、そしてそれは人類の歴史と文明を築き上げる大きな力になってきたことに気づいた。その大きな力は、実際にはそれぞれの社会を形成する、ありとあらゆる社会的分業の持ち場において、それぞれの労働特有の形で発揮されてきたこと、そして、文明社会を生み出してきた歴史上の階級社会では、その頂点に立つ支配層の目的意識を実現するために、各社会的分業種がその手段として扱われてきたこと、そしてわれわれの住む現代資本主義社会においても未だにその階級社会の形が踏襲されているということを示唆してきた。

 現代資本主義社会が階級社会だなどといわれてもピンと来ない人が多いと思われるが、社会的に必要な生産を行う人々が、市場での競争に勝つため、資本を維持拡大することを第一義的目的とせざるを得ない人たちによって、手段化させられているという事実によってもそれは明らかである。歴史的に見れば、資本主義社会は商品経済社会の最高発展段階ともいえる社会であって、市場における商品の売買を通じて利潤をあげることが、社会的経済活動の原動力になっているのである。その場合、商品や利潤は私有という形態を前提としており、生産手段の私有という形が商品生産者社会としての資本主義経済の前提となっている。かつての産業資本主義時代には、特定の資本家が、生産手段を私有化していた状態から、現代の「修正資本主義社会」では、株式会社制が一般化し、株主が企業活動に必要な資本を分担所有する形に変化してきた。そして企業の経営者は機能資本家という立場で、企業を維持拡大し、最大利潤を獲得するために運営することをミッションとした資本の「頭脳」という役割分担を課せられ、資本家である株主は単に資金を融通することで、そこから配当という形で利益の分け前を獲得することを目的とした立場に純化されている。しかも証券である株それ自体も、お金さえあればだれでも買えるという意味で、自由な売買の対象になり、証券市場を形成している。労働者の方も、企業経営のための管理や商品の企画・デザイン、ソフトウエア開発などを行う頭脳労働的役割、宣伝広告などの間接部門の労働などなど、直接ものづくりに携わる労働者とは異なる形の労働を行う人々が多数を占めるようになり、しかもそれぞれが実生活においてはアトム化した個人としての「消費者」という形をとっており、かつてのように多くの労働者が結束した労働組合という形が薄れてきているために、「労働者階級」という言葉自体が実感を伴わなくなってきている。

 しかし、依然としてこの社会では、資本が社会的生産活動の原動力として機能しており、そこから上がる利益は、一部の資本家たちによって私有化されているのである。そして極言すれば、企業におけるほとんどすべての労働がそのための手段として位置づけられているのである。そのために、個々の労働者が、個人的良心から、エコ・マインドを持ったとしても、家庭における資源の無駄使いは少なくなるが、相変わらず社会全体では生産と消費が拡大し、個人の努力ではどうすることも出来ない力としての「市場の法則(価値法則)」が社会全体の無駄な浪費を強制力として拡大して行くことになるのである。

 したがって、まず必要なことは、閉じられた自然環境世界である地球においてそれぞれの社会が計画的にその社会を維持して行くための生産=消費プログラムを持つことによって、社会に必要な生産(ものづくり)が「市場の法則」から解放されることが目指されるべきであろう。

 実は20世紀の中葉にすでにその兆候は現われていたのである。資本主義社会の矛盾の壁を突破すべく進められた、「社会主義社会」の建設途上において、登場した、ソビエトなどのいわゆる「社会主義国」で行われていた計画経済(ゴスプランなど)がそれである。しかし、それが教条化した理論による党官僚達の指導によって独裁的にコントロールされたため、ある部分での社会的に必要な労働が強制労働化した上、見通しを誤り、惨めな結果を招いてしまったのであるが、一方ではまた、資本主義陣営側に、いわゆる「修正資本主義(国家独占資本主義)」を生み出すきっかけを作ったといえる。

