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2008年9月 9日 (火)

東寺にて

 先日、学会で京都郊外の同志社大学に行く用があり、宿舎を近鉄の東寺駅近くに取った。学会日程の最終日に少し疲れたので、午前中のポスターセッションに行くのをやめて、近くの東寺に行ってみることにした。東寺は名刹でありながらこれまで幾度となく訪れた京都への旅行の中でじっくりと観たことがなかったのである。

 比較的早い時間だったので、毎月第一日曜日に行われるらしい境内の骨董市も準備中で人がまばらだった。最初に入った講堂には21神将像が並んでおり国宝級のものが多かったが、像の数が多すぎてあまりじっくりと観る気になれなかった。しかし次に入った金堂は薬師如来を中央に左右に月光菩薩と日光菩薩を配したシンプルな構造でじっくりと仏たちと対面する気持ちを起こさせてくれた。内部は外の騒がしさから隔絶されて、暗くシンと静まり返っていた。驚くほど高い天井の木組みの下に光背を背負った3体の仏たちが静かに私を見下ろしていた。

 私は日光菩薩の視線に近い場所で古い床梁の出っ張りに腰を下ろした。静謐な空間の中で、この仏たちと対面していると、なぜか深い思索に誘われて行くのを感じた。この何かしら感動に似た厳粛な気持ちは何だろうと思った。なぜ何ごとも起きていないのに心を動かされるのだろうか。私は自分が宗教を信じない者であり、唯物論者であると自認している。仏に帰依する喜びでもなく、それに救いを求めているわけでもない。

 ひとつには、この荘厳な空間が決して神や仏が作り出したものではなく、計り知れない数の生身の人間達による、具体的な働きの結果生み出されたものであること、如来や菩薩の像ですら職人達の精魂込めた仕事の結果なのであるということである。そしてその人たちが、与えられた仕事に自分の生きる意味を、おそらくは何の迷いもなく読み取り、そこに自らの生命力のすべてを注ぎ込んでいることがひしひしと感じられることである。

 もう一つは、それを見上げているこの一個の生身の人間である私が、彼らの疑うことなく生きた証をこうして自分の内面にある人生と向き合わせ、そこに、自分がなぜ生きる意味を得ることにこれほど迷い続けてきたのか、思い知らされることになった、ということがある。

 この寺は平安初期に中国から帰った僧、空海のために建てられ、空海はここを拠点として真言宗を広めたと言われている。有名な五重塔は空海の死後、何と53年もかかって建造されたが、落成後わずか4年で落雷により焼失してしまったらしい。そのときの建造に携わった人々の悲しみはいかばかりであったか。しかし、その後荒廃した寺を平安末期に文覚上人が再建したということである。文覚は、私の知る限り、武士であったがあるとき誤って最愛の妻を殺してしまい、自らも死を選ぼうとしたが死にきれず、言語に絶するような苦行を重ねて、僧になった人である。その後、東寺は足利尊氏や信長の本陣として用いられ、五重塔も4度にわたって焼失したが、江戸初期に再建されたものが今日残っている塔である。

 この歴史的事実を知って私は思った。これほどまでに人々が熱意をもって壊されても壊されても再建してきたこの寺の仏像や建造物が持つ重みや荘厳さは、それらの人々のモチベーションとなった内面の世界の表現への強い希求の重さなのだと。そして果たして私がその重さを自分の手で受け止めることができるのだろうかという思いである。

 ひとつの与えられた仕事にすべてを打ち込み、名も無く去って行った数えきれない人々の想いが、そこにおおきな、そして深い意味空間を創りだしていた。それに引き換え、自分が行ってきたことは何と貧しくそして醜いモチベーションによっていたか。私はもう一度日光菩薩の顔を仰ぎ見た。菩薩はじっと私を直視しながらただ沈黙したままであった。

 一歩金堂の外に出るとそこは現代生活の喧噪の中であった。それはあの深い想いとは一切無関係な華やかで明るい日常の世界である。私は電車に乗り、再び学会の研究発表会場に出向いた。そこではいかにも頭の良さそうな現代の秀才たちが、きらめくような知識をもてあそび、華やかなディスカッションがあちことで交わされていた。しかし、私にはもうそれらの議論が何か遠い世界の出来事のように感じられ、その会話に入って行くことができなかった。

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