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2009年9月 7日 (月)

「国家戦略室」のデザイン力やいかに?

 民主党政権は、官僚任せの行政から政治主導の行政に移行させるため、あらたに国家戦略室という組織を作った。そのボスに菅直人氏が内定している。

 かつてソ連などのいわゆる「社会主義国」で5カ年計画を策定する組織をつくり、「ゴスプラン」と呼んでいたことを思い起こさせる。社会主義体制では資本主義体制のような市場まかせの経済ではなく計画経済を基本としており、社会経済の基本構想が策定される。これこそ一社会全体の基本デザインである。残念ながらソ連型「社会主義」は一党独裁体制のもと、まさに官僚主導型社会になってしまったのであるが、マルクスが目指していた未来社会はそれとはほど遠い、労働者階級主導型の計画経済体制であったと考えられる。社会全体の富を生み出す労働者階級が、自ら社会の生産から消費までの仕組みやそれに沿った生産計画をデザインする、というもっとも自然であたりまえの社会形態である。

 現代社会は、その中間にエゴイスティックな支配階級がいくつかあってそれぞれ手前勝手で独善的な振る舞い(これを自由主義経済と呼ぶらしいが)をするために、貧困や戦争が絶えないのであるが、階級が一つであればものごとは実にシンプルで分かりやすい。

 しかし民主党は社会主義を標榜する労働者階級の政党ではないので、国家戦略は支配階級間の複雑な力関係の中で妥協の産物として機能するしかないだろう。菅さんの手腕がものをいうであろうが、とりあえず働く人達、つまり労働者階級の視点ですべてを考えて欲しい。少なくとも現代社会に「労働者階級」なんて存在しない、などというばかげた考えは持って欲しくない。

 アメリカではオバマ大統領の国家戦略デザインがそろそろボロを出し始めている。しかしそれでもオバマさんの基本コンセプトはある意味で間違っていない。彼は経済力世界一と称するアメリカに多く存在しますます増加しつつある貧困層に着眼し、医療保険制度や社会保障制度の抜本的改革を図っているのだから。しかし大手の金融機関に莫大な税金を投入して救済を図ったのは間違いではなかったか?それによって潤った金融資本はふたたびエゴをむきだし始めている。社会的富を独り占めしようとする資本家グループに肩入れする必要などまったくない。彼らは身銭を切ってでも貧困層の救済に手を貸すべきである。貧困層を生み出したのは彼ら自身に他ならないのだから。

 さて、わが民主党の指導部は、これと同じテツを踏む可能性が高い。その証拠に、財源問題で、政府の無駄遣いを減らし、埋蔵金を活用するなどと言っている。そもそもいまの社会での富の配分が基本的におかしいことに気づかなければダメである。社会的富を生み出している労働者(毎日汗して働いている人たち)達からその大部分を搾取して、資本化し、世界に「金余り状態」を生み出した上で、巨額のマネーを右から左に動かすだけで、それを奪い合っている連中に遠慮する必要などまったくないのだ。このような連中が居なくなると雇用が減って、失業者が急増し社会経済が成り立たなくなると、政治家は(官僚も)考えているらしいが、それは資本を社会の原動力として動く仕組みが崩れるということであって、それによって社会全体が崩壊するわけではない。

 労働者はこのような支配層がばらまくイリュージョンに欺されてはいけない。むしろそのときこそ労働者自身が社会をコントロールできる条件が整うのである。財源問題に悩むことなく社会保障や医療の抜本的改良を行え、すべての働く人々が働きたいと思うときに働ける社会が生まれる条件が整うのである。なぜなら、社会的富を生み出す労働者階級自身が自らの手で社会的富の配分をデザインすることによって自分たちの医療制度や社会保障の仕組みを作り上げるのだから。そこには景気対策や雇用問題などはありえない。

 政党や行政の指導的立場にある者は、社会のこういう基本的原理を実現するために命を掛けなければならないはずだ、国家戦略室長の菅さんにそれを要求するのは無理であろうが、少しでもそれに近づけて欲しいと思う。さあ、まずは菅さんの国家デザイン力を注目しよう。