 いわゆる「修正資本主義社会」は、1930年代に、一方で、世界の労働者階級に大きな影響力を与え始めた「社会主義社会」の台頭による外圧と、他方では世界経済恐慌によって資本主義経済体制自体が内部から崩壊の危機に晒されたという状況にあって、 J. M.ケインズの理論を導きの糸として打ち出された、新たな資本主義の形であった。そこでは、金本位制をやめ、管理通貨制度を取り入れることにより、貨幣価値を一定程度国家がコントロールすることにより、経済恐慌を押さえ込む仕組みを導入し、同時にインフレ政策や政府主導の公共投資拡大によって雇用を促進しながら、労働者の賃金を改善し、生産資本の再生産に直接結びつかない形での消費(不生産的消費)の拡大を行うことにより、過剰資本の圧迫を回避しながら資本の維持拡大を可能にしようとしたものであった。行き詰まった資本主義体制を立て直すために取られた、この部分的計画経済は、1950〜60年当時のアメリカを初めとしてイギリスなどヨーロッパ各国、日本にも定着したが、やがて、日本やドイツなどの「新興修正資本主義国」による市場の圧迫などによるアメリカ経済の不況、イギリスなどにおいては、社会保障制度予算の国家財政への圧迫、国有企業の生産性の低下などという問題を生じ、ふたたび「市場経済主義」への流れが始まったのである。そしてそれをリードするフリードマンらシカゴ派経済学者の理論がケインズ派に対抗して登場したのである。

 「社会主義諸国(マルクスにはこのような考え方はなかったと言われている)」が誤った「社会主義」理論と、それによる党独裁体制ゆえに生じた矛盾故に事実上内部崩壊してしまった現在、その圧力から解放され、元気を増した「新市場主義」にリードされた「修正資本主義」は、多くの新たな矛盾を拡大再生産しながら、グローバルに徘徊する怪物としてわれわれのモノづくりの世界を支配しているのである。

 まずは、こうした事実を見据え、資本主義社会の矛盾から解放されるためのいくつかの歴史的試みがなぜ、挫折したのかを考え、その経験から得る知識によって、無駄な浪費をエンジンとして社会を動かす市場の法則から「モノづくり」を解放し、「必要なモノを必要なだけつくる」社会を実現する手だてを考えることが、未来社会のグランド・デザインにとってもっとも重要な課題ではないだろうか。

 それでは、いったい、われわれは、これから先の未来社会をどうデザインすればよいのだろうか?非常に大胆かつおおざっぱな言い方をすれば、以下のようにいえるのではないだろうか。

 まず、この「修正資本主義社会」という社会経済体制が持つ本質的な矛盾を克服しなければならない。その矛盾とは、モノづくりにおける目的と手段の関係の逆転である。商品の売買によって利潤を得るということが、目的となり、そのための手段としてモノが作られるという逆転したモノづくりの論理、これを再び本来の姿に戻さねばならないのである。言い換えれば、モノづくりの本来持っている特徴である「計画性」つまり、普遍的な意味でのデザイン能力を社会全体で、それぞれの分野でモノづくりを担っている人々の手に取り戻さねばならないということである。

 商品経済社会が、人間の普遍的なモノづくりの能力である「労働力」までも、モノと同様の「商品」として扱うことにより資本主義生産体制を成立させた。そのことはまた、社会全体のモノづくりにおける計画性(つまり本来のデザイン能力)が、直接モノをつくっている人々から奪われてしまい、モノづくりを実質的に支配する資本の論理によって、モノづくりの計画性が利潤追求の方法にのみ向けられ、社会的な生産=消費のメカニズムは市場の動向に任せる(つまり価値法則に委ねる)ということになったという事実がこのような矛盾を生んだ原因である。

 いまや、資本主義社会の遺産として遺されている、さまざまな技術を本来の意味で社会が必要とするモノづくりに活用すれば、社会全体の生産を市場の動向に委ねることなく、計画的かつ適切にコントロールすることは難しくないであろう。さらに、例えば国連のような国際機関が、地球全体の資源の消費を管理し、むだな消費をなくし、グローバルな「金余り」金融資本市場を形成している過剰流動資本を、地球上の最貧国といわれる地域の復活に向けて投入し、さらには「先進国」といわれる地域の人々の社会保障やいわゆる社会的ファンドととして振替えることは可能なはずである。それを行えるような社会経済的体制をデザインすることこそ、いま、人類に課せられている最大の課題なのではないだろうか?

