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2008年6月29日 - 2008年7月5日

2008年7月 4日 (金)

夕暮れがまねく

夕暮れ時の青空に流れる雲を仰ぎ見る

いつもこの時を待っていたように、私の心に立ちのぼる気配

一日が終わり、今日自分が生きてきた時間が雲と一緒に去ってゆく

鳥が騒がしく鳴いている

西の空が赤く輝くいま、鳥たちは何の疑いもなく一日を終える

それなのに何が?どうしてこれほどまでに悲しい時間をたちのぼらせるのか?

取り返しのつかない時間が去ってゆく

私から去ってゆく

夕暮れは私をまねく

意地悪く

あの幸福だった時間のもとへ

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2008年7月 2日 (水)

デザイン学のこれから−1

 先日、広島での学会で、「デザイン学の領域とその役割について」という大上段に構えた発表を行った。少し大げさかなと思いつつ、デザイン論研究部会のオーガナイズド・セッションだったので、あえてこういうタイトルにした。その内容はおおむね次のようなものであった。

 デザインという概念の定義そのもが曖昧であり、その理由は、職能を基盤として登場した学であること、しかもその職能が20世紀中葉のアメリカに台頭したケインズ型資本主義経済体制による大量消費社会のミッションを背負い商品の販売促進のために登場したものであること。それゆえ職能自体が内包する矛盾が見えず、それに引きずられていること。そしてデザイン学のコアが見えないまま関連周辺領域の理論が取り込まれ、それに引きずられて、いわばドーナツ化現象を起こしていること、などである。

 そしていま、エコやリサイクルが叫ばれ続けながらも相変わらず消費経済が世界経済の基盤となり続け、景気浮揚のためには消費の拡大と国際競争力をつけることが叫ばれる一方で、他方でそれによる地球の自然環境や天然資源の急速な破壊や枯渇という深刻な問題を起こすという致命的なトレード・オフ状態に直面している。

 中国やインドなどの国々がアメリカや日本のような大量消費国になった場合には資源問題や環境問題はどうなるのか?また消費経済によりだぶついた流動過剰資本を奪い合う投機マネーによって世界の経済が混乱している中で、富裕階級のマネーを獲得するための虚偽の価値である「付加価値」を与えるためにブランドやデザインが利用される一方で、100円ショップの商品を生活資料にせざるを得ないという人々が増え、貧富の差が拡大し、デザインも二極化しつつあること。「国際競争力をつけるため」と言いつつ、低賃金長時間労働が日常茶飯事となり、労働者は賃金も時間も奪われており、子供を生み育てることもままならず、生活の質は悪化の一途をたどっている。社会にとって最も必要である労働を行う人たちの生活を犠牲にして何のための競争なのか?誰のためのデザインなのか?

 一企業の利潤追求はきわめて綿密かつ計画的にデザインされるが、市場全体がどこに向かおうとしているのかは誰にも分からないしそれをデザインすることもできない。つまりグランドデザインなき「自由競争」これがいわゆる市場経済のもっとも顕著な矛盾ではないのか?

 デザイン学はこうした状況を真摯に受け止め、消費社会の申し子としての職能のみに軸足を置くのではなく、それを批判し、真正な「学」として本来人間があらゆる歴史を通じて行ってきた普遍的な意味でのデザイン行為の本質を明らかにし、その研究成果をより重要な社会的要求に向けるべきではないのか、という主張である。

 この発表が終わり、質疑の時間に入ったが誰も質問者がいない。すると座長の先生が私に「これからデザイン学は何をすればいいんでしょうか?」という質問をした。これに対して私は「答えは簡単ではないけれど、まずは経済学をやるべきでは?われわれの生活はすべてが社会経済的基盤の上に成り立っているのだから、経済学者をデザイン学に巻き込まなければだめなのでは?」と答えた。座長の先生はなんだか腑に落ちない表情だったが、持ち時間の20分が過ぎ、時間切れで私の発表は終った。たった20分では到底伝えきれる内容ではないし到底分かってもらえないであろうことは最初から分かっていた。

 70年代の学生運動に加担したという理由でかつて11年間干され続けてきたある大学での孤独地獄のどん底で私はいまの考えに到達した。それから25年以上の月日が流れ、ある別の大学の教授であったときも、就職活動を控えた学生達にこのような私の心情を話しても仕方がないという気持ちでほとんど何も話してこなかった。それが良かったのか悪かったのか、未だに自問自答を繰り返している。

 定年を待たず半年早く大学を去る決意をした私は、文字通り大学人生最後の最終講義でこのような主旨の話を初めて学生の前で行ったのである。

 善かれ悪しかれ「デザイン学のこれから」は、私にとっては自分が生きてきた意味を問う問題でもあるし、私という人間の無力さを吐露することになるのかもしれないのである。要するにここからが私にとっての正念場なのである。どんなに不都合であろうとも真実は真実である。そしてその真実から出発し真実に帰還するのが学の学たる所以であろう。

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2008年6月30日 (月)

厳島神社と原爆ドーム

 広島の郊外のある大学で開催されたある学会の翌日、私は生まれて初めて宮島の厳島神社と原爆ドームおよび原爆資料館を訪れた。それは両方とも「世界遺産」であるからという理由ではなく、たった一日しか時間がないときにどこを見ておかねばならないかを考えた結果だった。

