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2009年12月31日 (木)

2009年の終わりに

 巷では2009年は変化の年であったという。本当に変化したのだろうか?

変化はやってくるものではなく、生み出すのものだろう。本当に変化するためには、それを待つだけでなく、自らを変えなければならないはずだ。しかし、自らを変えるには、変えなければならない理由があるはずだ。止むにやまれぬ何かがあるはずだ。人の苦しみを同じ目線で感じることも出来ず、高いところから「友愛」を論じるだけでは世の中は決して変わらない。そしてもっとも変化を望んでいる人々は、いまや一人一人がバラバラになり、自らの無力さをイヤと言うほど知らさせられている。

 世の中の風潮を「中立的」立場という外野席から眺め、いかにも庶民の代弁者のように振る舞いながら、政治や社会を批判するのがマスコミの役割なのかも知れないが、その影響力の大きさからみるとマスコミは責任感が薄い。見方を変えればマスコミほど危険なものはない。彼らが世の中の流れを左右することになるのだから。戦後リベラル派を自認する、あるマスコミが、戦時中は軍国主義の旗を振っていたことはよく知られた事実だ。

 そしていま彼らは、一方で、庶民の味方というポーズを取りながら、政権交代を演出し、他方で、なかなか景気回復できず、国家予算が膨らんで行く民主党の政策を批判しながら、「景気浮揚」や「雇用拡大」を主張する。そもそも「景気浮揚」とは、資本が生き残るため、なりふりかまわず解雇や重労働によって労働者を切り捨てることによって可能になるのである。雇用なき景気回復こそ資本が競争に勝つための「合理化」なのである。国際競争力をつけるためと称して、経営者は国内での雇用を差し控え、そのため就職できない若者たちは東南アジアなどに職を求めて出て行く。そして資本は、海外投資と称してアジアなどの低賃金労働を搾取することで国際競争力を身につけようとするのである。さらにマスコミの矛盾は、労働市場で格付けされるための競争である、受験地獄を促進するような、一流大学進学高校リストなどを毎年発表したりしていることにも現れている。

 本当に変化を求めるならば、いまの社会がどのようなメカニズムでその軋轢や矛盾をうみだしてきたのか、それを真剣に受け止め、なぜ、どういう変化が必要なのか分析べきだろう。

 マスコミがだれの見方なのかは、やがて歴史があきらかにするだろう。われわれは雰囲気やかっこうだけで欺されてはいけない。そしてわれわれ一人一人はマスコミの論調より、はるかにもっと深く事実を探求し、その上で、変革が必要な人々すべてが草の根から手を取り合って力を合わせなければならないときがくるだろう。

 2010年がそういう流れの始まる年になって欲しい。

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