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2008年11月 5日 (水)

自己犠牲

 世はアメリカの大統領選挙で騒然としている。ついさきほどのニュースではオバマ候補が当選確実になったらしい。

 ところでこの熾烈な選挙戦でもいわゆるボランティアが活躍したらしい。彼らは自分の支持する候補のためならよろこんで無償で労働力を提供するのである。これを自己犠牲と思う人はあまりいないだろう。では現代社会から失われてしまったように見える自己犠牲の精神とは何だろう。

 まったく異なる場面を想像してみよう。アメリカ文明の支配に宗教的危機感を強くしたアラブ原理主義者の人々は、自らの信仰と伝統的世界の維持のために身を挺してアメリカ的世界に反抗する。彼らは自爆テロという方法でアメリカ文化に浸りきった人々を脅迫した。これはある意味で究極の自己犠牲である。しかし彼らはそれを自己犠牲とは思っていないだろう。

 そしてわれわれの住む日本の歴史を顧みてみよう。太平洋戦争でお国のために散っていった多くの若者は、國を護るために身を挺したのだ。これはある意味で自己犠牲であるが、彼らはおそらくそれを自己犠牲とは思わなかったであろうし、その死が自分の生きてきたことの意味であると自分を納得させただろう。特攻隊に属し、心の準備ができていたにも拘わらず、敗戦を迎えた人々は、そこで初めてどん底のむなしさを感じ、それが自己犠牲であったことに気づいたのだろう。

 ある意味で自己犠牲とはその渦中にあるときにそれとは気づかず、それが挫折し全身全霊を賭けておこなってきたことが間違っていたことに気づいたときに、紛れもない自己犠牲であったと感じられるのだろう。

 しかし、自己犠牲にはそれとは別の何かがあることも確かである。それは最初からだめだと何となく分かっていながら、そのことに命を賭ける決心をするという精神状態である。それは裏切られたり、挫折してから気づく自己犠牲ではなく、最初から気づいている自己犠牲である。ある種の倫理観と言ってもよいかもしれない。高倉健主演の任侠もの映画の筋書きにも似たこの心情は、あらゆる人の普遍的共感を得る何かがあるとも言える。

 遠藤周作の小説の中で、第2次大戦中、ポーランドのナチスユダヤ人強制収容所での物語があった。収容されていた一人の男がある小さな規則違反を行ったために、ガス室送りになることが決まった。かれには家族があった。そのときその事情を知った同じ収容所に囚われていたカトリック神父が、「愛がないところには愛を生み出さねばならない」と決心し、その男の身代わりとなってガス室に送られたのである。これは実話に基づいた話である。

 自己犠牲はとかく宗教的な信仰と結びつけて話されることが多いが、私は必ずしもそうでなく日常的な生活の中でもその片鱗が見えることがあることを知っている。

 それは例えば親が子に対して抱く愛情の中にも現れるし、愛する人に対する気持ちの中にも現れる。自分への利害を超えた何かに自分の生きる意味を見いだすことなのかもしれない。それは時として裏切られ、徒労であることもある。

 だが、たとえ裏切られたにせよ、そこに注がれた自分の存在を賭けた行為や愛は嘘や偽りのない事実として自分の心の中に残る。それは無駄に失われたものでは決してなく、ある意味で永久に人間の精神的営為の輝きとして世代から世代へと引き継がれてゆく「何か」なのではないだろうか?

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