« 2007年7月8日 - 2007年7月14日 | トップページ | 2007年7月22日 - 2007年7月28日 »

2007年7月15日 - 2007年7月21日

2007年7月21日 (土)

未来社会のデザインー(3)

 ところで、資本主義社会に対する批判を貫こうとすると、まるでいまの産業界全体を敵に回しているように見られてしまいがちであるが、実は話はそう単純ではない。早い話が、社会を維持していくのに必要な産業は、絶対に必要であり、そこで働く人たちはもちろんのこと、いわゆる機能資本家といわれる、企業の経営者たちもそれらの産業を維持推進していくために不可欠な人たちである。問題はそのような社会に必要な産業を利潤獲得のための市場の競争の中に置き、それを第一義的な目的にせざるを得ないような社会的関係をつねに生み出す仕組みである。獲得された利潤は、そこで働く人々が生み出したにも拘わらず彼らに還元されることなく、資本という形で蓄積され、あらたな利潤獲得のために投資されるか株主への配当として分配される。そうしなければ競争に勝てないからであるし、資本を分担所有している株主への義務が果たせないからである。株券などの有価証券や金利によって富を蓄積する資本家はヘッジファンドなどのマネーゲームをしながら資本を増やしてゆく。金融資本を右から左に売り買いするだけで何ら生産的な行為は行わない。それなのに世界の経済を左右する力さえ持っている。社会に必要な生産物を生産する企業の経営者たちも彼らの手中で踊らされているようなものである。そのような金融資本家のもとに集中する世界の富は、もとはといえば、毎日汗水流して社会のために働く人たちが生み出した富である。にもかかわらずそれは社会に還元されることなく、「合法的に」一部の金融資本家の手に集中するのである。そして汗水流して働く人たちはろくな年金ももらえずしかも重税に喘いでいるのである。金融資本家の手に集中している莫大な金は、本来これらの人々の手に返すべきものではないのか?

 世の中に必要なものを創り出す企業の存在は不可欠であり、それに関連する労働(企業の経営指揮を行う労働も含めて)は不可欠である。何が世の中に必要なものか、という問題はあるが、とにかく毎日の生活を維持してゆくために必要なモノの生産に携わる労働やそれを行う企業、そしてそれらの流通や管理に携わる労働や企業は不可欠である。また、医療や教育といった直接生産に関係ないが世の中に不可欠な労働(職業)もある。ヘッジファンドなどで金儲けをしている資本家はもっとも必要のない、しかも有害な存在であるといって差し支えないであろう。その中間にはあまり世の中になくてもよい産業や職業も多く存在する。しかし、これを一義的に決めつけることはできない。おそらくはそれは歴史が決めることになるのであろう。

 要は、多くの人々が汗水流して働いて生み出した富を一部の個人が勝手に私有化することがなぜ許されるのかであり、それらは本来何らかの形で社会に還元されるべきものなのではないか。そのためには課税制度や私的権利に対する法的な制度を抜本的に見直す必要があり、その上で現在の市場経済に一定の歯止めが必要であると考えられる。社会全体が共通に必要としているものを私的に所有すること自体が矛盾であり、社会全体で共通に必要なものやことに対しては、資本家的企業ではなく利潤を目的としない公的な組織が管理運営をすべきであろう。世の中のすべてを「市場経済」に任せるということは、市場が価値法則に支配されている場であり、しかも本質的に無政府状態の場であるということを無視した行いである。

 そのようなことを考慮した上で、これからの社会に必須な要素とは何かを考えてみよう。

 第一に資本主義社会が利潤追求のためとはいえ生み出した膨大な技術的成果は、そのままの形ではないにせよ、次世代も引き継ぐことになるであろう。まずは、モノづくりの技術である。今日では、浪費の生産のために用いられている大量生産技術(生産ロボットなども含めて)も、モノを少ない労働力で作るという意味でコストを下げることに貢献している。これは世の中に必要なモノを安く早く作り出す上で必須の技術であろう。そしてモノづくりに関する先端技術も高い精度や耐久性を確保する上で重要であるし、環境負荷の少ない製造工程や素材の開発も重要である。化石燃料に頼らないエネルギー源の開発ももちろん重要である。また医療技術の進展もきわめて重要であることはいうまでもない。

