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2007年7月29日 - 2007年8月4日

2007年7月30日 (月)

生きるとは1日 24時間づつ死ぬことである

 次に時間の問題がある。古典的にはベルグソンによる時間の哲学的考察などがあるが、時間概念の革命はやはりニュートン的世界からアインシュタイン的世界へのパラダイム変換であろう。空間と時間を独立した変数としてではなくそれらを同時に含む「時空」という概念で物質界を見る考え方は、古典的な均一で永久に続く時間と、時間とは無関係に存在する空間という概念を根底から覆した。しかし時間概念の革命は物理学以外の分野でも起きていたと筆者は考えている。それはマルクスにおける時間概念である。筆者はかつて学生運動の渦中にあった時代から長年にわたってマルクスの思想にこだわり続けてきたので、たびたびマルクスの引用が出てくることをお許し願いたい。

 マルクスは、「人は一日24時間づつ死んでいく」と言っている。これは人間の労働がもつ意味について述べているところで出てくる記述であるが、筆者にとってはこの言葉は大きな衝撃であった。「死」というものを、人間の生が終わる時間の一点を指す概念と思ってきたが、そうではなく、毎日毎瞬間ごとに現在という時点での「生」は過去の生に変化していくのだ、そしてそれが「死」というものなのだと知らされたのである。労働で言えば、労働の現在は過去の労働(労働手段や労働対象として用いられる人工物を作った過去の労働)を再び「現在」という時間の中である目的を実現させる手段として「生かす」ことなのである。過去において無数の名もなき人々によって成された労働の成果が、労働の現在において再び生き返ることによって人間は過去と現在を結びつけ、過去の労働すなわち過去に生きた人々の存在意義を現在において実感することができるのである。「生きた現在の労働」が「死んだ過去の労働」を再びよみがえらせながら自分自身もまた新たな意味を創造しつつ人は一日24時間づつ死んで行き、やがて自分自身の個体としての死において死を終了するのである。たとえ自分がこの時代に生まれ、生きていることの意味が分からなくなったとしても、自分が行っている労働が未来の人たちに何らかの形で意味を持つことになるのだと知ったときの、ある種おおきな感動はいまでも忘れることができない。これがマルクス的な生と死の概念なのであり歴史の概念なのである。

 それ以来紆余曲折を経ながら貧弱な頭脳で考え抜いた結果、筆者にとって、時間とは、自分とは無関係にただ均一に過去→現在→未来という風に流れていくのではない。しかし反対に自分の内部でしか意味を持たないものでもなく、自分という存在そのものを規定する条件でありながら、同時に、自分という主体的な存在において創造的な行為を生み出させる基本的条件なのだと考えるようになった。時間は外的で物理的な、自分が超えることの不可能な制約であるにも拘わらず、自分の内的意識空間(場所)において創造される新たな意味を生み出させるための手段でもあるのだ。別の言い方をすれば、自分という存在はつねに時空の一部でありながら「次の瞬間」という新たな時間を生み出す創造的「場所」なのである。だから思考そのものが内的時間表現であるともいえる。自分という歴史(時間)の産物が同時にまた時間(歴史)を創造する主体的存在なのである。そして、それがしばしばこのブログに出てくる「時間の先取り」という概念に結びつくのである。

 すでに述べたように、自分という存在が時間の産物であるため、その存在が時間という根源的制約を超えることはできないのであるが、しかし、だからこそ、自分と対峙する外的世界との間に生じるさまざまな「問題」を見いだし、それを解決しようとするモチベーション、つまり目的意識の生成(何かを行わなければならなくこと)を余儀なくされる。目的意識により動因を与えられた「生きた思考」は時間という外的制約を内面に取り込み、それを思考という形で内的に表象し、過去の思考の成果をその手段とすることによって、新たな創造物を次にやってくる時間に向けて生み出す。その「生きた現在の主体的思考」が時間の先取り行為であり、その結果として表出され創造された実在が、過去の思考の結晶化した実在物であったり思想であったりするのであり、新たな時空的対象世界の部分を形成するものになるのである。だから思考は本来創造的本質を持っているといえる。

  この時間の先取りは、ポラニーの「創造的想像力」で述べられている直感概念とほぼ同じ内容とも言えるかもしれないが、ポラニーの場合は、科学的発見という天才の世界に焦点を当てており、日常的思考の問題として扱っていない。しかし、創造的思考は、決して天才や特殊な才能を持った人の中にしかない能力なのではなく、日常のあらゆるあたりまえの労働の中に存在する能力であり、たとえ毎日同じようなことを繰り返しているように見えても、それが相互連関を持った行為つまり「意味のある行為」である限りその中に必ず潜んでいる能力なのである。その中に必ず、時間の先取りがあるといえる。

  もちろん広い意味での時間の先取りは人間以外の動物の直感の中にもある。異変が起きる前に動物たちが騒ぎ出すなどというのがそれである。筆者の場合、時間の先取りが動物的直感の段階から人間的直感に成長し得たのは人間が「ものづくり」つまり生産的労働を始めたからであると考えている。人間の時間の先取りが、論理や表現と結びつくことができたのは、それが新しいモノ(実在)を生み出す行為としての役割を持ってからである。これについては、また別の機会に詳しく述べることにしようと思う。

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