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2008年6月30日 (月)

厳島神社と原爆ドーム

 広島の郊外のある大学で開催されたある学会の翌日、私は生まれて初めて宮島の厳島神社と原爆ドームおよび原爆資料館を訪れた。それは両方とも「世界遺産」であるからという理由ではなく、たった一日しか時間がないときにどこを見ておかねばならないかを考えた結果だった。

 宮島に渡るフェリーの中にはアメリカなど外国人の観光客が多かった。彼らは霧雨まじりの天気の中で遠くにぼんやりと見え始めた厳島神社の大鳥居を写真に撮ろうと一生懸命だった(私もその一人だったのだが)。私の隣に腰掛けた人の良さそうな太ったおばさんに"Where are you from?"と聞いたら"USA"という。"What State?"ときいたら"Connecticut"だそうだ。"I' m sorry not so good wheather today"というと、"Ah, yeh, but connecticut usually like this"なんだそうだ。

 宮島の桟橋から厳島神社までは土産物店が並んだ参道を10分ほどの道のりだった、厳島神社は台風で大きな被害を受けたが、いまはほとんど修復が終わっていた。そのせいもあってか、真新しい朱の柱や壁が古い歴史の重々しさを幾ばくか減じていた。しかし、逆に私は平清盛がここを創建した当時のイメージを呼び起こされた。それは当時世をときめく権力者であった清盛が権力者故に求めた心の拠り所だったのかもしれない。海の中に突き出して作る舞楽の舞台と海中の大鳥居という演出は当時としては画期的なデザインであっただろう。清盛はここで権力者の孤独を癒すことができたのかもしれない。しかし800年後、われわれのような下賤の民や「紅毛碧眼」の異国人達がこの神聖な場所に土足で踏み込んで写真を撮りまくるなどということは想像だにしなかったに違いない。インドのタージマハールに行った時も同じような思いに駆られた記憶がある。

 さて、フェリーでもう一度宮島口に戻って、今度は広電で広島市内に出た。原爆ドーム前という停留所で電車を降りて間違えて広島球場側に向かってしまった。ちょうどプロ野球が行われているらしく大勢の客が球場に向かっていたのだ。気づいて道路の反対側に渡ったところ広い公園の木々の向こうに原爆ドームが見えてきた。近づくにしたがっていつも写真で見ていたイメージとは少し違う印象を持った。それはよく見るとドームてっぺんの露出した鉄骨や崩れたレンガ壁の部分に修復が施され、原爆で破壊され風化されたままの廃墟ではなく、「世界遺産」として保存されたドームという印象が強くなったように思えた。これはこれで仕方がないのかもしれないが、何となく「風化」に刻まれた暗黙のメッセージが薄れてしまったようにも感じられた。

 そしてそのあと訪れた原爆資料館の展示は予想はしていたもののショッキングであった。最初に広島市の戦前の姿が写真と解説で示され、その後なぜ原爆が広島に落とされることになってしまったのかについて、きわめて淡々と事実が書き連ねられていた。多くの原爆投下候補地の中で、軍事施設が多く、捕虜収容所がなく、しかも地形の関係でもっとも効果的に原爆が殺傷力を発揮できる場所として広島が選ばれたのである。そして運命の8月6日午前8時15分。何も知らずに通勤通学に向かう多くの一般市民が瞬時にして14万人も命を奪われたのである。

 その直後のすさまじい破壊の跡、目を覆いたくなるような被爆者の悲惨な姿やその遺留品の数々にショックを受けない人はおそらくいないであろう。直撃を受けて亡くなった少女が来ていた上着(この上着にはハートの文様が入ったブローチがついていた!)や血膿がついてぼろぼろになった下着。そして何よりもそれらの遺留品一つ一つにそれらを身につけていた人たちがどのような状態で発見され、どのように死んで行ったのか克明な説明がついているのである。

 この怒りと憤怒の感情を背後に隠し、ただ疑問の余地のない事実をありのままに客観的に淡々と示した展示の説得力は圧倒的であった。私はここに展示された遺留品を身につけていた被爆者の人たちの苦しみと怒りを自分の心の中で追体験できたのであろうか?だがたとえ追体験できたとして、果たしてそれだけでよいのだろうか?自問自答し続けた。当然のことながら答えはすぐには見つけ出せない。しかし自問自答を止めることもできない。

 まず原爆を生み出すことを可能にした科学者達の研究成果があった。それを核兵器として生み出すことを必要にさせた政治社会情勢があった。綿密でクールな計算に基づき直接的には当時のトルーマン大統領が下した決断によってエノラゲイ号が広島上空でリトルボーイを投下した。その理由は日本が不当に開始した戦争を一刻も早く終わらせるためであった。こうして多くの人々の「意図をもった行為」によって20万を超える広島の人たちはその犠牲となった。そしてだれ一人として殺人犯として訴えられることはなかったのである。

 戦争は「正当な理由」があれば容認される。そして無数の人々がそれによって命を奪われる。戦勝国となった国は何千万という人間を殺しても罪を問われない。だが考えてもみよ、普段なら個人として何の恨みもなく親しい友人としてつきあうことのできる外国の人たちが「国家」や「民族」という看板を背負ったとたんに、「祖国のために」互いに殺し合わねばならなくなる。無垢の子供たちや非戦闘員はいうまでもなく、銃を持たされ、爆撃機の操縦桿を握らされ、核兵器のボタンを押さされる戦闘員達も結果として悲惨な戦争の被害者なのである。戦勝国の戦闘員は「英雄」というかたちでこの被害者としての真実を覆い隠されてしまう。むしろある意味でこの方が悲惨であるといえるかもしれない。原爆で死んだ人々はむしろその直接的に悲惨な死によって、そのまま戦争の悲惨さを世界に訴えることができるのだから。私は原爆で亡くなった3歳の子供が遊んでいた錆びた三輪車を見ながら涙を抑えることができなかった。

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