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2007年7月8日 - 2007年7月14日

2007年7月13日 (金)

デザイン行為における美意識と価値観

 美と価値観の問題は、デザイン行為にとって、非常に重要なテーマであるにも拘わらず、論理的な対象ではないとして避けられる傾向があった。その理由には二つあるように思う。一つは、個人的問題であり一般性がない。したがって科学や理論の対象にしにくい。もう一つは、流行現象などのように時代的な背景に大きく影響されるため、普遍性に乏しいという理由である。かつてギリシャ時代には真善美という3つの柱が哲学を支えていたが、近代になると、科学という形で自然の真理が追究されることに大きな比重がかけられ、倫理は法的な考え方に移り、美の問題は特定の美学者によって思弁的な世界が作られることで、科学と反対の主観的世界へと向かっていくように見える。なぜそうなってきたのか、ということ自体大きな議論の対象になるだろう。ここでは、とりあえず、デザイン行為に絞って美と価値観の問題を考えてみよう。

 デザイン行為はモノづくりの思考における中核的な部分であると述べた。またそれは一種の表現行為でもあると述べた。しかし問題解決という側面を中心に見てきたので、デザイン行為の結果であるモノが問題をどう解決したのかを表現しているという視点からしか表現の問題に触れてこなかった。この場合問題解決とは、他者も同じ問題状況について同様に「問題」として認識していることが前提になっている。共通の(同一とはいえないが)問題意識があるからこそ、それをどう解決したかが意味を持ちうるのであり、表現を受け止める人間の存在が前提されうるのである。しかし、近代社会の生み出した「個」的存在あるいはその意識である「自我」が登場することにより、自己表現として客観的世界から独立した近代特有の主観の世界が登場したと考えられる。ここでいう「個」は物理的に一人一人別個の人間という意味ではなく、自分が他者と区別されるべき唯一特別の存在であり、それを他者に分からせることが自分の存在意義を確認することなのだという意識を持った個人が近代という歴史段階において登場したということである。そして芸術家という職業が登場した。彼らは、経済的には貴族や金持ちのパトロンに支えられるという不安定な基盤で生活しながらも後生に残る美の世界を創り出していった。その美の世界は同時代に生きる多くの人間に共感を与えるものであり、同時にその芸術家の「個」の主張でもあった。鋭い時代先取り的感覚を持った芸術家ほど深く現実の問題を掴んでいるといえる。したがって芸術家の表現する美の世界は、必ずしも「快い」ものばかりではなく、あるときは観る人を悲しみや怒りの世界に引きずり込む力を持っている。だから、いかに芸術家が唯一の自我を表現しようとしても、その自我が究極に求めるのは他者との共感であり、その他者との共感の中にこそ「美」の世界があるのだと思う。

 同様なことは、個人の価値観にもいえると思う。ここではっきりさせておかねばならないことは、価値観と価値は異なる内容であり、前者は美意識などと同じ個人の主観の世界であるが、後者は経済学的カテゴリーであり、きちんと定義されているにも拘わらず、昨今はこれが混同されている(特に「付加価値」という概念において)ということである。個人の価値観には、その人にとって何が重要であり、何が美しいものであり、何が正しいのかという倫理観までも含んだ意識であると考えてよいだろう。だから芸術家の美意識は彼の価値観の表現でもある。

 実は、この価値観こそ、その人にとって何が「問題」なのかを認識させるモチベーションを形づくっているのである。そして個人の価値観は、まさにその個人が生きている世界や時代の歴史性を反映しており、その全体の中での個という意味での「場所性」を持っているのである。言い換えれば、個人の価値観の中にはその個人が生きる世界の全体像が特定の個人という形で現れているといえるだろう。これを個人の「実存」と呼べば、実存としての現代資本主義社会の構成員は、「消費すること」が実存なのであり、「つくること」は経済的価値を生み出すための手段となることによって初めて社会的な意義を与えられるのである。そのような時代の中でそれぞれが自己表現を行っている(筆者自身も含めて)のだといえるだろう。そして現代の職業としてのデザインは、消費人間の需要を充たすために、芸術家のように時代を鋭く先取りした美意識を表現することもできず、ほどほどみんなが快く(あるいは「おもしろく」と言った方が適切かもしれない)思ってくれるようなモノしか作れないのである。デザイナーの美意識は時代を先取りし世の中の矛盾を鋭くえぐり出すのではなく、時代の中でその矛盾を肯定し、矛盾をおもしろさや楽しさで覆い隠すのである。だが心あるデザイナーは決してそのことに満足してはいないであろう。


