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2009年8月 6日 (木)

広島64年後の状況

 今日は言わずと知れた、原爆の日である。秋葉市長の弔辞は被爆市の市長としてじつに実感のこもったものであった。それに対して麻生首相のスピーチの何と味気なく空虚であったことか。北朝鮮が核武装するなら日本も核武装をすべきだと陰で主張しているこの人なら当然かも知れない。

 核兵器を実際に使用した唯一の国であるアメリカが率先して核廃絶を目指す責任があるという、オバマ大統領のプラハ宣言は、われわれにとって、感動的であったが、しかしそれはアメリカ大統領として当然取るべき立場であって、これまでの大統領がそれを言わなかったことがおかしいのである。アメリカが戦勝国であろうとなかろうと、アメリカには核廃絶の責任があるのだ。アメリカのすべての人々にそのことを自覚して欲しい。

 この期に及んで飢餓に苦しむ自国民を欺し続け、核武装して宿敵日本をターゲットにすると脅す北朝鮮のキム王朝など、何も怖くはない。われわれが核兵器など持たなくとも、彼らは本当に日本を核攻撃することなどできっこないからだ。マルクスのマの字もしらないくせに、「社会主義人民共和国」を名乗り、マルクスの歴史的業績を地におとしめた責任こそ裁かれなければならないだろう。そして核武装を掲げる独裁者に苦しめられている北朝鮮の人々と核兵器廃絶を希求するわれわれとは、本来同じものを目指しているのだということを知ってもらうべきであろう。われわれの交渉すべき相手は独裁者ではなく、そこで独裁と虚偽の愛国心の強要に苦しめられている人民である。

 世に「現実主義的政治」という言葉がある。核廃絶などという理想や憲法9条に唱われていることは「理想主義的」であって現実性がない、という主張である。しかし、この「現実主義」がいかに残虐で非人道的な結果を生んできたかは歴史が証明している。相手が武器を持って襲ってくるのに、裸で殺されるのを待つのか?と「現実主義者」はいう。しかしそれなら日常生活の中でいつ犯罪のターゲットにされるかわからないわれわれは、いつも武器を持ち歩かなければならないのか?

 われわれは殺されるのを待つわけでは決してないし、武器を持って殺そうとした相手を逆に殺そうというわけでももちろんない。不当に殺しにかかってくる相手にそれが不当であることを自覚させねばならないのだ。「目には目を」では、決して世界から戦争はなくならない。

 それが国という単位になると、「民族意識」や「愛国心」というものが持ち出されてくる。あのユーゴスラビアの内戦の時を思い出してみよう。つい昨日まで隣人として親しくつきあってきた人達と、「国家」や「民族」という看板が掛けられると途端に殺し合わねばならない関係になってしまうのだ。これが戦争というものである。われわれは「国家」とか「民族」とかいうまえに、もう一度隣の国に住む人々と、どうやって互いに協力して、無為な殺し合いのない世界を創っていけるのかを考えるべきではなかろうか?

 このような人間として「あたりまえ」のことが当たり前でなくなるような状況を許してはいけない。そういう意味で、目のウロコを落としてもう一度世の中を見直すべきときが来ているのだ。「ゴーマニズム」がかっこよく見えたとしてもそれこそ非現実的なパフォーマンスに過ぎないではないか。もう悪しき歴史を繰り返すのはやめよう! ここから新しい歴史を創りだしていこう!

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