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2009年4月17日 (金)

価値と価値観の違い(その2)

 経済学的範疇としての価値は、前回述べたように社会的経済関係の中で表れる客観的な指標である。しかし価値観は個人の主観の中に存在するものであり、美意識や人生観や生活観といった形でその人の内部に形成されている目に見えない判断基準であるといえる。

 もちろん個人的価値観も社会関係から独立し、それと無縁であることはできない。個人が存在し生活する社会の中で培われた美意識や人間観や人生観が個人的価値観を形成するのだから。そういう意味では個人的価値観も社会関係やその社会の歴史性を反映している、そのため価値観の中には商品の価値に対する考え方も含まれる。しかしそれは価値そのものとは区別されるべきであって価値のように直接社会関係を規定する法則とはなり得ない。 

 それにも拘わらず価値と価値観が混同される(意図的に同一視する場合もある)のは、もともと商品の価値が「交換価値」として表れることが一つの理由のように思われる。「魅力的商品」や「購入したあとでの満足感」というのは、主観の領域であり、商品を購入する場合に購買者がこうした主観を判断基準にするからである。前回述べたような物々交換的単純商品交換の場面では、相手が持つモノを交換するかしないかという二者択一的場面を想定したが、現実の市場では競合商品が山のように存在する。同じ使用価値の商品であれば安い方がいいと思うだろうが、個人的価値観に従って、使用価値の内容が異なれば(例えばかっこうがいい方が欲しいなど)多少価格が高くてもそちらを購入することも多い。その場合購入者は商品の使用価値の中で「かっこうがいいことによる満足感の達成」という効用を重視したといえるだろう。その効用に対して対価として多少高くてもよいという判断が働きそれを購入したといえるだろう。

 しかしその使用価値における効用の違いはそれを生み出すのに要した社会的に平均的な労働時間が同じであっても生じる。つまり価値が等しくても使用価値における効用が異なりうるのである。だからこそ市場においては、価値によって直接一義的に価格が決まるのではなく、需要供給の関係という恣意的で主観的な要因で価格がきまることになるともいえるだろう。効用と価値が一致しないのは矛盾ということもできるが、実は、効用という個人の主観はものを作るときの目的あるいは根拠となる動機であるのに対して、価値はそれを社会的な形で客観的に生産し流通させるときに必要となる概念であり、本来ひとつの生産物がもつ主観的側面と客観的側面という両面であるともいえる。資本主義社会がその基底に持つ商品経済社会ではその矛盾を市場での売り手と買い手における交換価値の「マッチ」によって解消させようとするのである。

 要するに商品市場では売り手は常に実際の価値以上の価格で商品を売りたいと思い、買い手は自分にとって効用のあるものをその価値観に相応しい対価で購入しようとする。この思惑が異なる両者が同じ交換価値に達したとき売買が成立する。(しかし労働市場においては労働力商品の売り手と買い手の立場は対等ではなく、圧倒的に買い手が強い立場であることはいうまでもない。つまり売り手の持つ労働力が買い手のために効用を発揮できるために必要な条件である労働手段や生産手段はすべて買い手側があらかじめ所有しているのだから。)

 もともとこうした売り手と買い手による主観的効用とその対象がもつ社会的な意味での価値との間の「矛盾」が存在するところに、その「矛盾」を意図的に利用し、また利用できる条件が整っている場合には、今日のような意図的な価値と価値観の同一視という現象が現れるのである。

 ケインズ以後の資本主義社会では、経済恐慌の原因となる過剰資本の蓄積に対して、それへの処理が労働者の生活資料の消費や戦争における消費のような、そのままでは固定資本に還元されない形での消費を促進する(ここではこういう消費を「過剰消費」と名付けることにする)ことによって、資本の圧迫とならずに、逆にそれらの消費を生み出す資本に投資が振り向けられるようになることによって、あらたな資本の蓄積が可能となるようなメカニズムができあがっているが、そこではそのような社会的「過剰消費」を促進するために、常にこの価値と価値観の同一視という戦略が意図的に用いられるのである。

 ケインズ以後の資本主義社会では、労働者の賃金を相対的に高める(これは決して本来の意味で労働者の所得が増えることではない)ことによってその生活資料商品(家電機器やクルマなどの耐久消費財も含めて)の消費市場を活性化させ、そこに労働者の賃金を支出させることによって、生活資料商品を生み出す資本にそれを還元し、全体として資本の利潤を増大させるという図式ができあがっている。そこでは必然的に、個人の「消費者」の価値観に訴えて、いかに同じ価値の商品を高い市場価格で買わせるかという視点からの競争が行われる。デザインはそのための典型的な戦略的武器である。そこにいわゆる「付加価値」なる概念が登場し、サービスなどの効用もひっくるめて実体のない「価値」が登場するのである。さらにはこの実体のない「価値」をめぐっての思惑にもとづいて投資された莫大な資本が国境を越えて、グローバルな流動過剰資本として世界中を駆け巡り、一部の投機家や金融資本に蓄積されていったのがつい先日までの資本主義社会の姿であったといえる。

 われわれは「消費者へのサービス」とか「消費者の利益(効用)」とかいうことばにだまされてはいけない。われわれはそもそも「消費者」などではなく、直接社会的生産労働を行う「生産者」なのであり、われわれが消費する対象はわれわれの手で作られたものなのである。だれかが金儲けのためにサービスを売り物にしてもかまわないが、資本の手を借りずに我々自身の手で生産物の効用を高めることもできるし、協力し合って互いに支援(サービス)をすることができるはずではないか!!

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