 しかし、最も重要なのは、食料生産の確保であろう。現在のように全世界が資本市場に席巻されている状態が続けば、化石燃料の枯渇と平行して生じる地球温暖化や農産物や水産資源の生産量の減少と労働力不足などによる生産力の低迷により供給量が減少の一途をたどり、世界の食糧資源が枯渇し、人工の増加に追いつけなくなることは目に見えている。地球全体の問題になっているのは気候変動や石油の枯渇だけではなく、食料生産の低下や人口増加問題そして経済全体が国際的なネットワークにより関連づけられている(資本市場のグローバル化による)ため生活資料の需要と供給が国際化していることがある。もはや一国だけの経済政策では到底処理できないレベルに生活そのものの存立条件が国際化している。これらの問題を世界全体規模でコントロールしてゆけなければ、人類は危機に立たされるのである。その中で市場のグローバル化を利用して大儲けしようなどというのは、火事泥棒に等しい行為である。

 そして Web.2.0と呼ばれている今日のコンピュータ・ネットワーク社会の問題である。これについては、さまざまな場面でいろいろな意見が述べられているが、そのほとんどに金儲けの手段にしたいという意図が見え隠れしている。しかし、そういう視点ではなく、未来社会のデザインという目でネットワーク社会の進展を考えるとある意味で革命的な内容を孕んでいると考えられる。そこでこれについては改めて別項で述べることにしたい。


このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

未来社会のデザインー(2)

 資本主義社会の生み出した生産方式は、それが価値増殖の手段という転倒(社会的に必要な労働を行う人々が、自分たちの手によって生み出された生産物でよりよい生活を享受できるようにするという本来の目的が、価値増殖のための手段とされているという意味での転倒)した目的であったにも拘わらず、生産力の急速な高度化をもたらした。しかし、目的が転倒しているために、その生産力の内実は矛盾だらけである。

 たとえば、工業生産によって相対的剰余価値の増加が得られる生産分野の生産物は、他の分野(農業生産物や水産物など)に比べて著しく生産性が高まる。そして労働力も工業に集中する。その結果、先進資本主義国では農業と工業のバランスが崩れ、農業や水産業の労働力不足を補い生産性を高めるために機械化粗放農業や養殖などが進められても、それが需要に追いつかないので価格が上昇する。そのため、農業や水産業は、資本主義化があまり進んでおらず、労働力が安い国からの輸入に頼ることになる。さらにそれが進むと、過剰資本の処理形態としての消費が促進され、資本の利潤が生産物の生産よりもむしろ金融業やサービス産業、広告産業という非生産的分野からの利潤に頼るようになると、工業生産も労働力の安い国々へ中心が移り、先進資本主義国では、労働力は金融業やサービス産業、広告産業に集中し、第1次産業も第2次産業も後退してゆくことになるのである。その結果、先進資本主義国は、外見的にはモノに溢れ、サービス産業や金融資本市場が盛んな国に見えるが、内実は、生活にもっとも必要な食料や衣料や家財などの生活資料に関しては、資本主義化の遅れた労働力の安い国々の人々による生産に頼らざるを得ないという状態になっているのである。大型の液晶テレビを居間に置いてホームシアターでアニメを楽しんだりゲームを楽しんだりし、休日には車でドライブに行ったり、海外旅行に行くという生活は、しかし、ほとんど自分の国で生産されない食料品や生活資料によって支えられているのである。そしてもともと人間の手で創り出されたものではない(水や空気と同様)土地が商品として売られるため、それは単に需要と供給の関係のみで価格が決められ(価値法則の制約なしに)、都会など供給が乏しい地では途方もない高価な値段で売買されるようになるため、金融資本の格好のターゲットになる。そして多くの働く人々は、自分の家を持つことが目的で生涯働くのである。

