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2007年7月1日 - 2007年7月7日

2007年7月 4日 (水)

表現とコミュニケーションとしてのデザイン行為

 デザイン行為は、問題解決行為の一つであるとともに、それをどのようにして解決したかを表現する行為でもある。言い方を換えれば、創られたモノは、それを創った人がなぜそれを創ったのかを表現している、といえる。問題解決の手段として創り出されたモノの中には、解決のために費やされた思考過程(過程という概念は必然的に時間概念を含む)が結晶化された状態で存在するといえる。つまり作られたモノは思考過程の結果表現でもある。しかし表現されたモノがその思考のすべてを表現し尽くしているとは限らない。またその表現を受け止める側の問題も当然のことながらある。つまり、表現を問題にするならそこに必ずコミュニケーションの問題が生じてくるのである。

 人間のコミュニケーションは、モノづくりによって、新たな段階に進歩したと考えられる。人類以外の生物でも、互いに危険を知らせ合ったり、種の保存のために、異性同士が求め合ったりする際には鳴き声や振る舞いによって何らかのコミュニケーションが行われていると考えられ、かつては人類もそうだったと考えられる。しかし、人類の場合、モノを作ることによって、意図的な問題解決行為を行い、しかもその問題解決行為は自分自身のためであると同時に他者とそのモノづくりの成果や意味を分ち合うことが目指されている。それは、モノがそれを創り出す主体と他者の間に生み出された媒体(メディア)という機能を持つからである。メディアの機能とは、「何かを通して別のあるもの(こと)を知る(伝える)ということである。例えば、縄文土器の複雑な、一見装飾のように見える文様は、作者の好みや自己表現のために創り出されたわけではなく、作者が生きた社会そのものの絆を表現していると考えられる。

 「近代的自我」が生まれてからは、自分自身のためにのみ創り出すという意識が登場するが、それでもその基底には他者と実存的理解を分ち合う可能性を必ず持っているといえる。例えば、モダンアートの陶芸作品の一部に見られるような、理解を拒絶するような作品であっても、実はその作者が、その理解を拒絶するような姿勢そのものによって何かを訴えようとしているのであって、それこそが現代社会に生きる一人の人間のコミュニケーションの一つのあり方であり、同時に現代社会そのものの表現なのである。

 コミュニケーションにおけるメディアの役割は、「記号」という概念を生み出させ、記号体系としての言語や論理を生み出させた。動物と人類のコミュニケーションの決定的な違いは、人類が言語や記号を「本能から切り離した自律体系」として用いることである。 言語や記号の「意味」はその体系の中で解釈される。 記号体系はその体系特有のコード(約束事)を持っている。しかし異なる体系間にも共通する論理構造を持っているため、例えば、外国語も学習によって翻訳できるようになる。 さらに、人間は発信者の意図が発生した状況を推測し、状況やコンテクストに即した文脈的解釈を行うのである。再びモノ一般に還元して言うならば、誰かが何かのために創ったモノを「使う」ということは、創った人の意図を自分の場所的問題状況に即して「自己化」する、つまりモノの意味を「解釈」することなのである。

 さらに重要なことは、モノによって表現される意味内容は、モノそのものであるとともに、「別の何か」でもあるため、この「別の何か」という抽象作用を持つということである。人類のモノづくりにおけるデザイン的思考が生み出した、この「抽象作用」が、モノに「記号」という機能を付与し、それを媒介としたコミュニケーションを可能にしたのである。抽象は推論の父であり、論理の母である(「抽象」に関しては、それ自体大きな課題なので、後に再び取り上げる予定である)。


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