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2008年6月22日 (日)

17世紀芸術考

 ニューヨークでは最初グッゲンハイム美術館をまだ見ていなかったので有名な建物だけでも見たいと思って娘と一緒に行ってみたところ、何と補修工事中で建物の外観は見ることができず、しかもなぜか切符売り場は長蛇の列である。そこでここはとりあえず止めにして近くのセントラルパークをちょっと垣間みてからメトロポリタン美術館に行ってみた。しかしこの広大で雑踏のように人が多い美術館を全館見て回るのは無理なので、17世紀の美術に的を絞って見ることにした。中学高校生位の若者が団体で来ており、館内はにぎやかだったが有名なレンブラントやフェルメールなどの絵の前が特に混雑しているというわけでもなかった。

 私はレンブラントの肖像画をいくつか見た。期待通り彼の自画像を含め、暗い背景の中で上方から差し込むいわゆるレンブラント光線の中に浮かび上がる肖像の深い内面表現に打たれた。そしてオランダ人ではないがジョルジュ・ラトゥールのマグダラのマリアにも逢えた。このときは時間的制約がありあまりゆっくり見ていられなかったので、このときの思いを胸の中にしまっておいて、後日それを思い出しながら書いている。

 ラトゥールのマグダラのマリアにはすでに日本で逢っている。たしか2006年だと思ったがラトゥール展が東京であったときに見に行って、大変心を打たれたので、その複製を買ってきていまでも書斎の壁に掛けてある。私はこの展覧会でラトゥールという人物に捉えられてしまった。キリストの教えによってそれまでの奔放な生き方を悔い改めるマグダラのマリアの心情を、蝋燭の炎にすかしだされる書物のページと顔と裸の体を長い髪の毛で半ば隠したマリアがじっとどくろを見つめる情景の中で描き出している作品や、幼いイエスが父ヨゼフの仕事をそばで見ていて、ヨゼフに何か語りかけた瞬間を描いている作品が特に印象に残った。イエスのかわいらしい純粋な目と、職人であるヨゼフの鋭いが優しい視線がぶつかり合う瞬間が実に見事に描かれていた。ラトゥールはその暗い背景の中に蝋燭のほの赤く柔らかい光の中で浮かび上がる表情や物体の表現を通じてそこに描かれている人間の内面を心憎いまでに描ききっている。

 レンブラントの肖像がもつ人間の内面表現の深さやラトゥールの光と陰による人間の内面表現の訴える強さが、なぜ17世紀という時代に現れ得たのだろうか?音楽の世界においてもJ.セバスチャン・バッハのように深い内面表現が主調になった作品はこの世紀の特徴であるように思う。

 それはちょうど西ヨーロッパで産業革命期が始まる少し前の時期であり、一方では華やかだったルネッサンス時代が終焉し、宗教改革の嵐が吹き荒れ、宗教改革によってキリスト教観も変化を来たし、一方でヨーロッパ諸国の海外進出と植民地開拓が盛んになりだし西ヨーロッパが古い中世社会から近代の資本主義的商品経済社会に移り変わる時期であった。おそらくこの時代の心ある人々の実存はキリスト教的倫理観と商品経済社会への世俗的関心とが入り交じり複雑に揺れ動いていたのではないかと推察できる。「古い封建的社会から解放されて市民的自由を謳歌し始めた」などと言ううたい文句は表面的で通俗的な解釈であって、おそらく個人個人の内面の世界では心のよりどころとなってきたキリスト教的世界観・倫理観自体が揺れ動き、世俗的生活面では商品経済社会をベースにした個人主義が実利的な実存を要求してくる中で揺れ動く不安に充ちた状態であったと考えられる。そうした個人の時代的苦悩の内面が芸術家の表現にも反映されているように思える。

 しかし、産業革命以後の近代ヨーロッパではどんどん資本主義的商品経済社会が浸透し、芸術家も作品を商品として考える時代に移って行ったのだと思われる。薄っぺらで内容の薄い芸術作品や建築デザインが主流になる中で再び人々が実存的な危機を迎えるのは産業資本主義時代が行き詰まりを見せ始めた19世紀末〜20世紀初頭になってからのことである。

 17世紀の芸術がなぜいま21世紀の高度技術文明社会に住むわれわれにこうも強く訴えかけるのかは、おそらくもうここでクダクダ述べるまでもないだろう。19世紀末の時代的苦悩はその後2度の世界大戦によって、単なるインテリや上層階級だけの苦悩ではなく、高度に近代文明の進んだ国々の数千万人の労働者や農民達がその生活を奪われ、死地に引っ張りだされるという壊滅的な現実を経て、20世紀の後半以後のモダニズムの世界へと変化してきた。モダニズムの世界は大量消費社会と呼ばれるアメリカのケインズ型資本主義経済を基盤とし、それをグローバル・スタンダード化する形で世界に広まり、デザインやモダンアートという新たな市場を生み出した。そこではつねにそれに反発する動きとして民族主義とか社会主義リアリズムとかポスト・モダンとか脱構築とかいった流れを生み出しながらも総体としては個人が個人であろうとする努力と、それが意に反して商品経済社会の中でつねに均一化されざるを得ないというジレンマの中で苦しむ21世紀的実存がある。だからこそ、かつて実存的な意味での「個人」が登場し始めた17世紀の芸術が、いまわれわれが晒されている実存的苦悩の原点を見せてくれるにではないだろうか?

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