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2008年6月22日 - 2008年6月28日

2008年6月24日 (火)

ボケの入り口にて

 年齢のせいか、最近、夜深く眠れないことが多い。覚めた状態とも夢の中ともつかない、現実と夢の中間領域的世界にあっていろいろ考え、思い悩んでいる自分を、もう一人の自分が眺めていてそんなこと思い悩んでみても仕方がないではないかと嗜めている。そんな、決して快適ではない状態の中で、ある一つの考えが姿を現し始めた。

 それは、キリストとか釈迦とモハメッドとかいった偉大な宗教の祖といわれえる人たちは、実は絶対的な神の存在など心の底では信じていなかったのではないかということである。彼らはあくまで人間界の問題は人間自身が解決すべきであり、神の手に委ねるようなことをしてはいけないと思っていたのではないだろうか。だからこそ逆に死によって人が人生を終えるという事実を、死後の世界で報われるという想定のもとにとらえ直し、堪え難い現実を耐えて生き抜くすべを与えようとしたのではないだろうか。そうすることによって人は堪え難い現実にも耐え、そのような状態においても生きようとする勇気を与えられる。彼らが信じていたのは絶対的な神の力などではなく、脆弱で間違いを犯す人間の精神ではなかったのか?それは時には重大な誤りを犯すが、それでもまたいつかは立ち直れる。たとえその人間が絶望のうちに死んでしまってもその誤りを別の誰かが気づき別の「場所」において立ち直らせることができる。そのような人間をこそ彼らは信じていたのではないだろうか?そうだとすれば彼らは「神の代理人」などとはまったく別の意味で、つまり人間的な意味で偉大であったと言わざるを得ない。それは、私の中では、マルクスのいう「人は一日24時間づつ死んでいる」という言葉とどこかで通底する哲学なのである。

 私はマルクスのこの言葉の中に、自分が日々現在を「生きた労働」という形で生きぬくことに命を燃やしながら一瞬一瞬それを過去の労働の結果に変えて行く(実はこれが価値を創造するということに他ならないのだが)ことによって、その一日を自分として生きること(私の場合は精神労働を通じて)ができたのだということに気づき、自分の存在が、自分の命の支出によって生み出したモノ(生きた労働が対象化された結果としてつまり死んだ労働として)を媒介として他者の生の中に取り込まれることによって再び他者という「場所」において生きる自分の命という形で結びつき、自分の存在の意味を持たされているのだと気づいたときがあった。いささか宗教臭のするマルクス観ではあるが、おそらくマルクスの人間観はそれほどまでに深いものであることは確かだろう。まさにある唯物論哲学者の言ったように「死んで生きる」という言葉で表現されるような「主体的物質」としての人間の立場の深さを物語っている。

 さて加齢が進み目も悪くなってきて、いよいよ思考力も肉体もぼろぼろになりつつある自分にとって、物質的肉体が消滅する前に主体的な物質としてやっておかねばならないことは山ほどあるのである。それは一つには昨今のデザインの動向のみならずさまざまな形で現れている「付加価値」という虚偽の価値についてもう少し考察を進めること。実は本来の価値の意味を忘れて「付加価値」を追い求めることほど馬鹿げた行為はないのである。限られた人類共有資源である石油を買い占め世界中の人々の生活を混乱させている一握りの人たちも同じ穴のむじなである。そしていわゆるIT化の時代と言われる今日、情報技術を主とした現代の技術文明がわれわれの実存にどのような影響力を及ぼしており、どのようにその技術の負の側面を逆用してわれわれが主体的立場を取り戻せるかという大きな課題がある。IT技術をベースとした市場のめまぐるしい変化に乗っかって最先端を走っていると思いこんでいる人達は実はそれに振り回され、ものごとの本質を見失っていることがほとんどなのである。見るべきものは、それによって社会がどれほど多くの大切なものを失ってきたのか、そして失ってきたものをふたたび新たな形で取り戻すためにどうやっていまの技術を転用できるのかである。少なくともこれからわれわれが獲得すべきリアルな近未来の社会像の輪郭くらいはイメージできるようにならなくてはこれまで孤独な人生の中で苦悶してきた自分が生きてきた意味がない。

 いまの世の中では競争に勝たねば滅んでしまうという危機観だけが支えになって生きている人々が多い。しかしいったい誰のための競争なのか?この激しい競争でぼろぼろに使い果たされる自分の労働力は結局そのあとに何も残してはくれない。そればかりかその激しい競争の結果、世の中は本当に良くなったのか?いったい誰が競争を強い、何のためにたがいにつぶし合う人間社会を生み出したのか?この半世紀の間、われわれは未来に一筋の希望を持ちつつ働き詰めに働いてきた。そしてその結果が今日のこの絶望感に満ちた世界である。絶望的に暗い近未来のイメージを描き出したり、それを「アカルイミライ」とシニカルに吐き捨てたりすることはそれほど難しくない。しかしわれわれがいま必要なのは、なぜそうなったのかをとことん考え抜くことと、どうすればこの絶望的に見える世界を生き抜き、このトンネルの彼方に本当にわれわれが目指すべき世の中の曙光を見ることができるのかである。これこそ本来人間が持っているべきデザイン能力の発揮すべき場所なのではないだろうか?


