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2008年7月20日 - 2008年7月26日

2008年7月24日 (木)

生み出す喜びは所有の喜びに勝る(デザイン学のこれから8)

 さて、この先行き希望の持てない世の中で、われわれはどう生きて行けば良いのだろうか?その前にいまのこの時代に生きるわれわれの実存を省察してみよう。

 自分が生きているという実感や生きる喜びを感じるのはどのようなときであろうか?ボーナスをもらって、さあこれで何を買おうか、と考えるときは楽しいものである。例えば、今では生活必需品になっている冷蔵庫やエアコンが高級家電品と呼ばれ一種の贅沢品であった時代がある。その頃はエアコンが入ったということがまるで夢が実現したような気持ちにさせられた記憶がある。こんな風に夢が少しずつ実現して行けば将来はすばらしい生活が待っているのだろうと考えるようになるのも無理からぬことであった。

 欲しかったデジタル一眼カメラを買って、海や山に写真を撮りに行こう、と夢を描き、念願のカメラを手に入れる。最初は自分も写真家になったつもりで、さまざまな自然の景観や人物を撮って悦に入る。しかしいつの間にか、そのカメラも保管箱の中で眠る日が多くなり、使われなくなる。すると今度はまた新しい機能を盛り込んだ新製品が登場する。するとまたまた購買欲がかき立てられ、新製品の比較評価を掲載している雑誌などを買って、あれこれとスペックを検討する。そして次のボーナスの出るときには、去年買ったカメラを下取りに出して新しいモデルを購入する。これはまさに自分自身のことである。事実、私はこのようなことを繰り返し、どれほど多くのお金をカメラにつぎ込んできたか分からないのである。これはカメラを実際に消費(撮影に使用)することよりも、新しい機能を搭載したあこがれのカメラを所有することが目的だったのかもしれないと思うようになってきた。新しい機能を使いこなせるようになる前にまた次の新製品に目が移って行くのである。消費社会とは実は本当の意味でモノを消費する(使い切る)のではなく、単にいろいろなことができそうなモノを持つということが目的化される社会であって、「夢」はつねに本当に実現されることなくその先にある。つまり目の前に魅力的商品という人参をぶらさげられてそれを追いかけようと必死になって走る馬車馬のような生活であると言ってもよいかもしれない。

 今確かなことは、自分の身の回りにモノが増えれば増えるほど、それがわれわれの生活を豊かにし、生きる喜びを実感させてくれることにはならなかったということである。それが分かっていながら私のようにまだ何か新しい「夢」があるかのように新しいモノを買い求めている人間もいる。こうして先端技術を駆使したモノはどんどん作られ、どんどん買われ、どんどん捨てられ、あらたな購買欲をそそるモノが次々と生み出され、市場をにぎわせ、それを多くの人々が求めている。そしてそれによって地球の資源はどんどん減り、自然環境はどんどん悪化してきているのである。

 このことは、食うや食わずのアフリカやアジアの貧しい国々の人々から見れば、とんでもない贅沢な生活であると同時に、この日本においてすら、明日の食事にも事欠き、住む場所もない人々が急速に増えている現状では、特権的立場にいる者の贅沢と言われても仕方がないのである。しかもこの「特権的立場の人間」もまたけっして幸せではないのである。モノを所有することにしか生きる喜びを見いだせないとしたら、それはその裏でモノを生み出すことにおいて喜びを感じられなくなっていることの証拠ではないのか?

 これは自分たちの手で生み出されたモノであり、それが世の中に必要とされているモノ(つまり本来の意味で消費されるべきモノ)なのだと実感できるときの喜びは、目新しい商品を購入した喜びとは比較にならないほど大きなものであろう。目新しい商品を手に入れるということは、それを私物化あるいは占有するという喜びであり、そのモノの使用価値を発揮させることによる喜びとは異なっている。しかし人々が必要としているものを自らの手で生み出した喜びは、自分の、この世の中における存在意義が実感として感じられる喜びなのであるから。つまり生産のよろこびは所有の喜びに勝るのである。それにも拘らず、いまの世の中では、生産の喜びが、金儲けの喜びに貶められているのである。そして実際にモノを作っている人々の手からは生み出す喜びは奪われ、だからこそ、所有の喜びがそれを覆い隠すために与えられているといってもよいだろう。

 しかも現代の「金あまり社会(過剰流動資本社会)」ではモノの所有の喜びに勝るのは「金儲けの喜び」であるという考え方がまかり通っているのではないだろうか?例えば、元官僚でみずから投資会社を作ってぼろ儲けをしたMファンドの社長は、不正容疑で逮捕されたとき「お金儲けをして何が悪いんだろう?」と捨て台詞を吐いた。かの「ほりえもん」も「お金で買えないものはない」と豪語したのである。こうした考え方は、「清貧」を道徳的な善とした古い世代の人間の観念を打破して、世の中に有り余っている金を頭を使って儲けることは一つの善であり、現代社会に生きることの最大の意味である、という考え方に基づくものであり、「能力ある」若者たちに支持されているようである。

 しかし人を押しのけ多額の金を手にした後はそれをどう使うのだろう?死ぬまで遊んで暮らせる金が入れば、あとは遊びまくって暮らすのだろうか?それともお金は幾らあってもこれでよいという限度がなく際限なく金儲けが続き、金に埋もれて死ぬことになるのが彼らの運命なのだろうか?マイクロソフトのゲーツ前会長は資産8兆円と言われるが、これからの余生を慈善事業に捧げるのだそうだ。それもいいだろう。しかしこれは、儲けるだけ儲けたあげく、結局所有の喜びよりも人のためになる喜びの方が勝っていたことに気づいたからなのかもしれない。

