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2008年7月27日 - 2008年8月2日

2008年8月 1日 (金)

デザインの創造性とは何か?(デザイン学のこれから10)

 デザインの目的が所有欲を充たすためではなく、使用の形を生み出すことであるとすれば、デザインの創造性とはいったい何なのだろうか?

 例えば、商品市場での競合他社商品と「差別化」することがデザインの目的であったとすると、それは本来の使用の形を考えるデザインではなく「他社の商品と違った特徴を持たせ、それが購買者の商品選択の決め手になるようにデザインすることが目的とされる。デザイナーはそのために「創造性」を発揮することを求められるのである。

 もし創造性とは他と違うものを考えだすことであるのならばそれでよいのだろうが、問題は「違う」ことが目的なのではなく「なぜ違わなければならないのか?」が問題なのではないだろうか。差別化が購買時の選択を促すことなのであれば。それは結局本来は必要のないものを買わせることにつながり、結局は浪費を生み出すことに通じるのである。いずれ本来の機能を全うしないで捨てられるようなモノをあらたに生み出すことがデザイナーの「創造性」なのだろうか?

 たしかに創造性を発揮するためには、定型的な思考のパターンや既成概念にとらわれていてはうまく行かない。デザイン思考に特有な発散的思考と収束的思考の螺旋的繰り返しのうち、特に発散的側面についてはそれが言えるだろう。しかしながら発散的思考は「何でもあり」というわけには行かないのである。

 これは創造的思考の特徴である「試行錯誤」についても言える。試行錯誤なしにいきなり解が出せる様な思考は絶対に創造的ではありえない。創造的思考には試行錯誤がつきものなのである。だがしかし、試行錯誤を繰り返すだけで何も答えが出せないのも創造的とは言えない。そこが発散と収束の繰り返しが「螺旋的」である所以であって、ミクロ的な発散と収束を繰り返しながら最終解に向かってマクロ的に収束する試行錯誤でなければならないのである。それではそのマクロ的な意味での収束を可能にする要素は何かと言えば、それはデザイン行為者の目的意識である。デザイン思考の出発点において目的はきわめて曖昧であり不定形である。しかし、デザイン思考の過程で徐々にその目的が具体的に見えてくるのである。そのようなデザイン思考特有の過程が、人工知能の大御所であるH. サイモンにはデザインは"Ill-structured problem"であると感じさせたのであろう。

 デザイン思考における創造性の問題は、必然的に「なぜ(何のために)それをデザインするのか?」という問いを含み、それを明らかにしてゆく過程こそがデザイン思考なのであり、その終着点に至って初めて明白な目的が了解できると同時にその答えが創造的であるかないかが分かるのである。

 いまのデザイナーは本来ならば「使用の場」を考え、いかに無駄なく材料を用い、合理的に目的を果たすことができる形や機能を考えだすかを問われているはずの場面で、いかに競合商品との差別化をするかという「使用の場」とは関係のない目的意識(デザイナー自身の目的意識とは異なる目的意識)のもとでデザインを「させられている」のである。

 これからのデザインは、デザイナー自身が主体的な目的意識を持つことができなければならないし、その主体的目的意識が、われわれの住む社会を自分で足もとから破壊して行く様な行為につながる「外側からの目的意識」に対抗することができなければならないだろう。

 これに対してデザイン学ははっきりとした立場を取るべきであり、本来の意味でデザイナーの主体的意識を支えることができなければならないし、そのことが今後もデザイン学が生き残れるかどうかを左右するとさえ言えるのである。

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2008年7月28日 (月)

使用の形を生みだすことがデザインである(デザイン学のこれから9)

 本来の消費(モノを使い切ることでその機能を発揮させること)ではなく、所有あるいは占有がすべてに勝る喜びであると感じる人間が、現代という社会を形成する個人の典型的実存であるとすれば、デザインとはいったい何をすることなのだろう?「あれを自分のものにしたい」という欲求を刺激することがデザインの目的なのだろうか?私は決してそうではないと思う。

 デザイン行為の始まりには必ず、何らかの意図が存在する。何の意図もないデザイン行為はありえないといってよいだろう。その意図は「何かが必要であると感じる」ことから来ているはずだ。その「必要な何か」を具体的なモノ(モノではなくコトである場合もある)として表現することがデザイン行為であるといえる。しかしその必要なモノあるいはコトは、それによって何かを実現しようとするための手段であって、そのモノあるいはコト自体が最終的な目的ではないといえるだろう。