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2008年6月22日 (日)

17世紀芸術考

 ニューヨークでは最初グッゲンハイム美術館をまだ見ていなかったので有名な建物だけでも見たいと思って娘と一緒に行ってみたところ、何と補修工事中で建物の外観は見ることができず、しかもなぜか切符売り場は長蛇の列である。そこでここはとりあえず止めにして近くのセントラルパークをちょっと垣間みてからメトロポリタン美術館に行ってみた。しかしこの広大で雑踏のように人が多い美術館を全館見て回るのは無理なので、17世紀の美術に的を絞って見ることにした。中学高校生位の若者が団体で来ており、館内はにぎやかだったが有名なレンブラントやフェルメールなどの絵の前が特に混雑しているというわけでもなかった。

 私はレンブラントの肖像画をいくつか見た。期待通り彼の自画像を含め、暗い背景の中で上方から差し込むいわゆるレンブラント光線の中に浮かび上がる肖像の深い内面表現に打たれた。そしてオランダ人ではないがジョルジュ・ラトゥールのマグダラのマリアにも逢えた。このときは時間的制約がありあまりゆっくり見ていられなかったので、このときの思いを胸の中にしまっておいて、後日それを思い出しながら書いている。

 ラトゥールのマグダラのマリアにはすでに日本で逢っている。たしか2006年だと思ったがラトゥール展が東京であったときに見に行って、大変心を打たれたので、その複製を買ってきていまでも書斎の壁に掛けてある。私はこの展覧会でラトゥールという人物に捉えられてしまった。キリストの教えによってそれまでの奔放な生き方を悔い改めるマグダラのマリアの心情を、蝋燭の炎にすかしだされる書物のページと顔と裸の体を長い髪の毛で半ば隠したマリアがじっとどくろを見つめる情景の中で描き出している作品や、幼いイエスが父ヨゼフの仕事をそばで見ていて、ヨゼフに何か語りかけた瞬間を描いている作品が特に印象に残った。イエスのかわいらしい純粋な目と、職人であるヨゼフの鋭いが優しい視線がぶつかり合う瞬間が実に見事に描かれていた。ラトゥールはその暗い背景の中に蝋燭のほの赤く柔らかい光の中で浮かび上がる表情や物体の表現を通じてそこに描かれている人間の内面を心憎いまでに描ききっている。

 レンブラントの肖像がもつ人間の内面表現の深さやラトゥールの光と陰による人間の内面表現の訴える強さが、なぜ17世紀という時代に現れ得たのだろうか?音楽の世界においてもJ.セバスチャン・バッハのように深い内面表現が主調になった作品はこの世紀の特徴であるように思う。

 それはちょうど西ヨーロッパで産業革命期が始まる少し前の時期であり、一方では華やかだったルネッサンス時代が終焉し、宗教改革の嵐が吹き荒れ、宗教改革によってキリスト教観も変化を来たし、一方でヨーロッパ諸国の海外進出と植民地開拓が盛んになりだし西ヨーロッパが古い中世社会から近代の資本主義的商品経済社会に移り変わる時期であった。おそらくこの時代の心ある人々の実存はキリスト教的倫理観と商品経済社会への世俗的関心とが入り交じり複雑に揺れ動いていたのではないかと推察できる。「古い封建的社会から解放されて市民的自由を謳歌し始めた」などと言ううたい文句は表面的で通俗的な解釈であって、おそらく個人個人の内面の世界では心のよりどころとなってきたキリスト教的世界観・倫理観自体が揺れ動き、世俗的生活面では商品経済社会をベースにした個人主義が実利的な実存を要求してくる中で揺れ動く不安に充ちた状態であったと考えられる。そうした個人の時代的苦悩の内面が芸術家の表現にも反映されているように思える。

 しかし、産業革命以後の近代ヨーロッパではどんどん資本主義的商品経済社会が浸透し、芸術家も作品を商品として考える時代に移って行ったのだと思われる。薄っぺらで内容の薄い芸術作品や建築デザインが主流になる中で再び人々が実存的な危機を迎えるのは産業資本主義時代が行き詰まりを見せ始めた19世紀末〜20世紀初頭になってからのことである。

 17世紀の芸術がなぜいま21世紀の高度技術文明社会に住むわれわれにこうも強く訴えかけるのかは、おそらくもうここでクダクダ述べるまでもないだろう。19世紀末の時代的苦悩はその後2度の世界大戦によって、単なるインテリや上層階級だけの苦悩ではなく、高度に近代文明の進んだ国々の数千万人の労働者や農民達がその生活を奪われ、死地に引っ張りだされるという壊滅的な現実を経て、20世紀の後半以後のモダニズムの世界へと変化してきた。モダニズムの世界は大量消費社会と呼ばれるアメリカのケインズ型資本主義経済を基盤とし、それをグローバル・スタンダード化する形で世界に広まり、デザインやモダンアートという新たな市場を生み出した。そこではつねにそれに反発する動きとして民族主義とか社会主義リアリズムとかポスト・モダンとか脱構築とかいった流れを生み出しながらも総体としては個人が個人であろうとする努力と、それが意に反して商品経済社会の中でつねに均一化されざるを得ないというジレンマの中で苦しむ21世紀的実存がある。だからこそ、かつて実存的な意味での「個人」が登場し始めた17世紀の芸術が、いまわれわれが晒されている実存的苦悩の原点を見せてくれるにではないだろうか?

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