 宮島に渡るフェリーの中にはアメリカなど外国人の観光客が多かった。彼らは霧雨まじりの天気の中で遠くにぼんやりと見え始めた厳島神社の大鳥居を写真に撮ろうと一生懸命だった(私もその一人だったのだが)。私の隣に腰掛けた人の良さそうな太ったおばさんに"Where are you from?"と聞いたら"USA"という。"What State?"ときいたら"Connecticut"だそうだ。"I' m sorry not so good wheather today"というと、"Ah, yeh, but connecticut usually like this"なんだそうだ。

 宮島の桟橋から厳島神社までは土産物店が並んだ参道を10分ほどの道のりだった、厳島神社は台風で大きな被害を受けたが、いまはほとんど修復が終わっていた。そのせいもあってか、真新しい朱の柱や壁が古い歴史の重々しさを幾ばくか減じていた。しかし、逆に私は平清盛がここを創建した当時のイメージを呼び起こされた。それは当時世をときめく権力者であった清盛が権力者故に求めた心の拠り所だったのかもしれない。海の中に突き出して作る舞楽の舞台と海中の大鳥居という演出は当時としては画期的なデザインであっただろう。清盛はここで権力者の孤独を癒すことができたのかもしれない。しかし800年後、われわれのような下賤の民や「紅毛碧眼」の異国人達がこの神聖な場所に土足で踏み込んで写真を撮りまくるなどということは想像だにしなかったに違いない。インドのタージマハールに行った時も同じような思いに駆られた記憶がある。

 さて、フェリーでもう一度宮島口に戻って、今度は広電で広島市内に出た。原爆ドーム前という停留所で電車を降りて間違えて広島球場側に向かってしまった。ちょうどプロ野球が行われているらしく大勢の客が球場に向かっていたのだ。気づいて道路の反対側に渡ったところ広い公園の木々の向こうに原爆ドームが見えてきた。近づくにしたがっていつも写真で見ていたイメージとは少し違う印象を持った。それはよく見るとドームてっぺんの露出した鉄骨や崩れたレンガ壁の部分に修復が施され、原爆で破壊され風化されたままの廃墟ではなく、「世界遺産」として保存されたドームという印象が強くなったように思えた。これはこれで仕方がないのかもしれないが、何となく「風化」に刻まれた暗黙のメッセージが薄れてしまったようにも感じられた。

 そしてそのあと訪れた原爆資料館の展示は予想はしていたもののショッキングであった。最初に広島市の戦前の姿が写真と解説で示され、その後なぜ原爆が広島に落とされることになってしまったのかについて、きわめて淡々と事実が書き連ねられていた。多くの原爆投下候補地の中で、軍事施設が多く、捕虜収容所がなく、しかも地形の関係でもっとも効果的に原爆が殺傷力を発揮できる場所として広島が選ばれたのである。そして運命の8月6日午前8時15分。何も知らずに通勤通学に向かう多くの一般市民が瞬時にして14万人も命を奪われたのである。

 その直後のすさまじい破壊の跡、目を覆いたくなるような被爆者の悲惨な姿やその遺留品の数々にショックを受けない人はおそらくいないであろう。直撃を受けて亡くなった少女が来ていた上着(この上着にはハートの文様が入ったブローチがついていた!)や血膿がついてぼろぼろになった下着。そして何よりもそれらの遺留品一つ一つにそれらを身につけていた人たちがどのような状態で発見され、どのように死んで行ったのか克明な説明がついているのである。

 この怒りと憤怒の感情を背後に隠し、ただ疑問の余地のない事実をありのままに客観的に淡々と示した展示の説得力は圧倒的であった。私はここに展示された遺留品を身につけていた被爆者の人たちの苦しみと怒りを自分の心の中で追体験できたのであろうか?だがたとえ追体験できたとして、果たしてそれだけでよいのだろうか?自問自答し続けた。当然のことながら答えはすぐには見つけ出せない。しかし自問自答を止めることもできない。

 まず原爆を生み出すことを可能にした科学者達の研究成果があった。それを核兵器として生み出すことを必要にさせた政治社会情勢があった。綿密でクールな計算に基づき直接的には当時のトルーマン大統領が下した決断によってエノラゲイ号が広島上空でリトルボーイを投下した。その理由は日本が不当に開始した戦争を一刻も早く終わらせるためであった。こうして多くの人々の「意図をもった行為」によって20万を超える広島の人たちはその犠牲となった。そしてだれ一人として殺人犯として訴えられることはなかったのである。

 戦争は「正当な理由」があれば容認される。そして無数の人々がそれによって命を奪われる。戦勝国となった国は何千万という人間を殺しても罪を問われない。だが考えてもみよ、普段なら個人として何の恨みもなく親しい友人としてつきあうことのできる外国の人たちが「国家」や「民族」という看板を背負ったとたんに、「祖国のために」互いに殺し合わねばならなくなる。無垢の子供たちや非戦闘員はいうまでもなく、銃を持たされ、爆撃機の操縦桿を握らされ、核兵器のボタンを押さされる戦闘員達も結果として悲惨な戦争の被害者なのである。戦勝国の戦闘員は「英雄」というかたちでこの被害者としての真実を覆い隠されてしまう。むしろある意味でこの方が悲惨であるといえるかもしれない。原爆で死んだ人々はむしろその直接的に悲惨な死によって、そのまま戦争の悲惨さを世界に訴えることができるのだから。私は原爆で亡くなった3歳の子供が遊んでいた錆びた三輪車を見ながら涙を抑えることができなかった。

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