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2009年4月20日 (月)

付加価値=実体のない価値(その2)

 付加価値と表現は似ているが内容が全く違うのが剰余価値(Surplus Value)である。剰余価値は、社会的な労働を行う労働者が労働過程を通じて生み出す価値の一部であって、それは実体のある価値そのものである。それがなぜ「剰余」なのかといえば、労働者が一日の労働過程を通じて生み出す価値のうち彼(彼女)の一日の労働力を養うために必要な生活資料の価値に相当する部分を超えて生み出される価値部分を剰余価値というのである。労働者は自分の労働力を養うに必要な価値に相当する貨幣(これが労働力商品の価値とみなされる)を資本家から労働賃金として受け取り、それで再び労働が行えるように生活資料を購入する。彼(彼女)の労働賃金はそれによって再び生活資料商品を生産する資本家の手に渡り結局労働者の手元に残らないのである。

 最近の労働者はマルクスの生きた19世紀のそれとは異なり、特にケインズ以後の高度資本主義社会においては、生活必需品を購入するに最低限必要な賃金よりも相対的に高い賃金を受け取り、それを生活必需品だけではなくいわゆる奢侈品やレジャーや趣味などに使うことができるようになっている。しかしそれらのために支払うことによってその賃金は再び資本家の手に戻るのであって、そのわずかな「可処分所得」を生涯かけて蓄財しても、せいぜい住宅産不動産業資本に寄与することで自分の住むための家を購入するのが精一杯なのである。基本的には19世紀と同様、労働者は働けなくなるまで自らの労働力を売って生活を維持するために働き続けなければならないのである。

 それではあの剰余価値部分はいったいどこに行ったのかといえば、無償で資本に持って行かれてしまうのである。資本はこの剰余価値部分を商品に上積みして市場で利潤を獲得するのであって、それによって生産にに必要な生産手段や新たな労働力を購入するのである。本来この剰余価値部分は、社会全体に必要とされる共有のファンドとして貯蓄され共有化されるべきものであって、社会保障や年金などはこの社会共有ファンドから支払われるべきものである。しかし現実にはその剰余価値部分は資本家によって上記のように占有(私有化)されてしまうのである。労働時間が一定ならば、労働によって生み出される価値のうち剰余価値部分は、生産力が増大すればするほど大きくなる。今日の生産技術によれば、おそらく労働者が一日働いて生み出す価値のうち大半は剰余価値部分であろうと思われる。

 古典的資本主義社会では、労働賃金の高騰は、結果的に過剰資本として資本を圧迫することになるため、労働者は労働市場で労働力の供給が足りない場合を除いては最低賃金の窮乏状態に置かれていたといえるが、ケインズ以後の資本主義社会では、通貨管理制度を通じた貨幣価値の国家による間接的コントロールなどを基礎にして、労働賃金の相対的高騰化が図られ、それとともに生活消費財産業や広告産業や流通産業など直接生産手段資本に結びつかない消費産業への資本の移行が推進されることによって、過剰資本が資本を直接圧迫しにくくなるようなメカニズムが出来上がっていったと考えられる。

 このケインズ以後の資本主義社会によって登場したのがいわゆる「大量生産・大量消費社会」でありそれによる「大衆社会化現象」あるいは「マス社会」の出現であったといえる。いわゆる高度成長期には、耐久消費財や広告産業・マスコミそして産軍複合体(軍需産業はもっとも巨大な消費産業である)などへの資本の集積が進み、そのような産業部門での利潤の増大が大きかったため、経済は活況を呈した。しかし、その結果として一方では急速な技術革新をもたらすとともに他方では絶え間ない局地戦争や公害・自然破壊をもたらしたのである。

 やがて急速な技術革新などの結果、さらに労働者が生み出した剰余価値による膨大な流動過剰資本化が進み、それを争奪する資本家同士の競争が激化した。資本はいまでは株の売買などを通じて社会全体の産業資本の「血液」として金融資本のもとに集約され、株の売買による企業買収や金融市場の思惑によって産業全体の動向が支配されているという状況になったと考えられる。そこでは巨額の資本が右から左に動くことで莫大な利益を上げるバブル経済構造が出来上がった。しかし所詮それは市場価格という実体としての価値を伴わない虚妄の楼閣であって、当然のことながらいつかは崩壊する運命だったのである。そしていまその崩壊によって社会のために働く大多数の労働者が自らが生み出した膨大な価値の収奪による資本とそれを所有する一部の人々によるマネーゲームの失敗の犠牲となって首を絞められ失業し、路頭に迷うことになってしまったのである。そのような状況の中で、税制の抜本的改革や市場取引の制限などによって社会的な富の再配分を行わなければならない立場にある政治の担い手が、巨額の血税を金融資本再生のために用いたり、ばらまきによる「消費の刺激による景気の再生」しか打ち出せないのがいまの無残な実情である。

 そんな中で景気浮揚のためといいつつ市場の思惑によってなされる「付加価値の創造」がもたらすものは、何ら実体のない価値の「創造」であって、その虚妄の価値の上に築き上げられるのは再び巨大な根無し草的バブルとなり、それはただ次の崩壊を用意するものでしかないことは明らかではないか。

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