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2007年7月11日 (水)

デザイン行為における抽象力と感性

 ある事実と他の事実との間に共通性があるという認識は、それぞれの異なる事実の中にそれ自体としては見えないが、認識する主体によって抽出された形而上的な意味での共通性が認められるということである。このことは、例えば G. レイコフが指摘する認知の意味的側面の形成によっても明らかである。人間は、基本レベルといわれるような、身の回りにある見慣れた品々に認められる共通点を一括りにした概念でとらえ、それにラベル付けを行う(例えば「椅子」というラベル)ことにより、一方でさらに上位のカテゴリー(例えば「家具」)を抽象することが可能となり、他方で概念を構成する部分に分割する(例えば「座面と脚部」など)ことができるようになる。それによって人間は、対象が何であるか理解するための手段とするのであるが、そこですでに抽象思考が行われている。ものに名前をつけるという行為を基本的抽象思考と呼べば、基本的抽象思考の上に記号や言語が成立しているといえる。この基本的抽象思考は、しかし、一人の人間の単独行為ではありえない。というのは、基本的抽象思考が、認識主体が対象を理解するのと同時に、他者に同じ内容を理解させるための手段として人間特有の能力になり得たと考えられるからである。だからこそ、抽象は、「一般性」という特徴を持ち得たのであり、記号や言語がそれとして機能しうるようになったのである。そしてまた抽象は一方でその基礎となった個別的「具体」があって初めて「抽象」としての意味を持つのである。

 抽象思考を行う能力を「抽象力」といえば、抽象力こそ、事実を理解し、現在から未来を予測し想定する能力の中核であるといえる。人類にとって、これから起こりうることを予測することは、その存続を賭けた重要な問題である。しかしあらかじめ起こりうることを完全にあるいはすべて予測することは論理的に言っても不可能である。そのため、人間は、帰納的推論や類推(アナロジー)という思考を身につけたと考えられる。類推では、すでに知っていることを手掛かりにして、未だ知らないことを理解しようとするのであり、そこには既知の事実と未知の事実の間に共通する内容があるという抽象思考(ゲントナーおよび鈴木によれば「構造の写像」)が働くのである。問題解決という 「未来への企投」の場面に即していえば、演繹と帰納あるいは類推を瞬時に繰り返すことによって行う理解と予測による試行錯誤的推論(アブダクション)という形で行い、仮説あるいは仮解を生み出すと考えられるのである。

 この抽象力は、認識という場面で考えれば、人間の感覚器官を通して獲得された外界の情報を内面において再構成し、それが何であるか理解する、という場面で働くといえる。一方、目の前の問題に何らかの働きかけをして解決しなければならないという実践の場面で考えれば、目的=手段関係という思考によって抽象が行われる。前者の場合は、対象の構造や意味の理解であり、後者の場合は、問題状況の把握や仮解の発想である。

 抽象思考は、記号や言語から概念を生み出し、さらに概念操作を生み出した。そしてそれらを通じて論理的思考の世界を築き上げた。しかし、一方で人間は、抽象的思考と対照的に個別具体的対象や状況からそれらに関する情報を全感覚器官を通じて、できうる限りあるがままに全体として受け取ろうとする。それが人間の「感性」と呼ばれるものである。感性と論理は人間の思考の表と裏のような関係にあり、同じ一つの思考の両面である。抽象がエッセンスでありうるのはそれがつねに全体像としての感性的把握に支えられているからである。感性は抽象力の原動力であり、抽象はそれが表現されることにより再び感性のもとに帰り着く。人間の思考はその繰り返しによって、外界を再構成するのである。

