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2009年5月15日 (金)

いま何をすべきなのだろうか?(続き)

 いささか人生に疲れて、弱音を吐いたところ、mizzさんから励ましと受け止められるコメントをいただいた。やはり頑張らねば!!

 コメントでお訊ねの英語版資本論がドイツ語版原典とややニュアンスが異なるという話は、いまから30年以上も前に読んだ何かの本に書かれてあったことなので、残念ながらいまでは思い出せません。最近ドイツ語版もWebにアップロードされているのを発見(http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_000.htm)しましたが、私の能力ではドイツ語版は到底読みこなせません。すみません。ペンギンクラシックシリーズの英訳資本論は機会があったら入手してみたいと思っています。

 mizzさんのデザイナーとしての豊富な経験が、いま資本論を読み進む中で、新たな真実の姿として立ち現れてきたのではないかとお察し致します。いままでは表面的な日常生活の姿に邪魔されて見えなかった現実の背後にある真実がマルクスの分析を手がかりに、見えてくるときの驚きと戦慄はいままた資本論を読み始めた私の中でも再び新たに呼び起こされつつあります。

 マルクスが価値の分析の終わりに近い部分で、未来社会では、価値に表現された社会的に必要な労働の平均的時間が貨幣という物神的な姿ではなく、社会的必要労働の分担の基準として用いられるようになるであろうというようなことを述べています。またやはり30年以上も前に、この考え方をめぐって未来社会のシステムを問題にした誰かの論文の中で、貨幣が労働時間を証明する「労働証紙」という形に変貌する、というようなことが書かれていました。もともと支払い手段でしかなかった貨幣がその私有を前提とした価値形態の持つ特異性から物神性を持つようになり、貨幣を生むための貨幣という資本の機能を持つようになり、やがて社会を支える労働者の労働力までもが商品として貨幣の獲得の手段にされてしまうようになったわけですが、やがて、われわれが社会全体の富を共有できるような世の中が来れば、同じ貨幣の形をしたものが労働証紙として富の分配基準に用いられるというわけです。

 しかし現在の社会では、われわれは自分たちが生み出した富に(それが資本家たちに私有化されることによって)自分たちが支配されているという矛盾の頂点にいるわけで、マルクスの分析によって見え始めた未来社会の姿を、ますますはっきりさせて行かなければいけないのだと感じました。しかもあくまでその答えは現実への徹底した批判の中からしか生まれえないのだと思います。現代の支配階級の視点から見た、「もうかる未来社会」のイメージとはほど遠いものであるはずです。彼らの「もうかる未来社会像」は、もはや「環境破壊・資源枯渇」と「消費拡大による経済活性化」というまったく相容れない二つの要素の絶対的矛盾にぶつかり完全に破綻しているのです。いまこそこのような矛盾の頂点にある現実への批判を通じてなされるべき「次世代社会のデザイン」という、労働者階級にしかできない本来の意味でのデザイン能力を発揮すべきときなのだと思います。

 その意味でデザイン理論は従来のデザイン論のような視点から180度転回して論じられねばならないのだと思っています。誰のためのデザインか?だれのためのデザイン理論か?ということをまず問題にしない限り、つまりデザイナーという職能が資本家的に分割された労働力の一つの形態に過ぎず、そのような形の労働力商品であるという事実を自覚することからしか真のデザイン論はスタートできないのだと思います。そのためにも資本論は避けて通ることの出来ないわれわれの武器です。

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