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2009年4月16日 (木)

価値と価値観の違い(その1)

 最近流行のことばに「価値創造」というのがある。これは単にハードウエアとしての「モノ」を作ることよりも「コト」としてのソフトを作ることで価値を生み出し、それを新たな産業にしていくという意図のもとに作り出された特殊な意味を持つことばである。例えばゲームやアニメなどのエンタテイメント商品を生み出すこと、いわゆる「付加価値」を付けた商品を考え出すこと、サービスを産業としてとらえることなどなどである。これらの商品ジャンルが持つ特有の価値を生み出すことが「価値創造」と呼ばれるのである。

 これらは従来のモノとしての商品とどこが本質的に違うかといえば、「価値」の担い手としての商品の実体がタンジブルではないが、受益者がそこに何らかの効用を認める行為や表象であるといえるだろう。

 経済学で言う価値は、社会関係の中で意味を持つ概念であって、社会的に必要とされるものがそれに要する労働をどれだけの時間費やして作られたかで決まる値を持った概念である。単純化した商品経済社会を想定すれば、商品所有者が、自分の所有しないあるものを得ようとする場合、自分の欲しいものを所有する人間と出会ったとき、自分の所有するモノと自分が欲しいモノとを等価交換するためにまず両方のモノが交換可能かどうかを考えるが、その際に相手のモノが持つ相対的価値形態(自分が欲しいモノの持つ使用価値を根拠としている)との関係によって初めて表れる自分の商品のもつ等価形態(自分の持つモノと相手の持つモノとが異なる使用価値でありながら交換に値するかどうかという意味での等価)を想定し、そのときに自分も相手も直接それを意識していないにも拘わらず、実はそれを作るのに要した平均的労働時間が形成する価値という概念が背後でその等価を決めているということであると言ってよいだろう。

 しかし市場の需要供給のバランスによって価値が価格として表れる商品経済社会では、商品所有者は市場における交換価値しか問題にしないため、価値を形成する実体である労働は見えない。商品の交換価値として抽象化された等価形態の価値を、貨幣という特別の商品に代表させ、これを媒介(支払い手段)にして商品を交換する仕組みを作り上げることで、たまたま自分が欲しいモノを持つ相手に遭遇しなければ成立しないという物々交換の偶然性とその非効率性を克服し、いつでもどこでも貨幣との交換による売買を可能にした。しかしその反面で、この貨幣が持つ、あらゆる商品と交換できるという特別の機能がやがて一人歩きしはじめ、これがさまざまな形をとりながら「価値を生み出す資本」という姿で社会を支配するようになったのが資本主義社会であるといえるだろう。

 しかし資本は右から左に商品を動かす流通過程で利潤を獲得するだけではなく、社会に必要なものを作り出すために必要な人間の労働力までをも商品として取り込むことによって、初めて資本があたかも価値を生み出すかのように見える社会を確立したのである。価値を生む源泉である労働を資本が支配し、社会的に必要なものを生み出すことが、資本の価値を増殖するための手段となってしまう。労働によって直接社会的富を生み出している人々が、生み出した富の大部分を資本の所有物として収奪され、ほんの一部を資本から賃金として受け取り、それによって生活資料を買い求めることで、再び賃金として受け取った貨幣は資本の手に戻るため、また次の日も資本のために働くことで生きていかねばならない社会がこうして登場した。

 そのようにして商品となった労働力が労働市場(就職戦線や転職などというかたちで表れる)において交換されることを通じて、社会全体に必要な労働力を様々な労働分野に適正な比率で配分させるための調節が市場を通じて「自動的に」(もちろんここでいう「自動的」には解雇やレイオフ、失業といった過酷な状況をも含む)行われるのである。こうして資本主義社会において初めて価値が社会的な法則として機能する社会が成立したといえる。

 ところが、さまざまな国における資本主義化の度合いや形がことなるため(資本主義社会の不均等発展)、そこに生じた、いわゆる生活水準の差によって、世界的に見ると低い労働賃金で商品を生産する国々が登場する。高度に発達した資本主義国では生活に必要な資料をこうした低賃金労働の国々からの安い商品の輸入でまかなうことで、自国の労働はそれらの生活資料生産労働とは違った形で価値を生み出す労働に振り向けられる。高度に資本主義化した国々では、労働者は相対的に高賃金でああり(それは過去の労働運動などの結果としてそうなったのである)、低賃金労働が常態の国々の労働者に比べて可処分所得を持つ余裕がある。資本はその可処分所得を生活必需品ではない商品にも支出させることで、そこからあらたな利益を得ようとする。そこで自ずとこうした国々では奢侈品やエンタテイメント産業やサービス産業などのようないわゆる第三次的産業に資本が投入されるようになり、それらが輸出産業の花形となっていくのである。

 そこでは、個人の趣味や楽しみがターゲットとなるのであり、いかに個人がある商品やある行為、サービスなどで満足感を得るかが、それらを売る側からのセールスポイントとして考えられるようになる。そのうえIT技術の進展で、技術的にさまざまな可能性が生まれるようになったため、ますますその傾向が強くなった。だがだまされてはいけない、エンタテイメントやサービスは我々に対して本当の意味でサービスしているのではなく、サービスを売り物としてそこにわれわれがわずかに残している可処分所得の蓄積を注ぎ込ませ、それをも収奪しようというのが資本の目的であるのだから。われわれは「消費拡大」のかけ声に踊らされ、なけなしの金をサービスやエンタテイメントに使い果たした後、社会保障のあてもなく路頭に迷うことになるのだから。

 そういう状況の中で、個人の価値観と満足感を表す指標とが対応づけられることになり、個人の価値観があたかも社会的な価値と同義であるかのように考えられるようになってきたのだろう。そこに「価値創造」という言葉が流行る根拠があるように思う。

 では個人の満足感を充たすこと(別の言葉で言えば、商品の効用)は、上記で述べたような経済学的な範疇としての価値とどう違うのだろうか、次にそれを考えてみよう。

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