 
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2007年7月10日 (火)

デザイン行為における創造性

 デザイン行為は、今までになかったモノを創出することによって問題を解決する行為であると述べたが、それはデザイン行為が創造的思考を含むということである。

 創造的思考を生み出す能力を創造力(想像力とは異なる)と呼べば、創造力そのものには、創造性があるかどうかは分からない。というのも、創造力は思考の現在に関わり、創造性は思考の過去に関わるからである。創造力を伴う思考の中核部分は試行錯誤過程であり、現在における時間の先取りであるが、創造性は、創造的思考の結果が、創造的であったかどうかという現在における過去的視点(価値観的判断)によって決まるからである。言い換えれば、創造力が高いか否かはそれが創造性の高い問題解決を生み出す「可能性」が高いか否かという判断で決まるのである。

 創造性が高いという判断は、創造力を持った思考の結果がこれまでにない創造的な問題解決を成し得たという歴史的なコンテクストにおける具体的問題状況に基づく判断である。言い換えれば、創造性は抽象的な内容ではあり得ない。それは、われわれにとって「問題」がつねに具体的現在の状況において発生するからである。したがって目的意識は、それがたとえ抽象的な未来形を目指すとしても、つねに具体的現実的レベルから発生する。だからその目的意識が到達する「解決」も具体的現実的レベルで解決をもたらす。そして、そのもたらされた解決が創造的であるかどうかという判断(歴史的判断といってもよい)によって、初めてそれを生み出した思考が創造性を持っていた、あるいは持っていなかったということが言えるのである。

 例えば、エッフェルがパリにエッフェル塔を建設したとき、それをパリの景観を壊すものだと言って反対した多くの人々の中にあって、そこに新たな美の創出を感じた人々がいたため、そしてやがてそれが多くの人々に認められるような新たな美意識となって、その結果、創造性の高い仕事として認められるようになったのである。また例えば、エディソンが電球を発明したことが画期的だったと評価されるのは、当時ガス灯に代わる電気による照明が潜在的に求められていたという状況があり、その後ガスに比べて電気の方がエネルギー源として柔軟性に富み優れているということが歴史的に証明されていったためである。

 創造力は、しかし、そのような創造性の高い「解」を生み出せる能力であって、試行錯誤の中にその可能性を多く持った思考を行う力である。だから、創造性に関する議論と違い、創造力の持つ一般的なタイプや思考過程の構造などについては、ある意味で抽象的な議論が可能なのである。

 この創造力と創造性の区別は、重要な意味を持つ。というのは、この区別によって初めて、創造性の高い結果を生み出した力という逆の視点(結果から原因を見る視点)から創造力を見るのではなく、創造力が歴史を先取りする力であり、新たな創造性を判断しうる主体をこれから生み出しうる力であるということが論理的に位置づけられるからである。創造力の生み出す結果としての創造性についての判断は現在の状況に批判的つまり「時間先取り的」であることによって初めてに可能になるのである。

 例えば、携帯電話のデザインで競合する他社の製品と差別化するためのデザインをするという目的意識は、問題解決の視点がマーケットシェアの獲得であって、現状の携帯電話の持つ問題点を解決するという視点ではない。前者でデザイナーに要求される「創造性」は、差別化を達成しシェアを拡大したか否かで判断される。それは携帯電話の問題ではなく市場の問題である。差別化によりシェアを拡大できたとしてもそれは携帯電話そのものにおいて何ら創造的な「時間先取り的」問題解決はもたらさない。携帯電話は本来の進化を遂げるのではなく、形だけの差別化が優先され、電器店に無数の携帯電話が並んでいるにも拘わらず、自分の求める機種が一つもないという事態はこのようにして生み出されるのである。

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