 例えば、腹が減った人が川辺を歩いていたら、水の中に魚が見えたとする。彼は何とかその魚を捕まえて食べたいと思うだろう。そして捕まえる方法をいろいろ考え、川岸に落ちていた小枝を拾って、先の鋭い石を探して、それで小枝の先端を削り、銛をつくったとしよう。そしてその銛を使って見事魚をしとめたとしよう。もちろん彼はしとめた魚で空腹を充たすだろう。ここでは、銛を考えだし創りだす行為がデザイン行為であるといえる。それは入手可能な素材を用いて自分の意図を達成するために必要な手段としての道具を創りだすことであり、それが銛というモノとして表現されたのである。したがって銛は魚を捕まえるという目的にとって「魚が逃げるよりも素早くその体を突き刺し動けなくする」という「機能」を持つことになるのである。その機能が銛の形に表現されているのである。しかしこの銛を創りだした人にとっては、銛を所有することが目的なのではなく、それによって魚を捕まえ、食べて空腹を充たすことが最終目的なのである。空腹を充たすという目的にとって銛を作ることは、手段的行為であり、さらにその銛を作るために用いた小枝と先の鋭い石は、道具を作るために必要な道具、つまり手段的行為のための手段であるといえる。この過程でどこにも「それ自体が目的化された所有」は現れない。つまり人間は元来、所有あるいは占有のためにモノを作ったのではないといえないだろうか?モノを作るのは、それを何かのための手段とするために作るのであるといってよいだろう。別の言い方をすれば、所有ではなく「使用」のために作るのである。

 人類の歴史の中で、所有が現れるのは、おそらく飢饉などに備えて食料を備蓄するということを行うようになってからであろう。しかしそれとても、私有ではなく共有であったはずである。やがて人類がある程度の数の人口を擁し複雑さを持った社会に生活するようになると、この備蓄が常態化され、社会的な富として蓄積されるとともに、それを管理したり運用したりする特権を与えられた人間が登場したと考えられる。そこで初めて所有が占有という意味合いを持ち始めたのだろう。先に述べた商品経済社会は、このような所有が占有あるいは私有という意味を持つようになった社会を前提として現れる社会である。それは剰余生産物を私有化した人々が互いにそれを交換して自分が所有していないモノを獲得する行為として始まり、商品の交換の場面が生み出す価値の一般的形態が貨幣という、実体がありながら抽象的価値を表示するモノを生み出したといえる。

 貨幣はあらゆるモノの価値を代表する機能を持たされたため、逆にあらゆるモノを手に入れることのできる万能の機能を持つと見なされ、やがてそれが人間のモノを創りだす能力としての労働力までをも商品として見なすような社会が登場したと考えられる。それが資本主義社会である。この社会ではあらゆるモノの価値が抽象的に表現されている貨幣が、本来は流通手段でありながら、人間の生産的行為をその価値増殖の手段としてしまうという、目的と手段が転倒した関係になってしまっているのである。だから本来は何らかの目的で消費されるために創りだされるモノが、ここでは本来の消費のためではなく抽象的な価値を所有するという目的ための手段に貶められているのである。

 たしかによいデザインのモノは美しく快さを感じさせる。私も何か買うときにはデザインのよいモノを欲しいと思う。しかし、一歩引き下がって見れば、それは、家の中にデザインの洗練されたモノが置かれていることにより、自分の美的満足感を充たすことができるということであり、それを本来の目的で使い切るということはほとんどないといってよい。よいデザインの品々を所有したいということが購買の目的なのである。現代のデザインは確かに一面では生活に潤いや美観を与え、そういう意味では社会的な役割を果たしてきたといえるだろう。しかし、いまやそのような所有欲をそそる美的外観に隠れて見えなかった「浪費を生み出さないデザイン」という大きな問題が立ち現れてきたのであり、もう一度本来のモノづくりが何であったのかを思い起こす必要が出てきているといえるだろう。先に述べたように、ケインズ型資本主義を基調とする現代社会では、消費を促すことで経済を活性化させるという形が一般化しているが、そこにあるものはむしろ「大量消費社会」ではなく「大量購買社会」とでもいうべき社会であり、本来の消費を目指すのではなく、単に購買欲つまり所有欲を刺激することでモノを次から次へと購買させ、まだ使用価値を全うしないうちにそれらを廃棄させてしまうか、本来の機能を発揮しないまま再び売られてしまうことで成り立つ経済システムなのである。いまのデザインはそのための手段とされている。

 そこで、この問題を一言で言い表せば「デザインは所有の喜びを生み出すためにあるのではなく、使用の形を生み出すことが目的である」ということである。所有の喜びはあくまで使用の形に伴う第2義的なものであるといえるだろう。このことをこれからのデザイン学は肝に銘じておくべきであろう。

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