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2008年7月6日 - 2008年7月12日

2008年7月12日 (土)

労働の質と量(デザイン学のこれから4)

 マルクスは価値を生み出す実体としての労働を「抽象的人間労働」と呼んでいる。その意味はおそらく、社会的総労働が、それらを分担している諸個人のあらゆる具体的労働の形(その中には単純肉体労働も精神労働も含まれる)が総合されたものとして表れ、そこにはすべての労働の質を抽象化した労働で表現した労働時間だけが指標となることを示しているのだと思われる。

 様々な形の具体的「生きた労働」が発揮されることによってそれらが対象化され「死んだ労働」となり、価値が形成されるのである。それは遠い昔から行われてきたあらゆる人類社会での労働の成果の上に社会全体が生産活動を続けられるのであり、現在われわれが生きていられるのだということをも示している。価値とはそういうものであって、生きた人間の労働が埋め込まれた人工物のもつ社会的性質なのである。だから例えば、人間の生産物であるロボットが生産した生産物には価値は転移されることはあっても新しく付加されることはないのである。

 そのような視点からデザインという労働形態を考えたとき次のようなことがいえるだろう。元来人間の行ってきた労働は精神労働と肉体労働が別々に行われるということはなかった。つねに人間の労働には頭脳の働きと手足の働きが連携しており、一体となって労働力が発揮されるのである。それが今日のように分断されるようになったのは産業革命以後の資本主義社会においてであり、そこで行われた単純肉体労働の分割は相対的剰余価値の増大という直接的な目的を通じて労働者の労働を機械に従属させたものにし、それら分割労働を計画的に一つの商品として統合する目的意識的立場に産業資本かが立つことができるようにするためであったともいえる。それによって、生産物の生産は単なる剰余価値の増大という目的のための手段として使用価値が位置づけられるようになり、生産現場の労働者は日々の生活費を稼ぎだすために、ただ目の前の分割労働だけを行うように仕向けられることになったのである。モノを作る目的の部分は資本家の目的意識となり、直接的生産者である労働者から奪い取られてしまったのである。

 このような状況は本質的には現在の社会に置いても変わっておらず、そこに「売るために作る」という資本の意図の一端を担う(つまり利潤を得る手段としての商品を計画的に作り、販売するための頭脳労働者としての)職能が求められるようになったのである。それがいわゆるホワイトカラーと呼ばれる社会階層を生み出し、彼らは現場労働者である「ブルーカラー」の人々を管理し、資本を運営するという立場上、彼らより「上」という意識を生み出したのであろう。しかしその根拠に労働の質の違いを見いだそうとすることはほとんど意味がない。なぜならブルーカラーの労働なくしてホワイトカラーの存在はありえないのだから。

 さてそこでもう一度デザインという労働形態に戻ると、デザイナーはあきらかにホワイトカラーに属する人々である。自動車会社のような、商品製造に要する設備投資が巨額で、スタイリング・デザインが商品の売れ行きを左右する業界では、デザイナーが工学的設計技術者よりさらに「上」に立つことが多い。しかし、出来上がった自動車の持つ本来の価値は、そこに埋め込まれたあらゆる業種の人々の労働時間が同等に合算されたものであり、デザインによってそれを上回る売値が可能となるのは、市場の動向によることであって、デザイナーの労働の質が他の労働者のそれに比べて高いからでは決してない。本来の価値と市場価格とを混同してしまうがためにこのような誤解が生じるのであろう。

 デザイナーの労働の内容がラインで部品を取り付けている労働者の労働内容と同じでないことは言うまでもないが、一方が高い質を持った労働で高い価値を生み出し、他方が低い質の労働で低い価値しか生み出さないということはないのである。それらはともに一つの製品(ここでは自動車)として合体されたときに同等の価値を生み出す労働としてみなされるのである。さらに言えば、現代社会においては、一方がデザイナーという職能として分業化されており、他方が組み立てライン労働者として分業化されているが、一つの製品を生み出すという意味ではそれを生み出すための労働の異なった形であるに過ぎないのである。

 元来、モノを作るという人間の労働では、それを何のために作るのか、それにはどのような形とするのが良いか、どのような方法で作るか、などという、あらかじめ作られるべきモノのあり方や作る方法を、実際に作る行為の前に考えておくことが必要である。それが普遍的な意味でのデザイン行為であり、これはあらゆるモノづくりに共通する行為であるだけではなく、それを基盤として人間が行う計画的・目的意識的行為のすべてに共通して含まれる中核的行為要素である。この普遍的な意味でのデザイン行為は労働の精神的側面そのものであると言っても良いかもしれない。それはあらゆる時代にあらゆる人間労働の発揮される場面で現れてきた。そしてさらに重要なことは、この普遍的なデザイン行為は人間労働の肉体的側面である手足や目や耳を使って現実の労働となり、実際にモノをつくることができるのである。