 さらに教育や医療という生活上非常に重要な領域での労働が、危機にさらされる。教育は、一人一人の人間が、それぞれの能力に応じて社会を支えていけるようになるために、その社会が蓄積してきた知識や能力を教育し、あらたな世代を育てるという重要な役割を担っている。初等教育など基礎能力の育成においてはあまり目立たないが、高等教育になるほどと、資本主義的な産業構造に適応する人材を育てることのみに目的が集中してゆく。最近の大学は、資本主義的産業の人材育成機関になってしまっている。しかし、本来の高等教育は、社会の現状における問題を、一つ高い視点から批判的にとらえ、長い目で見た場合の社会の将来に対する展望を築ける人材を育成しなければならないという役割があるはずではなかったのか?かつての大学にはそういう自負があり、社会に迎合しない風潮があった。しかし、最近の大学はまったくそのような自負がなく、商品化した大学教育を売り込み、学生という「利潤源」を獲得するために奔走し、現代資本主義社会に迎合する人材の育成に血道を上げている巨大教育産業化してしまったとしか思えない。これでは本当の意味で次世代を担える人材や理論など到底得られないであろう。そして働く人々は、自分たちの子供が安定した生活を得られるために、就職率の高い大学に入れようと莫大な教育資金を用意せねばならなくなり、受験産業がそれによって潤い、教育の目的が就職率の高い有名校に入ることになってしまうのである。教育資金がなく、「よい」高等教育が受けられない子供たちは、おのずとランク付けされ、社会の下層に甘んじなくてはならなくなる。また競争社会の風潮について行けない子供たちはストレスと不安感から自分の世界に閉じこもり、やがては生きるためにやむなく働かざるを得なくなり、ワーキング・プアーという現代社会の貧困層の一員にさせられてゆく。一方「よい」高等教育を受け、競争社会を勝ち抜くことができた若者は、「お金でかえないものはない」という風潮に乗り、「能力ある者が競争に勝つのは当然だ」という人間観を持ち社会の将来をもそういう目で見るようになって行く。果たしてこういう人たちに社会の未来を託せるのだろうか?

 医療においても、「医は仁術」から「医は算術」へ、つまり、人々を病気やけがから救い出すことよりも、病院を経営し利益を上げることが優先されざるを得なくなっている。そして一方では利潤率の高い医薬品産業が、その利潤獲得の競争のために、安全性の保証されない薬品を世の中に送り出し、また健康不安を煽って、薬の販売を促進させるような事態も起きている。薬漬けと高い保険料の間で、人々は現代医療産業の利潤獲得の手段にされているのではないだろうか?

 このような現代社会の問題点を挙げて行けば、まさにきりがない。しかし、それら個々の問題の背後にある、大きな本質的問題を見据える視点こそいま必要なのではないだろうか。本来それは、政治の役割なのであろう。そして政治を導く理論を追究する大学の役割でもあるだろう。しかし、昨今の政治家たちにそのような能力を持った人がいるとは到底思えない。親が政治家であったからその家業を引き継ぎ政治家になった生まれながらにして権力志向の人や、マスコミ界の人気投票のような選挙で当選した目立ちたがり屋の人たちに社会の将来が任せられるのだろうか?