 いまの世の中の風潮は、「能力のある者」はそれに応じて私財を築けば良い、「能力のない者」は路頭に迷って施しの対象になっても仕方がない、という暗黙の人間観に基づいているのではないだろうか?そしてこういう考え方の背景には、「能力ある人々」が「生産する人々」から生み出す喜びを奪いつつ、世の中の富を自分の私財としてかき集め、それによって世界中に大きな富の偏在と格差を生み出してきたという事実があることを決して忘れてはならないだろう。

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2008年7月20日 (日)

「ケインズ型資本主義社会」の申し子としてのデザイナー(デザイン学のこれから7)

 ここで、「ケインズ型資本主義社会」とは何を指すのかを明らかにしておかねばならないだろう。私は経済学が専門ではないので、独学で知り得た知識に基づくことをお断りしておく。

 20世紀の経済学は18~19世紀のスミス、リカードらの古典経済学を出発点にしているが、それへの根底的な批判に基づくマルクス学派の経済学と、古典経済学の発展形態としてのいわゆる新古典派経済学に分かれる。この両派の決定的違いは「資本」という概念の違いである。マルクスは古典派の労働価値説を批判的に摂取し、価値の源泉である労働力までもが商品となることで一社会に必要な生産、消費の過程すべてが貨幣、労働力、商品という形で形態変化する資本によって支配された社会が成立したことを論証しようとした。一方、新古典派は資本を「財」としてとらえ、労働価値説を放棄し、市場の需要と供給のバランスによる財の適正な分配という価格論的視点で捉えたといえる。基本的にはスミスの「レッセフェール(自由放任)」という考え方の延長上で、市場の動向に任せて経済を安定させるという考え方であるといえるだろう。

 1930年代に世界的金融恐慌に襲われた資本主義社会は、それ以前の第1次大戦後のイギリスの経済政策を支えた新古典派の考え方に疑問を感じていたケインズが彼の理論に磨きをかけるきっかけを与えた。ケインズは1936年に発表した「雇用、利子、貨幣の一般理論」は、大恐慌下の失業者増大を、ピグーらの新古典派経済学者による労働市場の需要と供給をバランスさせれば失業は解消するという考え方では解決不可能であり、商品市場の有効需要を喚起することが必要であるという主張をした。企業が労働者を雇わないのは、労働者を雇って、商品を生産してもそれが売れないからである、というのである。さらに個人が財を消費ではなく貯蓄にまわせば有効需要が減り、景気は減速すると主張した。そして、失業を減らすためには、政府が財政・金融政策を積極的に進めるべきであるとした。またそれと並行して中央銀行を通じて金利のコントロールを行うことで、資本の利子率の低下を防ごうとしたのである。こうした考え方は新古典はとは一線を画した考え方であり、「ケインズ革命」と呼ばれている。

 ルーズベルトのニューディール政策は、どこまでこのケインズの理論を下敷きにしていたか分からないが、結果的にケインズ型の資本主義への一歩を踏み出すことになったといえるだろう。幸か不幸か、時は第2次世界大戦へ突入する時代であった。結局アメリカは軍需生産という形で過剰資本を処理しながら、他方で国家財政を公共投資などに振り向け、戦後直ぐに有効需要を喚起することに成功したのである。このようにして第2次大戦後、アメリカ、ヨーロッパはそれ以前の需要供給バランス指向型の資本主義経済体制から抜け出し、消費主導型で、労働者の賃金をも維持しうる資本主義システムを確立したのである。マルクス学派の経済学者はこれを「国家独占資本主義」と呼んでいる。

 ここに第1次大戦後すでに少しずつ進み始めていたアメリカ型消費社会は一気に花開くことになった。労働者は「消費者」として位置づけられ、際限のない消費の拡大と技術革新、購買喚起のための宣伝広告の拡大、その中でインダストリアル・デザイナーという職能が社会的に定着し始めたのである。

 1960年頃までの資本主義社会は、例えばアメリカではケネディー政権のように、政府が財政や福祉、失業対策などに積極的に乗り出すことで、労働者の生活を安定化させるという方向で進んだが、やがて、ケインズ型の経済体制がベトナム戦争下でのインフレなどに対して有効な対策が取れなかったことなどへの批判が高まり、反ケインズ派としてフリードマンらのシカゴ派が台頭する。彼らはケインズ派の「大きな政府」を批判し、「小さな政府」による市場主義的な考え方を主張した。いわば新古典は的考え方への逆行とも言える。しかし、これらケインズ派と「シカゴ派」の対立はいわば、価値とは何か資本とは何かを問うことのない、単なる市場の捉え方の違いでの「対立」にすぎないと言うべきものであり、消費を拡大することで「経済成長」を図り、意図しようとしないに関わらず労働に対する資本の支配を維持しようとする方向に向かっているといえるだろう。これらに共通するのは、人工物ではない(つまり人間の労働力によって生み出されたモノでない)自然環境や地球資源は単なる市場拡大や無限の消費拡大を否定せざるを得ない形で矛盾を顕在化させるであろうということを何ら想定していないことである。

 世の中にあふれる広告デザインやクルマのスタイリング・デザインや携帯電話をいかに薄いデザインにするかとか、いかに面白いゲームをデザインするかといったことが生産の重点目標となり、その一方で格差の拡大による過酷な労働を許し、食料や医療などの生活に欠かすことができないものはおろそかにされるという歪んだ社会を生み出している現在の資本主義社会が、目の前に魅力的商品という人参をぶら下げられ、ひたすらその購買に向かって馬車馬のように走らされてきたわれわれの目を、もはやごまかすことができなくなるところまできているのである。

 

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