 私が主張したいのは、デザイン学がもし一つの研究領域として普遍性を獲得したいなら、ここでいう普遍的な意味でのデザイン行為を人間労働一般の精神的側面として位置づけることから出発すべきであるということである。

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労働の質と量(デザイン学のこれから3)

 デザイナーは高度な美的センスと論理的思考力を兼ね合わせて持っていなければならない、そして消費者と生産者の両者の要求をふまえて製品のあり方を決める立場にある、とかつて学生時代に大学での授業で教授たちから教わってきた。これはデザイナーは高度に質の高い精神労働を行う職能であって、組み立てラインで流れてくる部品を組みたてるだけの単純肉体労働者とは労働の質が違うのだという暗黙の合意を含んでいたように思う。

 これと同様な考え方は、もっと一般的には、企業や組織の経営管理の立場にあって意思決定を行う者は高度な質の労働を行っており、毎日上司の指示に従ってルーチンワークを行っている授業員は質の低い労働を行っているという形で社会通念化している。しかし、本当にそうなのか?

 確かに大都会のオフィスビルの見晴らしの良い執務室で一脚数十万円もする有名デザイナーの椅子に腰掛け秘書を侍らせて意思決定を行う人たちと、汗水流して油まみれになって働く人たちでは外見上もその違いは明らかであり、そして何よりも「能力のある人にしかできない仕事」と「誰にでもできる仕事」という区別は明白であるように見える。だが、その外見はさておき、これらの労働は社会全体にとって必要であるという観点から見れば、「同等な労働」なのではないだろうか?高度な精神労働も単純な肉体労働も、それが欠けては社会が必要とする生活資料や生産手段を生み出すことができなくなる。

 われわれの住む資本主義社会では、諸個人の労働力(能力)が商品として扱われることにより、だれでもできる労働を行う労働力(つまり供給されやすい労働力)には安い価格が付けられ、供給されにくい労働力には高い価格が付けられる。労働力商品市場での需要供給の関係からそうなるのである。それによって社会的に必要な総労働力の当該労働部門への配分が「自動的に」調整されるシステムなのである。つまり社会的に需要が高い労働部門で、担当する労働者の供給が少ない場合は、その部門での労働賃金が高騰し、多くの労働力がそこに吸いよせられるようになる。一方需要が充たされた労働部門では労働力を吸収する必要がないので賃金が低下する。デザイナーもその労働力市場での需要が供給を超えていた時代には有利な条件で働くことができ、売り手市場だったので最初に述べたようなデザイナー意識がまかり通っていたのである。しかしいまのデザイナーはそうではない。もはやデザイナーの需要はほぼ充たされ、供給過剰となっているため(いわゆる有名デザイナーは除いて)厳しい状況であって他の精神労働者と比べて優位に立っているわけではない。

 さてここで、もう一度労働の質と量の関係に戻ろう。ここで問題になるのは「能力のある人」という言葉である。ここでいう「能力」とはいったい何であろうか?当然のことながら、人間には個人個人に異なるさまざまな潜在能力があり、それらには生まれながらにして持つ要素と教育で養われた要素が渾然一体となって内在していると考えられる。しかし、それが現実に「能力」として発現されるのは、その人が社会の一員として他の人々とともに、自分の行う仕事(労働)の分担内容によってどのような形で社会の一端を支えているのかによるのである。

 能力はその人の社会的存在意義を示すものとなり、自分が何者であるかを自覚させる基盤ともなる。例えばゴミの収集や下水道の保全などの労働は、もしかするとゲームソフトをデザインすることよりはるかに社会にとって必要な仕事かもしれない。しかし通常はゴミの収集や下水道の保全を行う人々よりも人気のゲームソフトをデザインする人の方が能力が高く、質の高い労働なので高賃金を取っても当然と思われている。たまたま現在の社会がゲームソフト産業のような第三次産業を中心とした形にシフトしてるためにそうなっているに過ぎないのだが。

