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2007年8月12日 - 2007年8月18日

2007年8月14日 (火)

主体と客体=区別における同一性

 主体と客体の関係についてさらに考えてみよう。主客の関係を2項対立的に捉えることが暗黙の了解になっている現代の論理では、カントに見られるように一方に不可知的「物自体」があり、他方にそれをとらえる主体の観念の世界があって、我々が了解する世界はすべてこの観念の産物であると考えるか、人間の観念の世界はすべて物質的世界の自己運動の反映であると考える、といういわば同じ考え方の裏と表のような関係にとらわれてしまっているのではないだろうか?

 しかし、物理学の世界ですら、素粒子の世界では観測者が関わることによって、「物自体」が変化してしまうという問題が生じているし、要するに主体と客体は切り離せないものであるということが明らかになりつつあるのではないだろうか。もともと「主体」とは人間の内面の世界を意味するのであって、それに対する「外界(自分の身体をも含めて)」を客体としてとらえているのだと思う。それは歴史的に見れば、地球上に生物が登場したときから始まったともいえる。無機物のみの世界では、その世界を「世界」として認識する存在がなかった。すなわち物質は物質自身をそれとして認識することが出来ない即自的存在であった。しかし生命の誕生によって、自律した個体が現れ、細胞膜を挟んで内部世界は外部世界から独立した自律的個体の世界を形成し、外部世界との「やりとり」という関係が始まったのである。これは物質界の歴史(自然史)における画期的出来事であったに違いない。

 生物は単細胞から始まり、やがて複雑な構造をもつ高等な生物へと進化した。それに従い、内部と外部の間の物質代謝が自然界の動的要因の一つとなり、さらには植物と動物が分化することにより、動物の個体は特定の場所から解放され自由に動き回れるようになった。動物においては内面の世界は自己保存と種の保存という無意識的「欲求」によって動機づけされ、意識的にではないが、本能的レベルで外界に働きかけるようになる。これによって自然界は欲求という動因によって内面と外的世界が自己分裂しはじめたといえる。本能をもたらすものは、幾世代にもわたって種の内部に取捨選択された記録の蓄積により生成されてきた遺伝子的記録にもとづく身体・生理学的構造である。

 そしてその後、人類が登場した。人類においては、欲求という形で表現される内面世界とそれを充たしてくれる外部世界を結びつける媒介物としての「道具」が用いられるようになり、それによって欲求表現に一つの「客観的通路」を与えられるようになった。人類は道具を用いて外的対象に働きかけ、それを組み替えあらたな対象物(人工物)を創り出すことを可能にした。それと同時に道具という、欲求を間接的な形で表現する媒介的(手段的)人工物をモノづくりの目的にするという新たな行為が登場した。このことが人類の内面で新たな意識的営為を発生させ、欲求を「目的」という形に客観化させる思考が始まったと考えられる。

 人類が登場し、目的意識的にモノづくりを行うようになったことにより、初めて自然は自己自身を「対象的」に認識することができるようになったのである。言い換えれば人類は自然が自ら数十億年かかって生み出した自然自身の頭脳であり、目的意識的モノづくりという行為を通して、自然は自分が何者であるのかを明らかにし始めたのである。

 個々の人間は自分の内面を「思考する主体」として意識し、外的世界を「客体的対象」としてとらえることができるようになった。しかし、その主客の関係は人類の歴史の中で生み出された社会の成り立ち方によって大きく変化してきた。それは個々の人間がその「類的存在」を可能にしている社会が、自然的・物理的対象と個々の主体との間で媒介的存在として成り立っているからである。個々の主体の内面では、生理学的・遺伝子的に蓄積されてきた身体的要素を土台として、その上に後天的要因としての社会との関係によって築かれる経験的蓄積(教育の成果も含む)の内容によって固有の意識が形成されるようになった。ここではこれを「場所的な世界」と呼ぶことにしよう。

 諸個人は、自身が存立するために必要な生活条件を、各人のさまざまな役割分担労働を通じて産出する、一つの全体としての「社会」の中で生き、それによって自分が自分であることの意義を自覚している。その社会は歴史的な規定を受け、その時代特有の生産関係(社会的に必要な生産を行うための仕組み)によってそれを実現している。したがって、個々の個人が何者であるか、そしてその内面で自己をどのように意識しているかは、社会的諸関係の個人(部分)という場所ににおける総合(全体)として存在しているといえる。

 主体の場所的な世界には、個における全体性がある。私にとって「私の経験したあるいは経験している世界」が「私を含めた世界の全体」である。そして私はつねに「次の瞬間」への一歩を踏み出さんとする現在という歴史の時間的先端で生きている。つまり、私にとって、客体的存在は、良かれ悪しかれつねに私という主体との関わりにおいて変化する「全体」という存在であり、「私」は客体の変化によって自らも変化する主体として全体をの一部を担っているのである。

 別の言葉でいえば、主体と客体との対立は、主=客という区別を可能にする根拠としての同一性にもとづくのである(区別における同一性)。そしてこの区別における同一性こそ、主客の対立において目的意識という動因を生み出させる根拠でもあるといえる。

 目的意識は、主体と客体の関係に何らかの「齟齬」が生じ、それを「問題」として認識した主体が、客体に対して働きかけようとする「意図」として発生するのである。その「齟齬」は具体的な状況から始まり、その具体性は主体の「場所性」に基づくものである。つまり、目的意識には、その目的意識をもった主体の場所性(社会的諸関係の場所的アンサンブル)が反映されているのである。ある特定の主体が持つ目的意識が他者にとっても理解可能であるのは、それが閉じた観念の世界に発生したものではなく、客体との関係において発生したものであるというだけではなく、主体の固有の場所性においてすでに他者の場所性を前提とした共通の基盤があるからだといえる。


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