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コメント

野口さん、コメントでお邪魔します。

やはり、民主と自民の違いが出ます。
自民が、6,8,15%と小出しにしてきたのを、民主はこれを一挙に、25%と、場札を上げてきました。さっそく、産業界から、荒唐無稽、国益を害するとの声がかかりました。それに対して、経済や国民生活が悪くなるのではなく、良くなると信じている。と民主は云いました。

産業界の国益を損じるという論理は、温暖化ガスの排出規制をすれば、コストに跳ね返り、商品価格が上昇し、規制しない国の商品との競争に勝てず、日本の資本の拡大が不可能となり、日本の資本の意義を失い、日本資本として崩壊するというのです。さらに、そうなれば、国民への賃金を支払えず、国民の生活は崩壊し、日本という国の存立に係わることになるが、それでもいいのか。と云いたいようです。

アメリカでも、中国でも、インドでも海外に逃げ出すと云う例の脅しを、何故出してこないのかって? いいところに気がつきましたね。

今迄日本は、世界の下位争いのトップクラス、それが本物のトップ争いに加わってきたと、世界は歓迎しています。アメリカや中国も、有難い仲間であったものが、急に抜け出しすれば、追わずに商売するのは難しく、多分すぐに、規制に加わるだろうと産業界も見たからです。

確かに、民主は、資本主義政党の一端を担っており、資本の意義を守る立場に立っています。でも、それでは自民を政権から追い落として、政権交代を得ることはできません。多少は、労働者階級の意見をも入れて、中庸を取るからこそ、大多数を占める労働者階級の票を得られたのです。単に、自民の政治に嫌気がして、票を民主に入れた人が大半だとしても、労働者階級としての理解が曖昧たるものであっても、それが長い歴史の産物であることは、紛れもない事実なのです。25%は、いわば、労働者が自身の自覚がなくても、労働者階級が民主を押した結果なのです。だから、こそ、産業界たる資本が、自身の存立の危機として敏感に反応せざるを得ないのです。アメリカ資本がブッシュに云わせたことが、日本資本が麻生に云わせたことが維持できなくなったということです。

資本論には、廃棄物の価値は、使用価値として再現されなければ、商品にその価値を移管するという説明があります。排気ガスとして大気中に使用価値のない状態で捨てますから、その価値は商品に移管され、商品の価値は、それを含みます。だからといって商品自体に使用価値がなければ、含んだところで、商品としても成立しません。規制は、そんな誇大商品の意味を取り去るということです。ちゃんとした使用価値を有する有用な商品でなければ、貨幣との交換に至らないということです。地球の生活者にとっては、まさに、良き使用価値を獲得することが原則なのです。資本はいよいよそのような商品を生み出せない限界に達したと自ら声明しているようなものです。資本にとっては、もともと使用価値はどうでもいいことです。価値が有りさえすればいいのです。だから、その使用価値を問われれば、価値をも失う危機があるのです。儲けた価値の使用価値が金融危機ではその存在意義は皆無です。

資本が労働者をいかに働かせたか、資本の成長が失業の拡大であった歴史を知れば、労働者は資本の使用価値を問いなおすでしょう。資本が一体どこから生まれたか、奴隷貿易の儲けが、農地の囲い込みを生み、農民を労働者に追い立て、一方奴隷貿易の儲けが労働者を資本拡大の梃子として用いたのであり、追いと搾取が資本の拡大そのものであったことを歴史が語っています。その歴史が5世紀かけて、25%に現われているのです。紆余曲折は続きますが、これも歴史的な事件なのです。

民主に、資本論を読んだ人は、居ないでしょう。議員の資格が、その使用価値がどういうものかはの一つは、資本論を読んで理解していなければ、意味がないと云われるのも、もうすぐのことでしょう。

投稿: mizz | 2009年9月 8日 (火) 16時03分

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