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2009年5月25日 (月)

誰が資本家?私って労働者?

 前回、内閣府の「21世紀ビジョン」の中に、「官」に対する「公」という一括りにとらえられているものの中に実は問題の本質があって、そこでの階級対立が見えていないことが問題だ、と書いた。

 それでは具体的にいったい資本家ってどこにいるの?労働者って自分のことではないし、階級なんていまはないじゃん、と考える人が多いだろう。たしかに現在では確かにマルクスの時代と比べると資本家と労働者の違いが見えにくくなっている。しかし、厳然として、いや19世紀よりもずっと広範で深刻な、しかも見えにくい階級対立が進行しているのである。まず資本家階級自体、資本の機能分担が進み、さまざまな形態を取るようになった。例えば従来の産業資本家は、私財をかき集めて起業する古い創業者タイプから、株式(時には労働貴族も株主の一員になっていることがある)によって不特定多数の人から資金を調達し起業するという形に変化してきた。その代わり株主という資金提供者に利益の分け前を配当しなければならず、また債権という形を通して金融資本家に業務内容をコントロールされることになった。こうして現代の産業資本家は金融資本の一機能(しかし価値増殖というもっとも重要な機能)を果たす役割を演じることになったといえる。

 一方労働者階級の側も単純肉体労働者と頭脳労働者との分化から始まって、労働力のさまざまな発揮の仕方(労働力商品の使用価値のさまざまな内容)によって分化が進んだ。資本主義生産体制特有の企業内分業化である。そのため会社では課長以上が管理職で係長以下は労働組合に所属するなどという変な形が一般化した。課長以上が資本家階級に属するという意味ではない。課長も部長も生産手段を私有して労働力を買っているわけではなく、ただ価値増殖を第一義的目的としている人々の手足や頭脳の一部を担っているに過ぎないのだから。企業の経営者といえども、自分の意志ではどうにもならず、「苦渋の決断」で社員の首を切らざるを得ないことが多いのである。

 資本主義社会とは、金儲けが好きな「性悪」の資本家が世の中を悪くしているわけではなく、生産手段の私有を前提とした資本と直接社会の生産的労働を担っているにも拘わらず、労働力を商品として売りに出さなければ生きてゆけない労働者の関係によって築かれている社会関係そのものが生み出す矛盾を内包しているのだから。

 もっとも顕著な資本家と労働者の区別は、前者が社会的分業の一つを経営する立場にある人であって、したがって何らかの販売しうる形の商品を生み出すことで利益を上げようとする立場にいる人である。それに対して労働者は、自分の手で売りに出す商品を持たず、やむなく自分の労働力を企業の経営者に「商品」として売りに出すことではじめて生活資金を得ることができる人々である。したがって労働者は自分の労働の成果を商品として所有することができず、あくまで企業(の経営者)がひとつの商品を生み出すために効率よく分割した労働の一部を担う立場に過ぎない。

 しかも現代では、私有の形が直接個人や特定の家族などによって行われることはむしろ少なく、法律的には法人という複雑な組織の形で実現されていることが多い。したがって資本家にとって不可欠な生産手段である設備、材料などはその所有者が法人であることが殆どである。そしてその法人が労働者を雇用することで初めてその設備や材料を労働の中で価値を生じさせる対象に変化させることができるようになる。

 自ら生産手段を保有しない労働者と労働力以外の生産手段を保有する法人を経営する資本家がともに独立した同格の個人という概念で括られているのが現在の法律である。しかし、明らかに労働者を雇用する経営組織である法人と個人として労働力を売りに出す「被雇用者」である労働者とでは、本質的に人間としての立場が異なるのである。

 この本質的に異なる立場の人間をともに同格の私人という立場として扱い、「産業界」という呼び方で、雇用者側全体をとらえ、「産業界が活性化されれば雇用が増大して両者がハッピーになれる」と考える社会通念あるいは政府の考え方そのものが、実は問題なのである。だからこそ、いまの政府は資本家同士の利益獲得争いである国際市場の競争の場で、自国の資本家が勝つために合理化などで大量の労働者が首を切られても、賃金をカットされて生活できなくなってもかまわないのである。そして労働者の血税でもある巨額の「公的資金」を資本家に提供して彼らを救おうとするのである。

 企業に政府の資金が入ることが「社会主義化」などでは決してない。政府が労働者の側に立って社会的に正当な富の分配を行うことができなければ、「社会主義的」などとは到底言えないだろう。

 

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コメント

21世紀ビジョンとは懐かしい。竹中・小泉が議長で、まとめ代物だ。いまじゃ役者名もぶっとんでしまった。そして、個人の分割が自己責任的に蔓延した。

野口さんのブログは、ますます好調だ。面白い。

資本家と労働者を分ける一つの試薬は、この分断と団結だろう。資本家、あるいは資本家並みにしか用をなさない者は、大抵、労働者の分断を推進し、団結を忌み嫌う。だからすぐに分かる。団結のレベルは昔と偉く違う。スト権ストなんて言葉は死語になったかも知れない。よくまあ、分断されたもんだ。

デザイナーという職業も、分断が好きだ。なにしろ個性だから。どう団結するかなんて、考えない。

だが、野口さんの説明は、社会的役割の分割を捉えている。労働の社会的な分割が、彼の労働を一隅の商品に追い、かつ様々な商品への欲求を多面化される。

また、先を楽しませて貰いたい。かなり目茶苦茶で申し訳ないんだが、書かせてもらいました。

投稿: | 2009年5月25日 (月) 23時41分

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