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2008年9月 3日 (水)

全体という「ワールド」

 私の夢の中で21世紀のツアラトゥストラはかく語った。

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「私にとってあなたがすべてです。」という場合、ここでいう「すべて」は目の前にある「あなた」という人間を指すのであり、一個の具体的存在である。しかし「宇宙全体」というような場合は、だれも見たことのない想像の世界で形成される抽象的「全体」であり、具体的ではない。社会全体とか世界全体という場合も抽象的であるが、これは具体的な個々の存在の連続的延長としてとらえられる。しかしどちらにせよ、「全体」とは客観的存在、つまり人間が存在しようがしまいがそこにあるものではなく、人間の意識の中で形成され規定される「存在」なのだ。一人一人の意識の中でその個人の内的世界としての「全体」がある。この諸個人の内的全体を「ワールド」といえば、ワールドは諸個人が依ってたつ物質的存在やそれらが具体的な生活の営みを可能にさせる諸条件の上に成り立つのであって、同じ時代同じ時間を生きる諸個人はその物質的諸条件が共通であるがためにある特定の世界観としてそれを共有することができるのである。

 しかしこの「ワールド」は一つの枠組みを形成し、しかもその内部に生きる諸個人のほとんどが、このワールドを枠組みとして意識することはない。それは「当たり前の世界」だからである。いわゆる常識的世界や社会常識もこれに当たる。その内部に存在する人々はそれが枠組みであることすら意識しない。しかし、時代は決して同じ場所に留まってはおらず、少しずつ動いて行く。それが歴史である。

 われわれは常に少しずつ動いている歴史的「現在」に生きている。そこではやがて「ワールド」がわれわれの実存との間で「きしみ」を生じ始め、人々はそれをさまざまな場所においてさまざまな形で齟齬を知覚し始める。やがて「ワールド」が枠組みとして意識されるようになるが、人々は「きしみ」をその枠組みの中に押し込めて理解しようとする。それらの人々はいわゆる「保守派」を形成する。

 やがてそれも失敗に終わるとき、人々は不安とおそれの中でそれがいままでに経験したことがない事態であることを感じ取り始める。その「きしみ」はすでにその経験したことのない事態への対処手段を準備しているはずである。しかしそれが手段たり得るのは、それに気づく人が登場するのでなければあり得ない。確実なのは多くの人々にとって「超えねばならない対象」としての枠組が見えてくることである。それはすでに「当たり前」ではなくなり、束縛として対峙する存在となる。

 束縛としての枠組みから解放されるために、さまざまな試行錯誤が行われるだろう。その大半は失敗し、そのうちのいくつかは潜在する手段に気づき、それを積極的に利用しようとするがそれも必ずしも成功するとは限らない。まるでこれまでに歴史を築いてきた人々の努力が無に帰すように見えることもあるが、失敗がなければ成功への気づきはあり得ない。すべての失敗が一つの成功に繋がる。意図さえ見えていれば失敗は必然的回り道である。

 だからわれわれは目前の事実に敏感でなければならないし、今日の生活が明日も続くと思わない方が良い。ワールドという全体がさらにそれより大きな全体に進むためにひとつの壁にしか過ぎなくなっていることに気づくとき、それを超えた大きな世界へ向かう手段を見つけ出すという創造的な方向に一歩踏み出すことができるはずではないのか?そうすれば壁は意外にもろく、やがて音を立てて崩れ去ることになるだろう。

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 ここで私は目が覚めた。再来したツアラトゥストラはどうやら前世紀の始め、ニーチェとともに現れたときに読み忘れたマルクスの共産党宣言を最近になってようやく読んだらしい形跡がある。ツアラトゥストラの不勉強ぶりもさることながら、こうして彼の語りの中にマルクスのガイストが見え隠れするということは今日の「ワールド」がいまだ当時の枠組みを超えきっていないということなのか?

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