« 2007年6月17日 - 2007年6月23日 | トップページ | 2007年7月1日 - 2007年7月7日 »

2007年6月24日 - 2007年6月30日

2007年6月28日 (木)

デザイン思考過程における推論と発想

 デザイン行為が本質的に時間の先取り行為であるがために、その思考過程は試行錯誤の形を取らざるをえないということは前回述べた。そこで、次に、デザイン思考が時間の先取りであることの論理的な根拠として、推論と発想の問題について考えてみよう。

 問題解決においては、問題を生じている状況を認知し、これを解決することを試みるのであるが、そのこと自体、「解」を適用することでその問題が解決できるという予測がなければ成り立たない。その予測を確実なものにするため、試行錯誤によって「仮解」を考え出してはそれを評価することを繰り返すのである。この予測は帰納的推論であると考えられる。帰納的推論は、過去に繰り返された事実の知識(多くは因果的関係の知識)を、その時間的延長上である未来においても起こりうると考え、それを問題解決の解に適用しようということから、獲得した人間の能力であるといえる。

 また、この過程で問題を正しく認知し、仮解が適切であるか否かを判断する必要上、演繹的推論が適用されるようになったと考えられる。問題状況を呈している事態の構造(問題構成)を把握するために、既知の事実の論理的関係を適用し、その構造を理解しようとすると同時に、それに対する仮解が、問題を解決するに相応しい内容であるかどうかを判定するのが演繹的推論であるといえる。この理解と予測を円環的(螺旋的)に繰り返しつつ試行錯誤的に仮の解を生み出す推論過程が問題解決を導き出す思考過程なのである。

 デザイン行為は、このような問題解決行為の中の一つの典型的タイプであるといえる。それは、モノ(人工物)を生み出すことによって、問題を解決しようとする行為である。モノを生み出すことによる問題解決は、それが新たな実体(モノ)としてわれわれの外的世界に登場するという事態をもたらす。そしてその新たな実体が問題状況に投入され、それを解決をしたという客観的事実を生み出すことによって、その実体(モノ)の「意味」が明らかにされるのである。そしてこの新たな実体(モノ)は、われわれにとってあらたな外的環境の一部になる。

 ところで、問題解決においては、過去になかったような解によって問題を解決する場合が多い。その場合、新たな解を見いだすことを「発想」と言い、デザイン行為の場合では、あらたな人工物の創造を意味する。この発想をもたらす推論過程は、C. S. パースによる第3の推論形式であるアブダクション(拉致とか誘拐ではなく)であるといわれることもあり、仮説設定の推論であるとも言われている。つまり、目の前に、演繹的推論では理解不能の状況が現れ、その状況を理解するために、ある仮説を立てるとうまく説明ができ、理解を促すことが可能となるような場合の推論のタイプであるというわけである。

 しかし、発想は本当にアブダクションなのであろうか?あるいはこう言ってもよい、アブダクションは帰納や演繹と同列の推論と言ってよいのだろうか?おそらくは、仮説設定の思考過程は、試行錯誤であり、仮説そのものを考え出す過程は、演繹的推論や帰納的推論とは異なる次元であると考えら、むしろ演繹と帰納のサイクルを手段として用いる「時間先取り的な」高次の(Speculativeな)推論であると考えられる。言い換えれば「試行錯誤的推論」である。その結果が事後的に尤もらしい仮説であるかどうかを判断する際には論理的判断、言い換えれば演繹的推論が用いられていると考えられる。

 したがって、この試行錯誤としての発想は、人間の因果関係認識の宿命とも言うべき時間的推移の論理関係を時間逆行的に内包している。因果関係の認識においては、時間的に先行する先件的事象が原因であり、後件的事象がその結果を表すのに対し、その因果関係を、これから起きる事態に適用しようとする目的=手段的思考における手段の創造(発想)は、いわば「果因関係」を思考することになるのである。これはいわゆる「逆問題」という性質の思考である。しかし、筆者の考えでは、通常、数学の問題を解くような演繹的推論過程を「正問題」として、デザイン行為のような発想問題を「逆問題」というのはむしろ逆であり、歴史的にみてもデザイン行為は人間がものづくりによって初めて身につけた問題解決思考であったであろうことを思えば、デザイン行為のような問題解決こそ実は「正問題」であると、筆者は考えている。