 かつて社会のグランド・デザインに通じるパラダイム変換が俎上に上がり、世の中の大きな流れになった時代があった。20世紀前半の時代である。アインシュタインの相対性理論が登場し、ラッセル・ホワイトヘッドの数学原論やウイットゲンシュタインの論理哲学論考が出版され、ゲーデルの不確定性論が登場し、ロシアでレーニン指導下による革命が起き、ポラニーの暗黙知の指摘があり、ゲシュタルト心理学が登場し、シャノンやウイーナーの情報理論が登場し、パースやその継承者による記号論が登場し、ソシュールらによる言語学が登場し、ケインズの「一般理論」が登場し、芸術の世界でもありとあらゆる試みが成された、等々。まさに枚挙のいとまがないくらい偉大な研究や実践が登場した革命的な時代であった。この偉大な時代に何が問題となっていたのか、そしてその結果何ができなかったのかをもう一度われわれの世代は考え直すべきではないか?多くの試行錯誤と犠牲のもとに獲得されてきた20世紀の偉大な遺産を引き継ぐために、われわれは自分たちのいまあることの意味を問い直すべきではないだろうか?おそらく社会のグランド・デザインは一人のカリスマ的政治家や理論家によって成されうるものではないだろう。それはまず、それぞれの持ち場で働く人々が、それぞれの持ち場で起きている問題と、社会全体で起きている問題との関係と連続性を自覚することから始まらなければ問題の巨大な全体像は見えないであろう。そこから分かるのは、現在の状態がどのような問題を抱えており、それらが互いにどう関係し合っているのかを明らかにすることと、ある種の必然性から将来はこうなるに違いないという大きな枠組み的見通しを描くことである。それはときに間違っているかもしれないが、一人のカリスマによる社会デザインではなく、社会的に必要な労働を担っている人たちに共通の理解のもとに得られた把握であれば、その間違いは致命的なものにはならないであろう。まずは、社会に必要な労働を担う人たちによる共通の問題把握の場が必要であろう。価値増殖の手段である労働の場から一線を画した場がなければ、そのような問題の追究はできないであろう。ここでは、単にそのことを指摘するだけにしておこう。

このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年7月17日 (火)

未来社会のデザインー(1)

「未来社会のデザインなどというおこがましいタイトルを付けたが、別にSF小説を書こうというわけではない。所詮人間は「神」ではないのだから自分自身の明日の運命すら予測できないのだが、しかし、自分自身ではなく自分が生きている社会がどうなってゆくのかは、ある程度予想できる。というのも社会は多くの個人の偶然的「運命」を含みつつ、全体としては一つの必然性をもって歴史を形成してきたと言えるからである。誤解を避けるために言っておくが、必然性とは宿命とは違う。あらかじめそうなることが分かっているようにしかならないというのが宿命であるとすれば、必然性とはそれとは違い、現在(行為的現在)における意志決定の自由を前提としているのである。社会は大きな意味で一つの論理をもって歴史を創ってきたわけであり、しかもそれはその社会に生きる人々の意識の合力というモチベーションによってである。その社会で支配的地位であった人々の意志が全面に押し出されてきたことは言うまでもないが。その場合も意志決定はあらゆる可能性を孕んでいたに違いないにも拘わらず、その中でつねにもっとも適切と思われる一つの決定を行ってきたのだといえる。その各時点でもっとも適切と思わせるものが「歴史の論理」とでもいうべき一つの論理を持っていたと考えられるのである。それが歴史的必然性である。

 そこで、これからしばらく、このような歴史の論理を考えながら、われわれが生きるこの社会が今後どのように変わっていくか、いやどのような社会にしていくべきなのかを考えてみようと思う。

 人類の普遍的デザイン能力は、個々の持ち場で発揮されるデザイン能力の合力として社会全体がデザインされていくというのが、デザインの理想像でもあると考えるからである(現代の社会がこうなっているという意味では決してない)。しかし、ただ単に絵に描いた餅のようなことを言っても全然リアリティがないし、そんなことは誰だってかんがえているよ、と言われてしまうだろう。かつて、19世紀にサン・シモンやトマス・モアなどのユートピア論が出てきたことと、1960〜70年代に未来学(未来工学?)が盛んだったことを思い出しても、その予想はことごとく外れているといえる。それでは何が足りなかったのかと言えば、多分、現状への深く鋭い「批判」がたりなかったからだと言えないだろうか?今現在われわれが生きている社会がどのように「おかしくなって」いるのかが語られなければ、リアリティのある未来社会像は出てこないに違いない。そう考えて、筆者は現代社会への批判を「デザイン」という窓を通してやってきたし、これからもそうするつもりである。

