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2008年6月19日 (木)

NYCモダンアート考

 5月の中旬にアメリカに行くチャンスがあった。一つはオハイオ州デイトンで毎年開催される念願のアマチュア無線コンベンションに参加することであった。これについてはこのブログで書くほどのことでもないので省略する。

 もう一つの目的はニューヨークに住む娘に会いに行くことであった。娘は大学の同級生であるアメリカ人と結婚しニューヨークで夫とアパート暮らしをしている。こう書けば聞こえはいいがあまりリッチでない彼らは郊外の安アパートに大学時代の友人とルームシェをしながら生活しているのである。娘の夫は市内のフォトプロセッシング・スタジオに勤めており無口だがまじめな青年である。そのアパートに私が泊まり込むのだから彼らにとってはあまり大歓迎というわけにはいかないこと位はこちらも承知の上だ。そこで普段ろくなものを食っていないであろう彼らに、私が居る間はレストランで夕食をおごってやろうということにした。彼らにいいレストランを案内してもらい、そこで一緒に夕食を摂った。これはこれで結構楽しかった。最初の晩はペルー料理の店でモヒートというラムベースのリキュールを薦められて飲んでみたら結構行けるのでついついお代わりなどしてしまい、したたかに酔っぱらってしまったりした。それでも3人で120ドルくらいだから思ったほど高くはなかった。

 ニューヨークに居る間、少しモダンアートの作品を見たいと思い、着いた次の日に一人でハドソン川を列車で1時間半ほどさかのぼったBeaconという小さな町にある美術館 DIA Beaconに行ってきた。ちょうどソルウィットのドローイングの作品特集をやっていて、これは面白かった。彼は鉛筆と定規やコンパスによる線書きの可能性をとことん追究しており、その持続力というか集中力というか、とにかく偏執狂的な迫力に圧倒された。しかし、その他の作品、例えば有名なジャッドの木の箱のような作品や別の作家の床にでかい穴を穿った作品などは作家の独りよがり的な感じがしてあまり面白くなかった。

 DIA Beaconで最も感動したものは、実はその外庭から眺めたハドソン川の景色であった。不安定な空模様の中、黒い雲の合間から時折射す日の光に映えて実に静寂で美しい眺めだった。時間とともに微妙に移り変わる自然の風景の方が残念ながらモダンアートの作品よりもはるかに魅力的だった。

 DIA Beaconから帰った翌日ちょうど娘が仕事がなかったのでチェルシー辺りのモダンアート・ギャラリーを案内してもらった。やはり東京銀座あたりのギャラリーとは一味違う印象だったが、やはりモダンアートの世界には本当にピンからキリまであるということを改めて感じた。大半は思わせぶりなポーズを取っていても中身が何もないという代物だったが、中に一つ心を動かされた作品があった。たしかZhang Hwanという名前の中国人作家だと思ったが、倉庫のような大きな天井の高い部屋一杯に一つの物体が置かれていた。それは見上げるような巨大な像であり、全体が本物の何十頭かの牛の皮で覆われていた。それこそ牛の体丸ごとの皮(頭の部分も付いているのがあった)で覆い尽くされたある一人の人物が床に座り込んでいる姿なのである。それは母の像であった。よくみると赤ん坊を背負って疲れ果てた表情で両手をだらりと垂らして力なく床にへたり込んでいる母の像であった。

 私はそのときこの作家がなぜ牛の皮を母の体中にまとわせたのかよく理解できなかった。しかしはぎ取られた皮に残る牛の姿と巨大な母の絶望的な表情が何故か見事に共鳴し合っており、それが不思議な深い感動を私に起こさせたのである。その感動が何なのかよく分からぬままに帰国してしばらくたって、ある夜自宅のベッドで眠れぬままにこの時のことを思い出した。それは皮を剥がれた牛の姿が、人間のために働き詰めに働いて、あげくの果てに皮を剥がれて肉まで食われてしまった牛の悲しい運命が、しかも何百年何千年と続いてきたその悲しい牛たちの運命が、中国の農村の母という姿と共鳴し合っているではないかと思った。

 こう書くと、「それはステレオタイプ化した古い倫理観・価値観のモダンアートへの押しつけだ」と言われるかもしれない。しかし少なくとも、さも何かありそうに見せかけながらその実、下世話な出世欲の発露でしかなかったりする作品よりは、彼の作品は、はるかにストレートな感動を与えてくれた(少なくとも私には)。

 有名になることで作品に破格の値段がつく芸術家の世界は、作品を作り上げるまでに費やされた時間をもとにした本来の価値ではなく、多くの買い手がつくかどうかで付けられる交換価値で作家の価値までもが決まってくる。ブランド商品と同じで商品の使用価値ではなく、ただブランドの人気があるために付けられるいわゆる「付加価格」である。モダンアートの作家達はいかにして自分のブランド価値を高めるかに憂き身を費やしているかのように見える。それもお金を有り余るほど持っている人たちが相手なのである。しかし,その中にも、何かを訴えようとしている魂があることも事実であろう。

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