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2008年12月7日 - 2008年12月13日

2008年12月10日 (水)

消費主導経済体制の根本的な矛盾

 以前一度、このことについてこのブログで書いたことがあるが、いま世界的な規模で金融危機とそれに続く不況の嵐が吹き荒れている時に、もう一度この問題について考えることは、よりリアルな実感を引き起こすかもしれにと思い、少し違った視点から再びこの問題を取り上げてみることにした。

 マスプロダクション、マスコミュニケーションに象徴される、いわゆる大衆社会化状況という形での20世紀後半以後の資本主義国に見られる社会の現象形態は、1930年代の世界恐慌の体験を踏まえて、打ち出された「修正」資本主義社会(国家独占資本主義という場合もある)の形であることは以前述べた。ここではケインズのいわゆる「一般理論」をベースに、政府主導の通貨管理システムを通じた貨幣価値のコントロールと、公共投資などによる雇用の確保を梃子として、労働者の雇用と労働賃金の相対的上昇を実現させ、それによる生活消費財の消費の増大を促し、恐慌の原因となる過剰資本の形成を防ぎながら、資本の蓄積と拡大を実現させる消費主導型経済システムを生み出したのである。

 このシステムは1960年代まではうまく稼働し、東西冷戦の緊張のもとにも拘わらず労働者の階級闘争を巧みにかわし日本も高度成長経済という時代を迎えたのである。しかし、1970年代になると「イギリス病」などという現象に代表されるような政府主導型経済体制の矛盾があらわになってきた。高度な社会保障や労働条件の保護がかえって労働意欲や向上心を阻み経済全体が沈滞するという現象である。アメリカではベトナム戦費の負担もあって一方で政府の負担は限りなく増え、他方で経済状態は沈滞し、日本やドイツなどの後発資本主義国に追い越されるという状態が生じてきた。

 そこで台頭してきたのが、新古典派と言われるシカゴ大学のフリードマン教授らを中心とした反ケインズ学派である。彼らは、アダム・スミスら19世紀古典派の主張である「レッセフェール」的な市場主導主義(すべて市場の成り行きに任せればうまくいくという考え方)を復活させ、経済を市場の動向に委ねることを主張した。アメリカではレーガン政権がこの考え方を取り入れ,国家の関与をできるだけ少なくした「小さな政府」を目指し、イギリスでもサッチャー政権がこれに追従したのである。

 その後、ソ連圏の崩壊と中国の改革開放路線への転換などがあって、アメリカ一極支配のグローバル資本主義経済体制が形成され、増大した「実体なき価値」である信用金融資本が世界中を駆け巡りながらマネーゲームを生む社会になっていったのである。その必然的結果が今日の信用破綻とそれによる世界的経済危機であるといえる。

 最近ふたたびケインズを見直そうとする動きもあるが、実はこの新古典派の市場経済主義は決してスミス的レッセフェールの再生ではなく,その基底においてケインズ型のコアである通貨管理制度や消費主導型経済という考え方が前提となっており、そのモディファイでありケインズの破棄ではなかったのである。

 ここで問題なのは、ケインズ的修正資本主義経済体制の基底にある、消費主導型社会と地球環境および天然資源の枯渇との対立的矛盾である。ケインズ・モデルでは過剰資本を形成しないで限りなく純粋消費(生産手段などに還元されない消費)を拡大してゆくという暗黙の前提があり、現在のような環境問題や自然破壊などは想定されていないのである。

 資本主義経済の根幹には、いくら生産技術が進歩しても、それが労働時間の短縮や労働賃金の高騰という形で労働者に還元されることはなく、資本の側から見た利潤率の低減という事態に対応するため限りなく新たな消費市場を拡大せざるを得ないという構造があるのである。

 不況になれば会社がつぶれることを防ぐために経営者は労働者の首切りを行う。そうしなければ会社や産業自体が成り立たなくなるからといって政府もこれを許容し、会社に対して公的資金(労働者から取り立てた税金である)の援助を与える。労働者も「会社がつぶれてしまっては元も子もないから、仕方がない」とあきらめる。この図式は基本的に終わらないのであって、結局労働者は巷に放り出され、自助努力を迫られ、会社の経営者は政府によって「産業の保護」の名の下に護られるるのである。

 もともと労働者の労働によって生み出された価値が資本という形で生産と労働を支配し、市場での競争に追い立てられて利益を第一義的な経済目的として動き回り、生産の実質的主人公である労働者は自らの生み出した商品を,賃金で買い戻して消費することで自らの労働力を再生産し、貨幣はふたたび資本の手に戻ることで資本が支配する生産の中に組み込まれてゆくというメカニズムがあたかも永遠に続くかのように見えるのである。

 その中で労働によって生み出された生活に必要な資料(資本主義社会では生活資料商品という形をとっている)を消費することは生産的な労働力を維持するために必須であることは疑いの余地もないことであり、これを否定することはできない。しかしどこまでが生活に必要なレベルかを判断することはきわめて難しい。それはその社会の「平均的生活水準」によって決まるのだから。

 しかしいわゆる奢侈品的商品を生活資料から区別出来る場合、それはそれ以前に生活に必要な資料を十分買えることを前提にして購入の対象になると考えて良いだろう。いわゆる可処分所得の保有が前提である。

 ケインズ型修正資本主義社会においては、労働賃金の相対的高騰で、労働者の可処分所得を増やし、これを奢侈品商品などの購入によって吐き出させることで再び(奢侈品生産資本を媒介として)資本のもとに還元するという構造ができていたのである。そこでは当然生活資料商品の奢侈品化も行われ、デジタル家電やエコ家電などが生活資料商品として登場する。このようにして消費市場は奢侈品商品化の道を歩み始め、ブランド商品やグルメ商品という産業が活気づくことになる。また余暇時間をも市場の中に組み込み、利益を得ようとする方向に向かい、ゲーム産業やレジャー産業などが産業の大きな部分を占めるようにあった。

 商品を生産する企業の経営者たちは、市場競争で勝ち抜き少しでも多くの利益を得ることが第一義的目的であるため、売られた商品が生活の中でどのような形で消費されるかについては関心がない。したがってそれが有毒物や危険な状態を発生することで社会問題になることで初めて重い腰を上げることになる。また廃棄物の処理という莫大な費用を必要とする問題においてはそれを商品の価格に上乗せしたり、自治体の公的仕事にさせるという形で間接的に消費者の負担にさせてしまうのである。

 また道徳的な意味で利益に直接結びつきにくいが社会的に必須の労働である医療や福祉などが、利益主導型の経済体制においては後回しとなり、レージャーや遊びや贅沢品は市場に溢れているのに、病気やけがで入院する病院がたりないし、医師も看護師も過重労働でへとへとに疲れてまともな治療が行えないという矛盾が生じている。

 こうした状況を根本的に改革するにはおそらく長期にわたる計画的経済政策が必須になるであろう。

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