しかし、言うまでもなく、これはデザイナーという職能だけでは到底なし得ない課題であって、それこそ、いまふたたび、すべてのものづくりに携わる人々を巻き込んで「万国の労働者、団結せよ!」というスローガンを再びカビとホコリをはらって登場させなければならないときなのかも知れないのである。

 いずれにしても、「未来社会のデザイン」が真剣に考えられねばならない時が来ているといえるが、この「大デザイン課題」は、ひとまず、今後の議論に委ねることとし、次回からは再び、ものづくりの中の問題に戻ることにしよう。


このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月22日 (金)

資本主義社会におけるモノづくり

 商品の交換が行われる市場においては、商品売買の自由が保障されなければならないため、商人たちは「自由市場」を目指してそれを阻害しようとする古い権力と闘ってきた。これが、商品経済社会の頂点である資本主義社会における「自由」の概念を生み出してきたといえる。しかし、商品市場が本当に自由なのかといえば、決してそうではない。商品市場はいわゆる「価値法則」という、個々の資本家の意思に関わらず彼らの取引を支配する外的な強制力としての「法則」のもとで展開されるのである。市場経済における自由は、競争を前提としている。これを互いに競争して安くて良いものを人々に売るようになれば、社会はハッピーになってゆくと、単純に考えている人は、あまりいないであろう。商品市場の競争は放っておけば必然的に、競争相手をつぶして強者が市場の利権を獲得するという形で利権争奪の敵対的競争になる。だからそれをある程度規制する「市場の倫理」や法律・規則のようなものが必要になってくるのである。しかし、この法律・規則が「価値法則」なのではない。価値法則は、「自由」に市場で売買する行為そのものを支配する法則である。

 人間の労働力(モノづくりの能力)をも商品として労働市場で売買することによって、初めて完全な商品経済社会を成立させた資本主義社会では、労働者もモノとしての商品と同様、労働市場において売りに出され、労働者階級全体の立場を主張する結束が失われた場合には、個々の労働者同士が労働市場で労働力商品として競争することになり、極限まで労働力は安く買いたたかれる(つまり生きて行くのがやっとという状態まで賃金が低下する)。そして、モノとしての商品を売買して利益を得ることが第一義的目的となり、その手段として、社会的に必要なモノが作られるという形で、人間のモノづくり能力(労働力)とその能力によって作り出されたモノの関係が逆転する。

 単純な商品交換における価値形態の形成過程については、すでに「付加価値って何?ー(1)」で述べたが、経済的カテゴリーとしての「価値」(価値がそのまま市場価格になるわけではない)が商品を作るのに要した社会的に平均的な労働時間によって決まるのは、その商品が社会において必要とされ、それを作り出すための労働力が、その労働分野に必要な量だけ配分されなければならないという、どんな社会においても存在する経済原則(宇野弘蔵による概念規定)によるものである。この必要なモノを必要なだけ作り出すためにどれだけの労働力がそこに必要なのかを、直接にではなく、市場の売買行為を通して間接的にいわば回り道をして外的な強制力として決めるのが、価値法則である。

 資本主義経済社会においては、モノづくりの目的=手段連関が社会全体に拡がったにも拘らず、経済原則を適切に計画的に(法則という外的支配力を借りずに)行えるようなシステムが育っておらず、しかも商品経済がモノづくりを支配しているので、モノづくりの目的手段関係が逆転(利益獲得の手段としてモノづくりが行われる)しているため、それを商品経済社会に特有な価値法則という間接的で、個々の資本家の意思から独立した強制力を持った外的な「法則」という形で実現せざるを得なかったというわけである。

しかし、経済恐慌という形でその矛盾が深刻化し、資本主義社会が危機に陥ったとき、それを防ぐために一部に国家による経済原則のコントロール機構を導入せざるを得なくなった「修正資本主義社会」になると、すでに完全に価値法則によって市場の成り行きにまかせるという方法は適合しなくなってしまったのである。そしていま、この「修正資本主義社会」が必然的にもたらす、膨大な「無駄な消費(不生産的消費)」とそれによる莫大な利潤が生み出す流動過剰資本によって、地球全体の経済原則がバランスを失い、地球のある地域では毎日のように餓死者がでているにも拘らず、別の地域では「金余り」で、それをめぐる争奪戦がグローバルに展開されているという、とんでもない矛盾が生じているのである。そして、毎日のように「エコは個人の意識から」という環境問題キャンペーンを見せつけられながら、個人の意思ではどうにもならないところで、どんどん無駄な消費と生活において浪費することを存在意義とする「浪費人間」が作られ、ますます消費が拡大され、それによって資源は枯渇し、環境の汚染や悪化が地球全体を危機に陥れているのである。


このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

モノづくり社会の変遷

 このようにして、自然界の因果関係の連鎖を、目的=手段連関に置き換え得た人類は、もちろんたった一人でそれをやったわけではない。数十万年という長い歴史の中で、人類が獲得してきたモノづくりは当然、さまざまな形での共同作業がなくては成立しない。例えば、山から木を切ってくる人、その木を削って槍を作る人、穴を掘る人、動物を槍で突く勇気のある人、殺した動物を料理する人、などなどのように、それぞれが作業分担をして、協力し合う共同生活が前提となる。結果的に共同体における分業体制ができあがる。目的が大きければ大きいほど大規模な共同作業が必要になる。したがって、モノづくりの発展によって人間は目的=手段関係の連鎖をどんどん拡げていったと考えられる。そして、それはやがて社会共同体を形成することになったと考えられる。

 この社会共同体がある程度の大きさで限定されているときは、全体が見渡せるから、共同作業の分担形態も全体像が分かりやすかったであろう。しかし、だんだん大きくなるにつれて、一方では、モノづくりの能力も高まり、社会的生産力が増大していくとともに、他方では、モノづくりの目的=手段連関の階層も高度化し間接性を高め、上位階層では、ほとんど直接ものづくりに関係がなさそうな状態での「分業」を行う人たちが登場したであろう。生産力が高まれば、それまで、毎日生きて行くのが精一杯であった状態から、多少余裕ができて、共同体で余剰の生産物を備蓄したり管理する人が必要になる。また、共同体が大きくなれば、全体を統制するために、規則や法律のようなものも必要になり、さらには、生産物を必要な場所に分配する仕事も必要になり、それらを専門的に担当する人たちも登場する。このようにして長い時間をかけて、人類は、社会的に必要な生産物の生産(モノづくり)に直接関係のない人々が上位階層を占め、直接必要な生産物を作っている多くの人々を支配して行くという階級関係を生み出しながら、膨大な目的=手段連関を抱え込んだ文明社会を形成して行ったと考えられる。

 しかし、どんなに大きな社会になろうとも、その基礎には必ず、その社会に必要なモノを作り出す人々が存在し、それをどのような方法で生産し、どのようにそれを社会全体に行き渡らせるしているかという仕組みが、その社会の歴史的な形態を表しているのである。

 ところで、このような社会共同体が、あちこちにできてくると、当然、それらの社会共同体間での接触が始まる。A社会で作られていないものが、B社会で作られていたり、その反対だったりすることが分かってくる。そこに、「交易」が始まる。そこでは、さまざまな産物の交換が行われはじめ、人間の交流も始まる。その過程で、「商品」という考え方が生まれてきたと考えられる。

 しかし、一方では、A社会の人々が何らかの原因で、C社会の人々に戦いを仕掛け、C社会を占領して、そこにいた人々を奴隷としてA社会で過酷な労働に就かせるということも生じたと考えられる。交易と戦争は歴史の明暗を形作る裏と表の関係のように発展して行ったと考えられるのである。人類は戦争と略奪による支配と交易を繰り返す中で、モノづくりの技術と商品経済による社会間交流を発展させて行ったと考えられる。

 話を共同体におけるモノづくりに戻せば、社会共同体が大きくなれば、共同体内部でのモノづくりの目的=手段連関の全体像すら見え難くなるのだから、他の社会におけるモノづくりの目的=手段連関などは、当然、見えない状態である。したがって、商品の交換が、異なった社会の接点で行われる際には、交換の対象となっているモノがどのようにして作られたかなどということは分からない。しかし、無数の商品交換が繰り返される間に、商人たちは、経験的直感的に何らかの見通しができるようになり、これが「交換価値」という抽象的な概念を生み出すのである。