 むしろ、このようなきわめて曖昧で恣意的な「労働の質」ではなく、社会全体にとって必要な生産物を作るのに平均的にどれだけの労働時間が必要なのか、つまり平均的に必要な総労働時間が重要なのである。労働の質はこの必要労働の量の中に埋め込まれているのであり、それによって労働する人々の「価値」を決める手段にはなり得ないといえるだろう。社会的に必要な総労働時間の何分の一を担ったかによって、その労働を行ったひとに相応の賃金が支払われるのが妥当だといえるだろう。実はこの社会的に必要な平均労働時間が生産物の価値を決める鍵なのである(これについては後述する)。それは、その生産物に支出された労働の量を示すものであり、それ以上でもそれ以下でもないのである。そこにはたとえ同じ労働種にあっても当然ありうる巧みさやセンスの良さも平均的な労働という形で埋め込まれている。労働の「質」が表面化するのは、それが労働力市場での「価格」(価値ではない)として現れる場合や、かつての「社会主義国」のような労働者を管理する立場の人間が官僚化し、支配階級化したりする場合に現れる現象であるといってよいだろう。

 ここで重要なことは労働そのものが価値を持つのではなく、労働が価値を生み出す実体であるということであるがこれについては別の機会に述べることとする。

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2008年7月10日 (木)

過渡期社会の実存(デザイン学のこれから2)

 洞爺湖サミットが終わって、主要各国が環境対策の枠組みには合意したようであるが、おそらく実際にサステイナブルな社会経済体制を確立するにはこれから数十年いや百年以上もの試行錯誤が続くであろう。それこそがグランド・エコノミーデザインのプロセスなのである。その間に20世紀前半に起きた二つの大戦のような多くの人々の命や生活が奪われるような人為的出来事がないことを祈るのみである。

 まず基本は、消費を減らすこと、そして必要なものを必要なだけ生産することで成り立つ社会経済体制を確立することであるが、このことを主張すると必ず次のような反論を得る。「そんなことになったら、生活が楽しくなくなり、豊かさや夢が失われてしまう。」しかし、ここで言っている「豊かさ」や「夢」とはいまの消費社会時代に生きているわれわれが考えている形でのそれであって、何ら普遍性のない「豊かさ」や「夢」の形であると言えるだろう。

 ある時代に特徴的な実存の形がある。その時代の渦中に生きて生活している人々にとっては、それが生活意識であり、価値観であり、自分自身の存在への意味付けなのである。しかしさまざまな理由で社会経済体制が変化して行くにつれて、その生活意識、価値観、自分自身への意味付けも変化して行く。社会経済体制とそこに生きる人々の実存の形は表裏一体のものである。そしていま、地球という閉じた自然空間の中で無際限な消費の拡大が物理的に壁にぶつかった以上、否応無しに世界全体の社会経済体制が変化せざるを得ない事態に直面しているのである。その過渡期にある実存においては、いま自分が浸りきっている社会での実存から抜け出すことができないが、同時にそのままではダメだという行き詰まり感が強くなり、アンビヴァレンスで危機的な状況にあると言える。こう書いている私自身がまさにその典型でもある。

 このような状況にあって、「量より質の時代」とか「物質的豊かさから精神的豊かさの時代へ」と叫ばれることが多くなったが、この「質」とか「精神」とかいうものの中身が問題である。デザインの場合は「質」の問題が多くの場合、「付加価値」に結びつき、実は同じ労働時間で作られるモノの市場価格を引き上げる手段として用いられているのである(この問題は付加価値論として別の機会に詳細に論じる予定である)。また、「精神性」は、例えば「物質的な生産力ではなく精神的な豊かさで国の豊かさを見る」といった主調として現れることが多いが、この場合の「精神的豊かさ」が宗教であったり古い時代の価値観であったりすることがほとんどである。もちろん宗教の持つ人間の実存への影響力は偉大なものであり無視することはできないし、古い時代の持っていた価値観や美意識などの中に普遍的な意味を持つものも多いことは確かである。しかし、「質」や「精神性」あるいは「価値観」ということばの持つ意味に関しては、きわめて慎重でなければならないだろう。むしろそれらが何であるのかを論じることが次世代の生活観や自己認識につながる最大の問題なのではかなろうか?そしてその問題はおそらく社会経済体制の変化の中でのみリアリティーを持ち始めるのである。

 これからのデザインは、いま自分たちが浸りきっている消費社会の実存から抜け出そうとするモチベーションがなければ前に進むことはできない。それは単に「エコ商品」を買うことで満たされるような浅薄なモチベーションでは到底ありえない。そのことが分かり、ともにその過渡期の危機的実存を共有することができない限り私が論じようとする「デザインのこれから」を理解することはできないだろう。

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