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2007年7月22日 - 2007年7月28日

2007年7月28日 (土)

部分と全体そして否定の論理

 例えば、「AはAである」というと、同義反復だと言われる。しかし、最初の「 Aは」という段階での「A」は指示対象に対して仮に「A」と呼んでいるだけであり、後半の「Aである」はその指示対象をAと判断したということを示している。認識論的に言えば最初の「A」と後のAは異なり、この命題表現全体は認識と判断の両方を含んでいる。このような単純な記述においてさえ、対象そのものと対象を判断する主体との関係が無視できないのである。だから論理表現の場合にも当然これが言える。例えば、すべての人が認めているので証明の必要がないと言われる公理的命題でさえも、よく考えてみると分からない場合がある。例えば「全体は部分を含む」といった場合、「全体」とは何か?それに対して「部分」とは何を指すのか?つねに誰もが認める「全体」とはいかなる存在なのか?部分はつねに全体に対して「含まれる」存在なのか?例えば社会とそれを構成する諸個人の関係を考えても同様な疑問が生じる。

 マルクスは社会と諸個人の関係について次のように言っている。「諸個人は社会的諸関係のアンサンブルである」これは、諸個人の実存という視点から言っているのであって、自分が何者なのかという自己意識は、その人が生きている社会がそれによって成り立っている諸関係(メカニズム)の「その人における全体像」なのだということであろう。つまりマルクスの視点は、諸個人の存在を超越した全体としての社会が存在するのではなくて、社会的諸関係という存在そのものが社会を構成する諸個人の内にあるものだと言っているのである。社会は個人という単純な「元(element)」の「集合(set)」として存在するのではないということである。そして同時にまた、現実の社会的諸関係がそのような諸個人の実存を形づくっており、社会はそれら諸個人がさまざまな関係を結びながら活動するための実体をphysicalな媒体として実際に動いているのである。集合論はこの後半の実体的部分にしか適用できないように思う。前半の社会的諸関係という存在そのものが社会を構成する諸個人の内にあるという見方は、社会を構成する諸個人の中に「全体」があるということであり、別の言い方をすれば、「部分における全体」である。何が全体であり何が部分であるかを判断するのは主体の側であり、その判断の物質的基盤となるのが、客体的(あるいは対象的)世界の構造である。しかも主体の判断は、それが依って立つ物質的基盤の構造を共有する別の諸個人の判断と物質的基盤を媒介として連関を持つことになるといえる。だから抽象的で普遍的かつ絶対的な「全体」などはありえないと言ってもよいだろう。

 少し違うが似た例に論理表現での「否定」である。 集合論に置き換えて考えれば、集合 Aの補集合は、Aでない集合の全体、ということになる。このAでない集合の全体は何か?それは少なくともAを除くのであるから無限を表すのではなく、ある意味で限定された全体のはずである。それでは、その全体の限定をだれがどのような理由で決めるのか?ここでも頭ごなしの「全体」がア・プリオリに前提されている。

 もう少し実際的な例を見よう。デジタル電子回路の論理では、0か1によってすべての処理が決まるが、これは電圧のアナログ値の例えば5Vあたりを境界としてそれより高ければ「1」低ければ「0」という約束事の上に立って決められたものである。1の否定は0であり0の否定は1である。論理における「真」と「偽」(true and false)という「値」も同様である。何がtrueであるのかは、単なる約束事で決められているのであり、そうでないものnot trueはfalseであり、逆にnot falseはtrueである。このあまりにも単純な「否定」の論理は、弁証法的否定の論理へと否定概念を発展させるモチベーションを持たない。多分このような問題は数学基礎論などではすでに「解決済み」なのであろうが、筆者は数学基礎論に関しての知識がないのでその道の識者のご意見を伺いたい。

 「部分は全体に含まれる」や「Aの否定はA以外のすべてである」という公理的命題にはすでに一つの了解が前提されている。あらゆる具体性をはぎ取り、抽象概念として一般化された世界では、この公理が成り立つ、という前提であり、その前提が「あたりまえ」として受け止められる世界の中にいるということである。しかし、あらゆる具体性をはぎ取り、抽象概念として一般化された世界では、これらの公理が成り立つ、という前提が暗黙的了解となる場合、抽象がそのまま現実の具体的対象や事実に「あたりまえのこと」として適用されることになる。抽象的に定義された世界においての無矛盾的体系はそこでの論議においては整然とした矛盾のない論理の処理で行われるが、ひとたびそれが現実の具体的な世界での問題解決に持ち込まれるやいなやさまざまな矛盾が噴出するのである。もちろん、数学的論理の体系は、人間の思考における一つの道具であって、人間の思考の「全体」ではなく「部分」であるのだからそれをきちんとわきまえていればよいのだろうが、しばしばそれによって逆に人間の思考が脅かされることもある。例えば推測学的解析の結果によって意志決定を行う場合、それがあたかも従わなくてはならない制約として受け取られたり、実験結果が統計的に処理されていれば、間違っていないと信じてしまうのである。

 例えば、空集合という「存在」を前提し、それに一つの「元」を加えると元が1個の集合ができ、それにまた1個に元を加えると元が2個の集合ができ、それを繰り返してゆけば、やがて可算個で無限の元を含む集合ができあがるという考え方は、帰納的推論の基礎となる考え方を含んでいるが、それには「無限に繰り返す」という非現実的な前提が含まれている。つまり時間というものをつねに一定のステップで均一に経過するものとして考え、それが永久に続くという暗黙の前提があるといえる。絶対的全体や無限という概念はこうした自然界への古典的なそして暗黙的な判断のもとに取り決められた約束事である。純粋論理の世界を、約束事として取り決められたルールに基づく一つのゲームであると考えればよいのだが、それを頭から「公理」として前提し、自然や社会を理解あるいは予測するための方法として用いるととんでもない過ちを犯すことにもなる。

 このような問題は、特に設計行為やデザイン行為という「時間の先取り的」行為の論理を考える場合には重要である。なぜなら、設計やデザインは必ず現実の具体的問題から出発し、どんな抽象的思考の段階を経たとしても再び必ず具体的な現実の問題への「解」をもたらさねばならないからである。現実的具体的問題における抽象的思考そして抽象的思考における現実的課題の解決」こそが、デザイン思考の論理の本質だからである。


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2007年7月26日 (木)

認識論と実践論

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