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2009年8月 5日 (水)

閑話休題

あまりに遠くを見すぎてきたかもしれない。

真昼の夏の日に、窓を開けると聞こえてくる、遠い電車の音。どこか遠くの建設現場で打ち込まれるエアハンマーの音。あちこちで鳴いている蝉の声。曇天の空から降りてくるカラスの声。そして窓から流れ込むわずかな風。

これがいまという時間なのだ。

足もとを見よう。自分がこうして呼吸をし、考え、暑さに耐えかねて水を飲む。

何も思い浮かばないことにいらだち、かすむ目にもう一度めがねをかけ直してパソコンの画面を見る。

これがいまの自分なのだ。

足もとを見よう。

私が居ようと居まいとお構いなしに、世界は存在する。私が一生懸命叫ぼうと、こぶしを振り上げようと、それは毎日少しも変わらないように見える。

しかし、私の中の世界は、そこにある。私と世界はそこにある。

アブラゼミの声の中に突然ツクツクボウシの声が聞こえてきた。やがて圧倒的なアブラゼミの声にそれはかき消されていった。

これがいまの世界なのだ。

足もとを見よう。

ありが一匹、コンクリートのタタキの上を歩いている。忙しそうに。

雲間から日が射してきた。

8000万キロメートルかなたの巨大な太陽からやってきた一条の光が、いま、ありに降り注がれている。

ありはそんなことにはお構いなしに、忙しく走り去った。

そう、これが生きるということなのだ。

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コメント

英訳資本論の第7章第1節を翻訳中です。
その中にトレンズ大佐の論が本文注として登場します。この部分に関連して、訳者余談をつけました。
野口さんのブログを上手くサポートしているかどうかは、やや離れるかもしれませんが、コメントとしてお許し頂ければと思います。

その簡単な初期的な要素として分析した労働過程は、使用価値を、自然の物を人間の要求に充当させる物を、生産するための人間の行動である。人間と自然との間で、物のやりとりをもたらすための必要条件なのである。自然が課した、人間としての存在に係る、未来永劫変わらぬ条件なのである。従って、であるから、労働過程は、人間存在のあらゆる社会的局面からは独立しており、または、むしろ、あらゆる各局面において共通しているのである。従って、かっては、我々の労働者を、他の労働者との関係において表す必要性は無かった。人と彼の労働が一方に、自然とその物質が他方に、それで充分であった。小麦粥の味は、誰がそのからす麦を育てたのかを語りはしないし、単純な粥の作り方過程が、いかなる社会的条件のもとで作られた からす麦なのかをも語りはしない。奴隷主の野蛮な笞で か、または、資本家の例の目つきで かは、語られもしない。また、古代ローマのキンキナトウス将軍が、彼の小さな農園の固い粘土質の土地で栽培させたものなのか、石で野獣を殺戮する未開の地で取れたものなのかは、分からない。

 本文の、ここの文の末尾に、太古の人が野獣を石で仕留める記述があるが、これに注が付されている。がその訳の前に、余計とは思うが、


訳者余談: 読者の皆さんには、資本家の例の目つき という私の訳で、その目つきがどんなものか想像がついたろうか。一体どんな目つきなのかという疑問が生じてしまっただろうか。英文は、そんな疑問は生じさせてはいない。こう書いてあるだけである。the anxious eye of the capitalist と。向坂訳では、不安げな目の色 となっている。Anxious には心配な という意味もあり、向坂訳もないではないが、資本家が何に不安なのかと疑問が残る。剰余価値に注がれる目には、不安などありはしない。らんらんと( 切望する eagerという意味も辞書で発見するだろう。) 輝いているだろう。次の前貸しも視野に入っているだろうし、これが、神によって与えられた役割と思っており、労働の、剰余労働の私物化とは少しも感じていないのだから。ただ、労働者階級から見れば、そのらんらんは、嫌らしい合法詐欺的目つきでしかない。このことを私が僅かな文字に託して訳すと、こうなったということである。さて、本文注である。

 偉大なる、論理的な明敏さという事実によって、トレンズ大佐は、未開人の石に、資本の起源を発見したのである。彼 [未開人] が野獣を追いかけて投げた、最初の石に、彼の届かぬ位置にある果実をたたき落とした、最初の棒に、我々は、目的のために、ある物を用い、別の物を獲得する補助としたのを見る。そして、そのように、資本の起源を発見したのである。

 訳者余談の追加で恐縮だが、オバマ アメリカ大統領が2009年4月に、画期的な演説をプラハで行った。核廃絶宣言である。そして、メドベージェフ ロシア大統領と、アメリカが保有する9千発、ロシアが保有する1万3千発のそれらを、各最大で1500発以下とする覚書に7月 調印した。これは削除ではなく、削減という過程的混乱だろう。広島に64年前に原爆が投下された日に、広島市長は、オバマ アメリカ大統領の宣言を支持し、核廃絶を我々の世代で実現できるように努力すると誓った。日本の麻生首相は、核廃絶に言及しながらも、北朝鮮に触れて、核の傘の必要性にも言及するという二律背反的な演説をした。トレンズ大佐に、石や棒がそうなるのか や、核と資本の関係についても、明敏なる論理を当てはめるとどうなるのか、聞いてみたくなった。だが、彼の論理で云うなら、何があっても、石と棒が、その起源だというだけの話で、聞くまでもない。資本が労働者も核石もミサイル棒をも作り出したと云ったら、理解の範囲を簡単に超えているだろう。

核廃絶は資本の廃絶に繋がっているのではと思っています。

投稿: mizz | 2009年8月 7日 (金) 23時09分

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