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2008年6月24日 (火)

ボケの入り口にて

 年齢のせいか、最近、夜深く眠れないことが多い。覚めた状態とも夢の中ともつかない、現実と夢の中間領域的世界にあっていろいろ考え、思い悩んでいる自分を、もう一人の自分が眺めていてそんなこと思い悩んでみても仕方がないではないかと嗜めている。そんな、決して快適ではない状態の中で、ある一つの考えが姿を現し始めた。

 それは、キリストとか釈迦とモハメッドとかいった偉大な宗教の祖といわれえる人たちは、実は絶対的な神の存在など心の底では信じていなかったのではないかということである。彼らはあくまで人間界の問題は人間自身が解決すべきであり、神の手に委ねるようなことをしてはいけないと思っていたのではないだろうか。だからこそ逆に死によって人が人生を終えるという事実を、死後の世界で報われるという想定のもとにとらえ直し、堪え難い現実を耐えて生き抜くすべを与えようとしたのではないだろうか。そうすることによって人は堪え難い現実にも耐え、そのような状態においても生きようとする勇気を与えられる。彼らが信じていたのは絶対的な神の力などではなく、脆弱で間違いを犯す人間の精神ではなかったのか?それは時には重大な誤りを犯すが、それでもまたいつかは立ち直れる。たとえその人間が絶望のうちに死んでしまってもその誤りを別の誰かが気づき別の「場所」において立ち直らせることができる。そのような人間をこそ彼らは信じていたのではないだろうか?そうだとすれば彼らは「神の代理人」などとはまったく別の意味で、つまり人間的な意味で偉大であったと言わざるを得ない。それは、私の中では、マルクスのいう「人は一日24時間づつ死んでいる」という言葉とどこかで通底する哲学なのである。

 私はマルクスのこの言葉の中に、自分が日々現在を「生きた労働」という形で生きぬくことに命を燃やしながら一瞬一瞬それを過去の労働の結果に変えて行く(実はこれが価値を創造するということに他ならないのだが)ことによって、その一日を自分として生きること(私の場合は精神労働を通じて)ができたのだということに気づき、自分の存在が、自分の命の支出によって生み出したモノ(生きた労働が対象化された結果としてつまり死んだ労働として)を媒介として他者の生の中に取り込まれることによって再び他者という「場所」において生きる自分の命という形で結びつき、自分の存在の意味を持たされているのだと気づいたときがあった。いささか宗教臭のするマルクス観ではあるが、おそらくマルクスの人間観はそれほどまでに深いものであることは確かだろう。まさにある唯物論哲学者の言ったように「死んで生きる」という言葉で表現されるような「主体的物質」としての人間の立場の深さを物語っている。

 さて加齢が進み目も悪くなってきて、いよいよ思考力も肉体もぼろぼろになりつつある自分にとって、物質的肉体が消滅する前に主体的な物質としてやっておかねばならないことは山ほどあるのである。それは一つには昨今のデザインの動向のみならずさまざまな形で現れている「付加価値」という虚偽の価値についてもう少し考察を進めること。実は本来の価値の意味を忘れて「付加価値」を追い求めることほど馬鹿げた行為はないのである。限られた人類共有資源である石油を買い占め世界中の人々の生活を混乱させている一握りの人たちも同じ穴のむじなである。そしていわゆるIT化の時代と言われる今日、情報技術を主とした現代の技術文明がわれわれの実存にどのような影響力を及ぼしており、どのようにその技術の負の側面を逆用してわれわれが主体的立場を取り戻せるかという大きな課題がある。IT技術をベースとした市場のめまぐるしい変化に乗っかって最先端を走っていると思いこんでいる人達は実はそれに振り回され、ものごとの本質を見失っていることがほとんどなのである。見るべきものは、それによって社会がどれほど多くの大切なものを失ってきたのか、そして失ってきたものをふたたび新たな形で取り戻すためにどうやっていまの技術を転用できるのかである。少なくともこれからわれわれが獲得すべきリアルな近未来の社会像の輪郭くらいはイメージできるようにならなくてはこれまで孤独な人生の中で苦悶してきた自分が生きてきた意味がない。

 いまの世の中では競争に勝たねば滅んでしまうという危機観だけが支えになって生きている人々が多い。しかしいったい誰のための競争なのか?この激しい競争でぼろぼろに使い果たされる自分の労働力は結局そのあとに何も残してはくれない。そればかりかその激しい競争の結果、世の中は本当に良くなったのか?いったい誰が競争を強い、何のためにたがいにつぶし合う人間社会を生み出したのか?この半世紀の間、われわれは未来に一筋の希望を持ちつつ働き詰めに働いてきた。そしてその結果が今日のこの絶望感に満ちた世界である。絶望的に暗い近未来のイメージを描き出したり、それを「アカルイミライ」とシニカルに吐き捨てたりすることはそれほど難しくない。しかしわれわれがいま必要なのは、なぜそうなったのかをとことん考え抜くことと、どうすればこの絶望的に見える世界を生き抜き、このトンネルの彼方に本当にわれわれが目指すべき世の中の曙光を見ることができるのかである。これこそ本来人間が持っているべきデザイン能力の発揮すべき場所なのではないだろうか?


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