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2009年7月30日 (木)

実存の変革

 今日のBS TVでフランスで禅を布教した弟子丸という仏僧の話が出てきた。五木寛之氏が語り手となって弟子丸の教えとそのフランス人弟子達の生き方を追った興味深い番組であった。

 1960年代末のフランスでのいわゆる5月革命とその後の闘争の敗北による抑圧的社会で、挫折した若者の心に共感を得た禅の教えの話である。弟子丸の禅の教えでは、自らを見つめ、自ら追い求めるものを掴んだ瞬間、その追い求めていたものも自己もともに無に帰してしまうような状態が悟りであるという。さらにそこから、追い求める対象と追う自分という関係を超えた、しかも地位や名誉などとは全く関係ない実存の世界で、自然態で市井の人々にその人々の日々の仕事を通じて悟りを開くことを手助けするのが、禅の最高の状態だという。

 弟子丸はフランスのカトリック教会で座禅を組み、「私は禅を布教する為にここに来たのではない、あなたがたキリスト教徒が本当の自分を見いだし、キリスト教徒たることの意味を見いだすことをお手伝いするためにやってきたのです。」といった。つまりキリスト教徒から仏教徒に改宗することを勧めにきたのではなく、キリスト教徒としての自分を見つめ、自分の実存を見いだすことに手助けするために来たというのである。運動に挫折した若者やカトリックの教義を身につけてきたフランス人たちの中に、こうして禅の思想は深く浸透して行った。

 これは私にとって一つの驚きであった。弟子丸の教えはこうしてカトリック信者の中に、一つの自己発見を導くための態度として、その実存を見いだす方法としての位置を獲得していったのである。そしておそらくは弟子丸のすごさは、そのことを通じて禅の神髄をカトリック教徒たちの内面に深く浸透させていったことである。

 マルクスの思想に共感する私にとって、このことは何を意味するのか?

 まず言えることは、禅もカトリックも自己の実存を見いだすことはできるかもしれないが、その実存(つまり自分が自分であること)を根底から支えている社会の仕組みを変革することはできないということである。マルクスはユダヤ教徒の家庭に育ったらしいから、キリスト教徒とはやや異なる実存を持っていたであろう。しかし、彼のすごさは、その自己の実存を発見することではなく変革することに本当の革命の意味を見いだしたことだろう。

 実存の変革と一言でいうことはできるが、これは大変なことである。自分が自分であることを一旦否定し、その反自己の中から本当の、つまりこれから生まれようとする新しい自己の芽を掴みとって行くのだから。これから生まれようとする自己の実存の基盤となるべき社会の仕組みを、現在の社会の仕組みへの徹底的な批判を通じてつかみ取って行こうとする態度である。これは禅の境地よりはるかに革命的であり包括的である。批判の過程そのものが新しい自己の抽出過程なのだから。マルクスが、労働者階級に対して、革命によって、自らを賃労働に縛り付ける鉄鎖以外に失うものは何もない、と檄を飛ばすとき、その檄の背後に確固たる理性と客観性を持った思想の形成と歩みをともにする新しい自己が現れつつあったのである。

 われわれも、いま日々の生活の中で既存の自己の実存の中で、ものを考え、理解しようとするが、実は、資本主義社会の中での利害や成功から外されている、このわれわれが置かれた立場こそ、その既存の枠組みを超え出て新たな世界の地平を見ることが出来うる立場なのである。

 弟子丸流に言うならば、日々の仕事の中で、それが単に労賃を得るための手段であるばかりでなく、社会に必要な労働の一端を担っているという自覚と、そしてその正当な自覚にもとづき不当な賃金奴隷の立場から解放されるべきであるという自覚を得ることは、結局新しい自己の実存となって、マルクスの思想の自分における再生産につながるだろう。資本論はそのような労働者の自覚を理論的に裏付けるためのテクストであるといえる。

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