 論理的に時間を先取りすることができないがゆえに、デザイン行為の発想は試行錯誤の過程を取らざるを得ないのである。だからこそ人間は発想過程で自分が予想もしなかったような新しい解を思いつくことができるのだといえる。予想を超えたモノを発想できる、というのは一種のパラドックスのように思えるかもしれないが、これこそが、「歴史的現在」の本質であり、西田哲学流にいえば「永遠のいま」が持っている「行為的直感」にもとづく無限の可能性をはらんだ創造の世界だといえるのではないだろうか。この一見禅問答のようなテーゼを理解するには、思考のパラダイム・チェンジが必要になるであろう。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年6月25日 (月)

デザイン思考過程の構造

 前回では、デザイン行為を問題解決という側面から考察したが、今回はデザイン行為をその思考の過程という側面から考えてみよう。

 デザイン行為がモノづくりの意識あるいは思考としての側面であることは述べた。したがって、デザイン行為はモノづくり特有の問題解決としての特徴を持っている。それは一口に言えば、必然的に試行錯誤過程という形を取らざるを得ないといことである。

 問題解決という行為自体、これから起こりうる事態を予測し、それに対処するという構えをもっているが、モノづくりは、これまで存在しなかった「モノ(人工物)」を創り出すことによって、それを解決手段にしようとするのが特徴である。したがって、モノづくりの思考であるデザイン行為には「時間の先取り」としての特徴があり、未だ存在しない「モノ」を頭の中に描き、その姿をイメージとして表出しながら、それが持つ、解決手段としての良し悪しを検討しつつ、実際の「モノ」へと具体化してゆくという過程を取らざるを得ない。しかし、すでに存在するモノと同じモノを再生産するためのモノづくりでは、このようなことはない。したがって、新たなモノの創出という場面(これを創造的思考と呼ぶことにする)でのみデザイン行為の思考(ここではデザイン思考と呼ぶことにする)は働くのである。この思考過程は人間が自分の生きている世界のこれから先のことを考える思考が持つ普遍的な形態であるといえる。

 このデザイン思考の過程は、モノを作ろうとする人の内面(デザイン主体と呼ぶことにする)と創り出されるべきモノ(デザイン対象と呼ぶことにする)の可視的イメージとの間に、思考空間での螺旋的繰り返し構造(Spiral structure)を持つと考えられる。問題を自分の「場所的」な立場で認識したデザイン主体は、すでに存在するものでは解決が不可能と知ったのち、解決手段として新たに創り出されるべきものの姿を求めて内面の思考空間で探索を始めるが、それをいったん外部に表出し、可視化してみなければ、先に進めない。人間には、まだ存在しないものの姿を問題解決手段として完璧な形で最初から頭の中に描き出すことは不可能なのである。もしこれが可能であれば人間は未来の姿を現在において完璧に描けることになる。それはあり得ないことである。

 デザイン思考の螺旋的構造とは次のようなものである。デザイン主体が場所的に認識した「問題」を解決するための手段として必要なモノの姿を探索する過程は、一定の問題状況の理解が得られた後は、まず、仮の答え(問題解決の解という意味からは仮の解といえる)を描き出してみる。これはこれまでに似たような問題を解決したケースを思い出し、そのモディファイという形でイメージされるのが一般的である。しかし、これを問題状況に照らして評価した場合、これでは解にならないと分かれば、次のステップに進む。そこで、さらに以前の似たような問題と直面している問題がどのように異なるのかをもう一度検討せざるを得なくなる。デザイン主体の問題認識が一段階深まるのである。そしてもう一度それに相応しい仮の解を描き直し、それを一段深められた問題状況把握に照らして評価する。このサイクルを繰り返し、これで確かに問題を解決できるというところまで達したときに、実際のものづくりが始まる。

