« 「景気底打ち」の意味するところ | トップページ | 分割労働でのデザイン行為(その1) »

2009年6月19日 (金)

思考のリアリティーについて考える

 最近資本論を読み直しながら感じていることがある。マルクスの強靱な思考力は、彼の強烈なモチベーションによって支えられている。それは彼が自分の生活を通じて感じている彼の生きている現実社会の矛盾に対する、激しい怒りであり、その激しい怒りの感情を論理的思考力に圧縮しているのである。彼の分析力は、資本主義社会で市民権を得ている形式論理学的思考をはるかに超えて、より鋭く深く現実を批判でき得る力として獲得された弁証法的な論理に裏打ちされた思考力である。マルクス自身はこれを「抽象力」と言っている。この抽象力の背後には彼の現実に対する激しい怒りの感情が埋め込まれているからこそリアリティーがあるのである。

 最近、書店で「マルクスの現代」という本を見つけて買ってきた。1999年初版で2002年に第5版が印刷されているところを見ると、かなり売れた本らしいが、ここでは柄谷行人や浅田彰などという当時売れっ子の「思想家」や「哲学者」が「マルクスのトランスクリティーク」などど銘打ってマルクスを論じている。少し読んだところで、あきあきしてしまった。その理由は、現代社会に対するリアリティー(アクチャリティーというべきかもしれない)が感じられないからだ。

 柄谷氏や浅田氏は哲学や思想を一種の知的ステータスのように扱っているのではないだろうか?たしかにマルクスをトランスクリティークするなんて「カッコいい」。いかにも知的な教養にあふれた教授陣の会話である。しかしリアリティーがない。マルクスもドイツ系ユダヤ人でありながら英語、フランス語などに堪能で当時の哲学や思想の最先端を担っていた教養人であった。しかし、そのことをステータスと感じていたことはなかったであろう。むしろそのインテリとしての能力や思考力を何のために誰のために駆使すべきかを知っていた。彼はそのことに命を掛けていたということが資本論を読んでいて感じられる。

 現代のマルクス経済学者はかつての宇野派マルクス経済学者の一人である柴垣和夫氏のように「知識人の資格としての経済学」などという視点でしかマルクスをとらえることが出来なくなっているのだ。的場昭弘氏もその一人かもしれないが、彼の「超訳 資本論」に垣間見ることのできる彼自身の視点は、少なくとも柄谷氏や浅田氏のそれよりはリアリティーがある。

 かく言う私は、マルクス経済学者でもないし、哲学者でも思想家でもない。私はデザイン教育とデザイン理論で飯を食ってきた人間である。だから大きなことは言えないのであるが、率直にそう感じたまでだ。

 そもそも自分が社会の中でどのような役割を担い生きてきたのか、その意義を理解したい。たまたま40年も前に学生運動と行動をともにした生活の中でマルクスに出会って、そこでそれまで自分が単純に考えてきた生きる意味を大きく変えざるを得なかった。工業デザイナーとして好きなデザインの仕事に進もうとしていた自分が、そのデザインという職能の持つ本質を知ってしまったときから悩みは始まった。

 11年にわたる大学研究室での疎外状態の中で独学で学んだマルクスの思想と経済学はおそらくアカデミックな場でそれを学んだ人達に比べれば偏った貧しいものであろう。だからその後研究者として飯を食えるようになろうと思い直し、デザイン理論の研究を本格的に始めた後も、デザインを既存の職能という形ではなくそれを批判的に抽象した普遍的な労働過程の一つの側面として見る立場を守ろうとしたにも拘わらず、単なる「付加価値」の付与のための方法に迷い込んでしまったこともあった。批判すべき社会の中で生きていくためにその社会の一部を担わざるを得ないと言うことは、想像以上につらく厳しいことであった。自分自身の存在をも否定するような気持ちにならざるをえないことがあった。

 しかし、そのつらさがかえって現実への批判のモチベーションとなったことも確かである。そのモチベーションはリアリティーを失えば直ちに「仮想現実」に成り下がってしまうものである。現実社会への批判を通じて自分が何者であるのかを明らかにしたい、という願望は強まるばかりであった。そしてそのためには自分が現実社会に対してリアルな視点を持たなければならなかった。そこにしか自分の生きる意味はないと感じるのである。そのために何度でもマルクスから学ぼうと思うのである。マルクスが与えてくれた知的武器を用いて立ち向かおうと思うのである。

 視野が狭いといわれればそれまでかもしれないが、私にはマルクスの方法を自分のものとして獲得することしか考えられないのである。

 柄谷さん、浅田さん、的場さんどうぞかく言う私を批判して下さい。多分このブログの存在すらお知りにならないでしょうけど。

|

« 「景気底打ち」の意味するところ | トップページ | 分割労働でのデザイン行為(その1) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

いつもお邪魔させて貰っております。よろしくです。

柄谷行人のNAMは、本で読みました。なるほど、そう言う取り組みが出来れば、それはまた凄いことだなと思いました。でも、すぐに崩壊しました。なぜでしょう。資本論を読めば、第三章第一節の最初のところに、オーウェンの協同作業と労働貨幣の話がある。商品を前提にしている上でのこの発想は、劇場の切符みたいな物と鋭く批判している。商品が存在するならすなわち貨幣が存在すると、後段で書いており、これらを読めば、NAMは幻想のようである。柄谷は資本論の当該部分を読んでいないか、理解しなかったようだ。

さて、浅田彰、京都造形芸術大学教授、多少はデザイン理論にも触れているのだろうか。経済学専攻というからには、でも、資本論は読んでいないか。読んでいれば、柄谷に忠告することもあったろう。

昔の我々には、デザイン論といえば、栄久庵の環具とか、故黒川のメタボリズム、都市は代謝するとか、菊竹のか、かた、かたち といったもんだ。今のデザイン論はさっぱり。これらのしょうもない論が、多少は反面教師のそれ役になるかどうかだ。

野口さんが磨いた論理の展開には、大きな時間を要したようが、それが糧になっているのであろう。いろいろと読んで行きたいと思っています。

投稿: mizz | 2009年6月20日 (土) 22時43分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/210651/45385886

この記事へのトラックバック一覧です: 思考のリアリティーについて考える:

« 「景気底打ち」の意味するところ | トップページ | 分割労働でのデザイン行為(その1) »