 普遍的デザイン能力のもっとも高度な形は、政治であろう。政治は社会をどう形づくっていくかを、考え実行してゆくことなのだから。だから、一つの社会全体を構成する市民生活や都市のあり方に関する計画は、この政治の実施形態である行政のもとで行われる。そしてさらに、諸個人の生活や活動における計画的行為はそのコンテクストのもとで行われる。そしてその諸個人の生活や活動を形づくるモノの世界もその大きな枠組みのもとで創られ、使われる。そのすべてに普遍的な意味でのデザイン行為がさまざまな形で関わっている。現代社会のデザイナーという職能は、そのほんの一部分を受け持っているに過ぎない。しかも資本の価値増殖という資本主義社会の基本的モチベーションのもとで販売促進というミッションを課せられてはじめて存立可能な職能として。したがってデザイナーという職能の立場において社会全体をデザインすることなど絶対に不可能であることは言うなでもない。

 それでは誰がいったい社会全体のデザインをするのか?政治家?大統領?資本家?王様?独裁者?どれも正しくどれも間違っている。というのは、実際これまで社会のデザインを行う立場にあったのは、彼らだからであり、しかしながら彼らが自分の思うように勝手にデザインしてきたわけではないからである。社会のトップに立つ権力者は必ずそれを支える組織の上に立っている。それは官僚組織であったり、産業界であったり、貴族集団であったり、党であったりする。それらの組織が、社会全体の土台となる、生活資料と生産手段の生産、分配、そしてそれらに必要な労働力の社会的配分など(宇野弘蔵のいうあらゆる社会に必要な「経済原則」)をつねに確保していかなければならず、それをいかなる方法で実現して行くべきかを考え実施ざるを得ないからである。そしてその実施方法が歴史的にさまざまな社会の形態を生み出してきたといえる。

 この経済原則の実施方法は根本的にはその社会が持っている、生産力(一定の労働力を投入してどれだけのモノを作り出せるかという指標にもとづく)そしてそれを支える生産方法(生産技術)によると考えられる。これらは社会における経済原則を実施するための制約である。それによってどのような社会形態が最適であるかを考えねばならないからである。例えば、古代エジプト社会も日本の江戸時代の幕藩体制もこのような制約の下で最適な形としてデザインされた社会形態であったと考えてよいであろう。しかし、それらの制約が変化するとき、最適な形態が最適でなくなるときが来るのである。そのとき社会形態が逆に生産力にとって制約になるという逆転現象を生じ、歴史は転機を迎える。エジプト古代社会が、ローマによって滅ぼされ、江戸幕府が明治維新政府の登場によって崩壊したのもそのためであるといえるだろう。これが歴史の必然性である。

 そしていま、われわれは、資本主義社会がすでにその生産力水準にとって最適な社会形態ではなくなり、むしろ制約になっている現実を目の当たりにしている。つまり今日の資本主義社会では、むしろ生産力の上昇が地球という大きなそして閉じた全体環境という条件を考慮せざるを得ない状態に直面しているにも拘わらず、生産力がその閉じた環境条件のもとで最適な形で社会を形成し維持することができなくなっている。資本による無際限の価値増殖のモチベーションによって突き動かされている生産力は、いわば全世界的にアンコントローラブルな状態に置かれているのである。そして高度な生産力によってもたらされた巨大な富はグローバルな流動過剰資本として世界中を巡っており、激しい資本市場での獲得競争のもとで一部の資本家の手に集中し、一方では地球環境の危機や毎日何万人もの餓死者や貧困にあえぐ人々を生み出し、われわれの社会でも格差を増大せしめているのである。このような状況下で、本来のデザイン理論研究はこのような現実を無視していてよいはずはない。だからこそ、いま次の社会のデザインが必要なのである。


このページは xfy Blog Editor を利用して作成されました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年7月8日 - 2007年7月14日 | トップページ | 2007年7月22日 - 2007年7月28日 »