 しかし、手作りで、複雑な構造を持たないものを作っていた時代には、この螺旋的デザイン思考が実際のモノづくりと平行して行われた。例えば土器を作る人は、あらかじめスケッチや図面を用意せず、土器そのものの形や彫刻を造る過程でそれを修正したり、造り直したりしながら、頭の中でデザイン思考を繰り返したのである。したがって、その段階では、モノづくりとデザイン行為は未分化な状態であったと言える。それが、徐々に複雑な構造のもの(例えば王宮や神殿などの建造物)を作り出す必要が出てきて、しかもその作り出す手順も複雑化し分業化が進んでくると、あらかじめ、ものが出来上がったときの姿を紙などに描き出してからでないと作れない状態が生じてきたと考えられる。さらには、産業革命によって機械工業を手段とした資本主義的な量産体制が始まると、あらかじめモノの設計図を描かなければならなくなり、デザイン行為がモノづくりから分離された一つの分業種(設計技術者)として成立することになったと考えられる。

 螺旋的デザイン思考過程の仮の解を描き出すプロセスは「発散的思考」と呼ばれる局面であり、仮の解を評価して問題認識を深めるプロセスは「収束的思考」と呼ばれる局面である。この発散的局面と収束的局面の螺旋的繰り返しは、徐々に最終的な「解」に絞り込まれるのであるが、デザイン思考を最終解に絞り込む方向に向かわせるのは、「制約(Constraint)」である。制約は、初期の思考の段階では、曖昧であり、問題認識が深まるとともに、解をもとめるための具体的な制約が増え、したがって思考が具体化する。制約はまた一方で、発散的局面の思考の実効性を高める役割も持つ。とかく無駄な悪無限的思考「悪しき発散」の繰り返しが多くなる発散的局面において、適切な制約を見いだすことは、「良い発散」を生む条件でもある。

 こうして得られたデザイン解は、実際に具体的なものとして作られ、問題状況を呈している現実の中で実際に解決手段として用いられることにより、その実効性が確かめられる。デザイン思考は、デザイン解をもってひとまず終わるかのように見えるのであるが、実際には「使用」という場面をもって初めて一つの環を閉じるのである。なぜならば、デザイン行為は、モノづくりの一部であり、モノづくりはモノの使用を以て初めて目的を達成するからである。そして、モノの「使用」はまた、使用者とモノとの間に新たな次元での「問題」を生み出すきっかけともなるのである。


このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

デザイン行為における問題解決の論理)

 ここまで私のブログを読んで頂いた人には、これから述べようとしている、デザインの論理が、現在の職能としてのデザインが持つ矛盾への批判を媒介にして得られた、本来あるべきデザイン像であることは分かって頂けると思う。当然、それは、現在のデザイナーの仕事をそのままの形で尻押ししようとするものではないし、その職能にそのまま役立つものでもない。むしろ、一個の人間としての目的意識と資本の目的意識との二重の目的意識の板挟みのもとで、苦しむデザイナーの良心が、一個の人間として本来の自分の仕事のあるべき方向を見出す手がかりとして理解してほしいのである。本来のデザイン論とはそのようなものであるべきだと私は信じている。

 デザイン行為は問題解決の一つであることはこれまでにも述べてきた。問題解決には、戦争のように、モノづくりによる解決ではないものもある。したがって、モノづくりによる問題解決はその一部であるといえる。人類が、その進化の段階で、ある問題を解決するために、意識的にモノ(人工物)を作り、それを問題解決の手段として用いるようになった、といことが、普遍的な意味でのデザイン行為の始まりである。その意味で、デザイン行為は、モノづくりの意識的あるいは思考的側面ともいえる。

 では、問題解決とはいったいどのような状況を表す概念なのだろうか?