 商品交換における価値関係の形成については、すでに「付加価値って何?ー(1)」で述べたが、次回は、商品の価値関係がどのようにしてモノづくりにおける目的=手段関係を逆転させて行ったのかを考えてみることにしよう。


このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

モノづくりの論理の根拠

さて、人間のモノづくりは、目的=手段関係を内包しており、実は人間が作る共同体は、モノづくりの目的=手段関係がどんどん入れ子型に発展し、目的=手段関係の連鎖(目的=手段連関)を作っていると述べた。それでは、このようなモノづくりの論理は、いったいどこから来ているのかといえば、それは、135億年かけて、人類を生み出した、自然界から来ているのである。すでに述べたように、生物は、「本能」という形で、外界と自分とを即自的に関わらせてきたが、人間は、モノづくりによって、それを、外界の持つ「法則性」を、意識的に目的実現のために適用する、という行為として対自化するようになったのである。これが他の動物から人類が一線を画するきっかけになったといえる。そして、同時にまた、そのことによって、自然は、135億年かけて生み出してきた、人類という自身の産物の行為を通じて、自然自身がどのような存在であるのかを明らかにし始めたのである。

人間が、モノづくりにおいて、意識的に適用してきた、自然界の法則性は、最初から「法則」として把握してきたわけではなく、あくまで、直感的な(即時的なといった方がよいかもしれない)「法則性」として把握してきた。その把握の仕方は、「因果関係」という形であったといえる。例えば、猛獣に襲われれば、けがをして場合によっては死ぬこともある、ということは動物でも経験的に知っている。だから猛獣から身を守るすべ(術)を身につけるのである。人間は、しかし、物が高いところから低いところに落ちるという経験的知識と、猛獣も一定の高さ以上の壁は超えられないという経験的事実の知識を、目的実現のために意識的に適用し、深い落とし穴を掘って、猛獣を捕まえ、猛獣を逆に食料にしてしまうというわざ(技)を身につけたのである。つまり、自然界が、因果関係の連鎖でできている、という直感的で経験的な把握があって、その知識を、自分の目的実現のために利用するという「技術的行為」を身につけたのである。しかし、当然人類は、最初から自然界の因果関係の連鎖全体を見通していたわけではないので、何かしら理解不能の自然の力に恐れおののいて、それを「神」として扱ってきたと考えられる。

 このことを踏まえていえば、自然界の因果関係の連鎖が、人間のモノづくりという、外的自然と内的自然との関わり方の中で、目的=手段連関として表れた、といってよいであろう。なぜ、因果関係が、いわば「果因関係」ともいえるような目的=手段関係(目的=手段関係が「果因関係」であるということの詳細については後述する)に反転したかといえば、それは、人間の目的=手段的行為が「時間の先取り行為」であるからだといえる。そもそも、目的意識の生じる根拠である「問題解決」という状況そのものが、現に起きている何らかの外的世界と内的世界の間の矛盾を、「問題」として認識し、それを何らかの行為によって「解決」しようとする、という意味で時間の先読みをしているのである。極言すれば、ここから、人間は、「過去→現在→未来」という時間の流れを意識するようになったとすらいえる。つまり、モノづくりを行う人類の登場によって、自然界は初めて、人間の意識を媒介として、時間というものを顕在化させ得たといえる。

その意味で、人間のモノづくりは、人間にとっても、その生みの親である自然界にとっても画期的なできごとなのである。

 地球環境問題が深刻になってきた昨今、とかく、人間と自然界を2項対立的な関係として描くことが行われるが、実は、もともと人類は自然の産物であり、自然が自分自身を理解するために長い時間をかけて、気の遠くなるように多くの偶然的出来事の積み重ねの中から生み出したともいえるのであって、人間と自然は、一つの全体の中での表と裏のような主客の対立関係をこそ生み出したが、本質的に、2者敵対的(trade-off)対立関係ではないのである。この本質的に同じものにおける主客の対立がモノづくりの中で、主観=客観的関係を生み出し、それらの動的(時間的)推移関係の中に、目的=手段関係を形成しつつ、技術的行為の原型を作り出して行ったのである。この関係が、2者敵対的関係として現われたのは、むしろモノづくりを、利潤を生み出すための手段にするという逆転した目的=手段関係の社会(資本主義社会)が歴史に登場した近代以降のことなのである。


このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月20日 (水)

試行錯誤過程としてモノづくり

モノづくりにおける普遍的な意味でのデザイン行為には、目的=手段関係が含まれており、それを機能関係と言い換えてもよいということを述べた。モノづくりは、人間に特有な問題解決のあり方であり、目的=手段関係における手段は問題に対する「解」としての意義を持つのである。さて、そのように考えると、機能という概念は次のように書き表すことができることはすでに述べた。
m=f(p)  ここで、mは手段(means)であり、pは目的(purpose or end)であり、 fは機能(function)であり、同時に関数関係を表す。つまり、ある客観的存在物(m)は、ある目的の手段となる(関数関係を成立させる)ことによってその機能が決まるのである。付け加えておけば、ここで言う機能には、機械などにおける力学的(物理的)機能だけではなく、それを含んで、さらに広い概念でとらえ、作られたモノが使われる際の使いやすさや分かりやすさといった使用者への生理的適合性や、満足感を与えるかといった、心理的適合性をも含んでいる。

ところでm=f(p) という式は目的と手段による機能関係をスタティックに表現した形(モノが作られた結果生じる関係)であり、実際のデザイン行為においては、次のようになる。

p'→ m=f(p)  

ここでp'→は、第1次的目的意識(p')が、手段としての解(m)を探索する(→)プロセスであり、ここは本質的に試行錯誤的過程である。この過程がなぜ試行錯誤的になるかといえば、それは「時間の先取り行為」であるから、というほかはない。つまり、「まだ存在しないモノ」あるいは「近未来に存在させるべきモノ」をあらかじめ想定する思考だからである。この試行錯誤的プロセスは、 m=f(p)  という関係をもとめて何度も繰り返され、その都度、評価が行われることによって、徐々に望ましい解に近づくのである。

 しかし、さらに少し深く考えてみると、この目的=手段関係は「目的=手段連関」として多層的な入れ子型になっているのである。例えば、ある人が寒さをしのぐために小屋を造ろうとしたとしよう。このとき目的は「寒さをしのぐこと」であり、手段は「小屋」である。しかし、小屋を作るためには、まず木を切り取り、それを小屋を造るための材木として相応しい形に成形しなければならない。ここでは、「小屋を造ること」が目的であり、そのために必要な鋸や枝落とした材木、それらを繋ぐ縄などの材料は手段である。

 ここで、2番目の目的である小屋は1番目の目的にとっては手段となる。さらに例えば鋸や枝落しを作るための道具が必要であれば、それらはさらに道具を作るという目的のための道具としての手段である。このように人間の目的=手段関係は次々と多層化し、最初の目的=手段関係と当面の目的=手段関係との距離を拡大して行き、その間接性を増して行くのである。極端に言えば、人間の社会はこうした膨大に多層化した「目的=手段連関」のネットワークによって成り立っているともいえるのである。

 ところで、先ほどの例で言えば、寒さをしのぐ、という目的の手段として小屋を造ることを想定したので、小屋を作るための道具を作ることが必要になったのである。ここだけ切り取って考えると、いかに簡単に素早く木を切る鋸を作るかが当面の問題となり、そのためにさまざまな努力が払われる。しかし、寒さをしのぐ手段として、野山をそのまま動き回れる点で優れた、「毛皮の衣類」を作るという新たな手段を思いついたとすれば、鋸は第2の目的=手段連関から外され、代わりに毛皮を切る刃物が新たに手段として登場する。この場合、いったん、目的=手段関係を最初のレベルまで遡って考えたために、まったく新たな手段を思いついたのである。

画期的な発想とは、こうして目的=手段連関をきわめて抽象度の高いレベルまで遡って考え直すことによりはじめて得られるのである。このことはすでに、1970年代に市川亀久弥によって、「等価変換理論」として指摘されていた。

実はこうしたモノづくりにおける論理は人間の推論や類推という思考形式の発祥の根拠でもあると同時に、人間の経済活動における価値概念の発祥の根拠でもあると考えられるのである。それについては、後述する。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年6月10日 - 2007年6月16日 | トップページ | 2007年6月24日 - 2007年6月30日 »