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2008年8月17日 - 2008年8月23日

2008年8月20日 (水)

熱暑

じりじりと暑さを音にしたような蝉の声

その声は私の耳鳴りのように夏の真昼の静けさを演出する

真昼の強い日盛りに、木々の葉は鬱蒼とうなだれ

空にはくっきりと積乱雲の山脈

猫は死んだ犬の写真が飾ってある床の上に長々と寝そべり

ただ暑さと静けさだけが存在界に充満している

そう、これが私の「今」なのだ

暑さの中私は記憶も思考も消し去られ

他に何の望みがあるわけでもなく

あるのはただ喉の渇きとひとつの思い

私はずっと「いま」を生き延びてきた

そして「いま」も生きている

多分また明日の「いま」も

私にとって時間は動かない

凍り付いた時間は暑さで溶解し

私の世界から流れ去ってゆく

何もかも明瞭なこの日差しの中で

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何が創造的思考を可能にさせるのか?(デザイン学のこれから12 )

 創造的思考が発揮される場面は、つねに思考者にとっては「現在」である。しかもその「現在」はこれから起きようとしている状態を予想している。人間を含むほとんどの動物はいずれもこれから起きようとしている状態を予知しようとする。それはこれから起きようとすることを予め知ることにより、それが自分にとって致命的な事態を引き起こすかどうかを判断しなければならないからである。いわゆる動物的本能はそのようなものを基盤に持っていると考えられる。

 しかし人間の場合、それだけにとどまらず、これから起きようとしている事態にどう対処すべきかまで考えることができるのである。この能力を人間がどうやって身につけたかは興味ある問題であるが、おそらく、これから起こるであろう事態を予測してそれに対処する能力は、道具を使ったり、道具を作ったりするという行為に発展して行ったのであろうし、道具を作る行為自体がまたその道具を使う場面での経験を通じて、人間の予測能力を磨いて行ったということもあるだろう。この予測といういわば「時間の先取り」的思考の能力は、モノ(人工物)を作り出すという行為に必須の思考であるといえる。人間は何かのためにモノを作るのである。その何かは未だ起きていない事態なのである。それが起きるのはその作られたモノを使用する場面である。予測は当然未定であり確定ではないので、しばしば予測を裏切るような事実に遭遇する。いくら人間が高等な知的能力を身につけたとしても、これから起こることをすべて正確に予測することはできないだろう。だから、この道具を作る行為はしばしば予測を裏切られ、それによってさらにあらたな予測能力を身につけることになったであろう。言い換えれば予測に裏切られることが人間の創造力を育てていったといってもよいだろう。

 ある予測される事態に対してどのように対処すべきかが、何度も繰り返して起こることによって、人間はその事態とそれに対する対処方法の関係(つまり目的と手段の関係)をひとつの「ルール」として学習する。それによって、あらためて試行錯誤をしなくともほとんど失敗せずにその事態に対処できるようになる。

 しかし、世界はそれほど甘くはない。いつかは必ず予測を超えた事態が突然訪れるのである。そのときに、人間はこれまで学習したルールが完全でないことを知る。そしてそこから再びあらたな事態に対処するための試行錯誤が始まるのである。

 創造的思考はそこで現れる。つまり人間の行為が置かれているこの世界(人間をもその一部として含む大きな意味での自然界といってもよいだろう)は、つねに人間の目的意識を起こさせる要因であり続け、人間の思考に、その目的の達成にふさわしい手段を見つけ出させることを通じて、この世界そのものが潜在的に持つ可能性を明らかにしてゆくのである。創造的思考は試行錯誤を通じて、この世界の可能性を引き出し、それを眼前のあらたな事態に対処することを通じて確かめ、創造性を現実の具体的存在にするのである。

 人間はこの世界の内部にあるにも拘らず、それを自分の外の世界として受け止める。これは自然界に生物が登場したときから始まった大きな変化であるといえるが、生命体は自分の内部と外の世界を区別する存在として自然史の中に登場する。人間もその一つの種であるから自分と外部世界を区別する。そして、その外部世界との齟齬を感じたときに外部世界に働きかけることでそれを解消しようとする。それが目的意識を人間の内部に発生させ、それを動因としてその目的を達成させる手段をも外部世界の中に求めるのである。人間によって目的と手段の関係を与えられたモノは、それ故に目的手段関係という「意味」を与えられ、それをその形や機能において表現する。だから人間は人間の手によって作られたモノに意味を受け取ることができるのである(実はコトバもある意味で人工物として意味機能を持つのだと筆者は考えている)。この人工物の持つ意味は、たとえば文様のような形で時として多様な意味を持つ。それは人間と人間の関係、人間と集団や社会との関係の中で共有できる意味を持つことになる。

 これらすべてを含んで人間はあらゆる時代を通じてモノやコトを作り出してきた。そのあらゆる場面で思考者にとっての「現在」があり、それがモノへと表現され、それを通じて人間の関係が生み出されていった。思考するということはその思考者にとって内的な時間表現そのものであると筆者は考えている。あらゆる創造的思考の「現在」において、過去のあらゆる時代や場所で人間が営んできたすべての「現在」が凝縮されて再現され、そこに創造的思考が現れるのである。

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