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2009年5月12日 (火)

いま何をすべきなのだろうか?

 このところいろいろなことがあり、いよいよ人生で残された時間をどう使うか真剣に考えねばならないと思うようになってきた。別に肉体的な余命がいくばくもないという意味ではなくて、あきらかに頭脳労働が可能な時間があと数年しかないであろうと感じされるようになってきたからである。

 そこでメールを通じて交流している友人Mさんが、サミュエル・ムーアとエドワード・エイブリングがエンゲルス監修のもとでマルクスのドイツ語版を英語に訳した、英語版資本論の邦訳を開始したので、これを追いかけながら、自分がかつて読んだ岩波版の向坂訳の資本論で得た知識をもういちど蘇らせ、刷新しようと試みている。

 Mさんの邦訳はあっというまに第2章まで進んだが、私は今日やっとそれを全部読み終わったところである。以前から英語版資本論は原典とはやや異なり、原典の内容を忠実に伝えていないという説があったが、少なくともMさんの邦訳には違和感を感じない。むしろ向坂訳の古典的邦訳の方がはるかに難解である。まだ英語版との読み合わせはやっていなないので部分的に言葉使いのチェックをしている段階である。

 それと平行して的場昭弘氏の「超訳 資本論」を読み始めたが、これはほんとに「超訳」である。マルクスが書いた文章のほんのさわりの部分だけをキーワードとして入れ、これに的場氏の解説を長々と付けたものである。あまりにすごいすっとばしぶりに最初は戸惑ったが、巻頭の部分で述べている的場氏の立場には共感を覚えたので、なんとか読み進むことができている。

 そしてその作業をしながら考えたのは、自分としていま何ができるのだろうか、ということである。

 かつて学生運動の片棒を担いだため、大学の研究室で11年にわたって干され、完全に職務から外され、毎月のようにやめないかと学科主任にプレッシャーをかけられながら、なんとか自分の思想的立場を確立しようと耐え続け、その間に読んだのがマルクスの著作であった。その後デザイン理論の研究者として身を立て直す決心をし、その世界で私なりにがんばってきたつもりであるが、その間、やはりどうしても現代の社会に対する違和感をぬぐいきれずにやってきた。思想的な本音と社会的立場の立て前の間で常に揺れ動いていた。そのためもあって、手塩にかけて育て上げようとした若手の研究者から疎んじられ、無視されるようになったこともあった。それはそれでほんとうにつらいことであったが、研究者としての仕事をリタイアしたのち、3年以上も考え悩み続けてきて、いま、もう悩んでいる時間などないのだという気がしてきたのである。

 このすさまじいまでに荒廃した現代社会に自分としてどう立ち向かい、何ができるのかが問題なのである。腐朽化が極度に進行し、もはや死を待つしかない現代資本主義社会が、それでもなお延命できているという事実。その中で驚くほど多くの若者が社会の矛盾に翻弄されながら希望を失って路頭に迷っている有様に目を向けようともしないで、「アキバ系の若者の気持ちはよく分かる」などとうそぶき、われわれの税金からふんだくった金をばらまいて、それに群がる人々を自身の選挙と結びつけてしか考えられないような男に将来が任せられるわけがない。

 しかしいくら怒ってみても、仕方のないことで、怒りだけではどうすることも出来ないのでる。しかも個人の力など無に等しい現実社会で、いったい何が出来るというのだ。敗北に敗北を重ねてきた経験から、あまりに悲観的になりすぎているのだろうか?

 そんな思いに駆られながら、資本論に展開されているマルクスの分析の研ぎ澄まされた鋭さをかみしめ、私の出来る範囲でそれを武器にして現代社会をさらに分析し続けるしかないのだろうと思っている。そしてその中には現代のデザイン理論の陥っているおおきな落とし穴を明らかにし、人間の労働過程という普遍的な視点から、もういちどデザインの理論を完全に再構築し直すという仕事も含まれている。

 しかし私にその時間はあるのだろうか?

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コメント

こんにちは、コメントでお邪魔します。
いつも楽しみに読ませて貰っています。今回のは資本論の話で、先の楽しみも増した感じです。第三章に取りかかっていますが、面白い。名誉を商品にする話などもあって、笑わせても呉れる。さて、

英文「Captal」は、原典の内容を忠実に伝えていないという説 は、どのような説なのか、またはその説なるものを見るにはどうしたらいいか知りたいところです。ブログの腰を折るようですみませんが、よろしくお願いします。ペンギンクラシックシリーズというのがアメリカにあって、資本論の英文訳を出版しているようです。ヤフーのオークションに出ていました。僅かなページの紹介では、ムーアさんの訳はもう古いということで、この新しい訳を出版したとのことです。どう古いのか、忠実さの問題なのか、その他は分かりませんが、エンゲルスの監修はないですね。

資本論を読めば、僅か3章ちょっとまでなんですが、商品・貨幣の社会では、生産物は必ず商品・貨幣となります。如何にデザインしようと、商品のデザインであり、貨幣への変態のためのデザイン以外のデザインはありません。デザイン労働力商品の使用価値は、消費者に直接作用する能力の前に、商品の価値としての能力を前提しています。避けては通れない関門です。マルクス流にいうなら、ほんの一昔前は、商品も貨幣も存在していなかった。だが、沢山の物を作り使って来た。この先、商品・貨幣がなくても、物は必要だし、使うはずであるし、作り続けるはずである。デザインは、商品・貨幣を経ずに、直接的に使う人との関係のものとなるだろう。商品・貨幣は社会関係なのである。社会関係は、封建時代を経て現資本主義社会へと発展した。さらにその弊害を解消してあらたな社会関係へと発展せざるを得ない。

今、その弊害の最たる地点に居る。今までのデザインの実績や、デザイン論の経過を将来に向けて、批判的に捉えうる機会となった。私の職歴を振り返れば、なにを成したか、なにを失敗したか、なにを学んだか、なんの捕らわれから解放されたか、資本論なしでは、味わうことが出来ない味となっている。だから、野口さんにも、大いに味わって貰いたいし。いろいろと教えて貰いたいのである。頭脳作用の限界はまだ十分遠いし、衰えを知らないだろう。私のは別だが。

なんか的外れな感じで申し訳ないが、長くなってしまいました。

投稿: mizz | 2009年5月14日 (木) 14時50分

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