 まず、何が「問題」であるのか、ということが問題である。「問題」は石ころや水や木のように、そこに最初から客体としてアプリオリに「あった」ものではない。個々の人間という主体のもとで、外的世界の客体とのある関係が「問題」として受けとめられた、ということである。言い換えれば、主客間のある特定の関係が、主体の側で「問題」として認識されることによって問題が生じるのである。

 このような「問題」を生じる主客の関係は、「矛盾」と呼び変えても良いであろう。したがって、当然、主体の側ではその矛盾を克服しようとする意識が発生する。それが一つの方向を見出すと「目的意識」という形をとるのである。目的意識は、当然問題を解決しようとする「意図」として表れ、解決の方法や手段を視野に入れる。そこに目的=手段関係という問題解決思考の基本的枠組みが出来上がるのである。

 これを自然史の観点から言えば、自然の運動過程(evolution)の一段階で、人類が生み出され、自然の一部としての人類が外的自然と、内的自己の世界の「対立」として自然を認識するようになったことで、初めて自然は、人類の「意識」を媒介にして自分自身を認識できるようになったとも言える。したがって、人間の問題解決能力は、自然の自己認識能力として見ることもできるのである。

 そのように考えると、「問題解決」はまず、人類が自然とのやりとりを通じて、どのように自分自身をレベルアップして行ったのか、ということと、自然がそれによってどれだけその」可能性を顕在化していったのか、という両面からとらえるべきであろう。前者は人間の内面の世界の進化であり、後者は自然がそれによって自らの論理をどれだけ開示してきたかということである。

 当然のことながら、個々の人間にとって、外的世界は直接的な自然だけではなく、他者としての人間やその共同体としてのな社会、そしてつくりだされた多くのモノによって形成される人工環境という世界がある。それらの外界とのやり取りの中で、「問題」が生じ、それを解決して行くことによって、内面的世界も外界も進化してきたのである。

 その問題解決の論理の基本的枠組みとして、目的=手段関係を意識的に適用する技術的行為を獲得してきたのであって、作り出されたモノの集積としての人工環境という視点に限定すれば、人工環境は、問題解決のための目的=手段連関の目に見える集積体であるとも言える。しかし、それらはまた同時に、モノづくりがどのような社会的仕組みの中で作られ、それがその社会の中でどのような「意味」をもっていたのかをも表しているのである。さらに言えば、歴史的にある特定の社会において、何が「問題」であり、それがどう「解決」されようとしてきたのか、ということも表現しているのである。もし、未来において、現代社会の遺跡が発掘されたなら、未来人はそこに、20〜21世紀の文明がいかに膨大な無駄を築き上げるためにデザイン行為をしてきたのかをその人工物の集積によって証明することになるだろう。

 解決された問題は、さらに高次なレベルでの新たな問題を発生させる。したがって問題解決行為は閉じた一つの世界ではなく、開いた世界の中で複雑に絡み合った関係として行われる。個々の人間は、その個人的能力の限界があり、個々の持ち場においてその能力を「場所的問題解決」のために注ぐ。しかし、それらは孤立したものではなく互いに密接に関係し合っているのである。例えば建築家のC. Alexanderは、都市計画などに見られるこの重層的問題構造をTree構造としてとらえ、個々のSub-problemの解決を合計して全体の問題解決を導こうとした。しかし、個々の問題と問題の全体像は単純な合計ではないため、その構造をTreeではなくSemi-lattice構造としてとらえ直している。しかし、それでもうまく行かず、結局、部分的問題をとらえるため、フレキシブルな解釈を許すPattern Languageという辞書的なものを用意してそれを手引きとして大きな問題解決に臨む方法に至っている。数学的に言えば、個々の問題とその全体像の関係は線形でないということである。

 デザイン行為は、本来こうした問題解決における全体と部分の関係を前提とした「場所的問題解決」(「場所」の概念については別の機会に述べるつもりである)として行われるのであるが、その背後には、つねに高次のレベルでの問題が潜在化しているといえるだろう。「諸個人は社会的諸関係のアンサンブル」であるというマルクス的見方に立てば、個々の問題の中に、その個々の特殊な「場所」として表現される「全体像」があるわけであり、個と全体はそのような形で結びついているはずである。つまり、個の中に、その個独自の世界を通して社会全体の姿が表れ、したがって、個々の問題解決の中には問題の全体像が「場所的に」表現されていると言えるのである。


このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年6月17日 - 2007年6月23日 | トップページ | 2007年7月1日 - 2007年7月7日 »