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2007年10月7日 - 2007年10月13日

2007年10月10日 (水)

水平的抽象と垂直的抽象

しばらくこのブログを休んできたが、もう一度哲学的問題に戻ろう。

 ここで取り上げるのは「抽象」の問題である。抽象(abstraction)は、さまざまな本質的でない要素を捨象して、ものごとの本質を抽出しようとする思考のあり方を指しているが、筆者の考えでは抽象にはいくつかの種類がある。大きく分けると「垂直的抽象」と「水平的抽象」といってもよいかもしれない。垂直的抽象は、例えば、a, b, c,...という複数の対象があり、それらに共通する要素としてAという概念が成立する場合である。Aはa, b, c,...をカテゴライズする上位概念である。これはさらにA,B,C,...という概念の共通要素としてAという上位概念をもたらすかもしれない。これらは階層化された概念を構成する。それに対して水平的抽象は、マルクスの単純商品交換における抽象が典型的な例である。これは前にも述べたので重複するが、次のような抽象が行われる。  商品xを所有するXなる人物が、商品yを所有するYなる人物と出会い、XはYの所有する商品yを自分が所有する商品xと交換したいと欲したとする。その場合、Xは商品yのなかに使用価値という自分の目的意識に結びつく価値を認めたことになる。しかし自分が所有する商品xはXにとってはもはや使用価値はない。だからこそ交換に出したいのだ。xはXにとって交換価値しかもたない。Xにとってyは使用価値でありxは交換価値であるが、Yにとってはyは使用価値ではない。ここでもしYもxに使用価値を認めるならば、Yにとってxは使用価値でありyは交換価値であることになる。さらにもし両者が商品を交換し合うことで合意したとすれば、そこに何らかの形でx=yという等価関係が成立したことになる。xとyという全く異なる使用価値がともに相手の商品に対して交換価値を持つということを通じて両者に共通する価値の存在を示したことになる。マルクスはさらに分析を進め、この等価の背景にある価値を形成する実体が、それを生み出すのに必要な社会的に平均的な労働時間であることを明らかにするのであるが、この商品交換における等価関係が抽出される過程での抽象がここでいう水平的抽象である。水平的抽象は両商品所有者がそれぞれ対等に主体的な目的意識的判断の下で行った抽象であり、それを前提にした両者の協調的合意のもとではじめて成立する抽象である。

 垂直的抽象が、あらかじめ社会的に認められた既製概念を暗黙の前提として抽象している(例えば社会通念や常識などとして)のに対し、水平的抽象は、個々の商品所有者の主体的判断に基づいた関係を通じて抽象が行われている。垂直的抽象は、たとえそれをカテゴライズする人によって多少の違いがあったとしてもそれは個人差として無視されむしろ平均的に社会的常識で認められる概念としてカテゴライズされるのが普通である。しかし水平的抽象は、あくまで個別の主体的判断によって決まる(実はその判断の背後に社会的に必要な労働時間という価値形成実体があり、それを間接的な回り道で認識していることになるのであるが)抽象であり、本質的に主体的であり目的意識的である。多くの場合、形式的論理学にもとづく抽象は垂直的であり、非主体的(いわゆる「客観的」)である。これに対してモノの生産や消費という実体世界に関わる経済学の世界では水平的抽象が行われる。別な言い方をすれば垂直的抽象はトップダウン的思考であり、水平的抽象はボトムアップ的思考であるともいえる。あるいは前者はすでに出来上がった世界への諸事象の分類整理であり、後者は個別的意志にもとづく構成的かつ形成的抽象であるとも言えるだろう。

 しかし、重要なことは、ここに現代社会における形式論と内容との乖離の問題が潜んでいると言うことである。例えば社会通念のベースにある論理学は、形式論理学である。社会一般に「公理」として認められた考え方の方法的枠組みとでもいう、形式論理学においてはその扱う問題の内容は問わない。形式的処理だけが問題となる。それがいわゆる客観的世界であり、内容の問題は主観の世界として切り捨てられる。その客観的世界からは目的意識とか意図といったものは除去される。それは形式的側面を論じるものとしての意義はあるが、人間の思考は形式的側面だけで成り立ってはいないし、主観的世界がそこから切り捨てられては何らリアリティーがないことになる。例えば設計問題のような場合は、形式論だけでは済まされなくなるのである。

 モノをつくる創造的行為の思考は水平的抽象を行う。なぜならそれは明確な目的意識があるからである。この場合の水平的抽象はつくるひととつくられるモノとの間に行われるインタラクションの過程で行われるのである。モノという客観的(物理的)世界と対峙する主体的世界は決して客観的世界から隔離された恣意的世界ではない。それは主体そのものが、そもそも最初からモノの性質を併せ持っているからである。モノの一部でありながらモノの世界と対峙せざるを得ないのが人間の思考の世界である。したがって、そこには形式と内容が統一された思考空間があるといえる。「形式」はモノとしての論理の一面であり、「内容」はモノと対峙する主体の意図や目的意識である。水平的抽象では、このような一対一の対峙から抽象が行われ、やがてその背後に両者に共通する「真理」が抽出されるのである。

 設計論の世界はこのような現代論理学のパラダイムを超えざるを得ない深い問題を抱えているのである。そしてそこにある抽象のあり方もその一部を成している問題である。

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