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2009年3月1日 - 2009年3月7日

2009年3月 4日 (水)

政治や経済政策もデザインである

 政治や経済政策も広い意味でのデザインであるといえる。要はそれがどのようなコンセプトで行われるかである。ここでいう「コンセプト」は目的意識と言い換えてもよい。小は製品のデザインから大は政治経済政策に至るまで人間の行う計画・企画的行為の中核は広い意味でのデザイン行為である。一企業の製品の企画やデザインは市場の状況に左右され、市場の状況はその国や世界の政治経済状況に左右されているといえる。これらに貫かれている広い意味でのデザイン行為をわれわれはいま研究対象としたい。

 デザイン行為は、一方で、長い年月をかけて人類が獲得してきたサイエンスの本質である客観的真理の追究という人類の普遍的な目的意識とそれを実現させるための方法を前提にしているが、他方で、まだやってこない時間的未来において、創り出すべき状態を考え、それを目指して当面の問題を解決する、という実践的な側面を持っている。単なる客観的真理の追究だけを目標とする科学とは異なる質を持っているのである。これを単に「科学の応用による実践」という言い方ではすまされない問題を含んでいる。科学それ自体の持つ目的意識にも、来るべき未来への視点が含まれているからである。科学が政治という実践のしもべになることの矛盾は、戦争という政治の失敗において顕著に表れる。核兵器の開発がその典型である。しかしだからといって科学が政治から完全に独立であることは難しい。なぜなら科学者の生きる社会は政治経済に左右される世界だからである。

 科学者はその社会的影響力の大きさからいっても、本質的に「ノンポリ」ではいられないのである。自身の世界観をもつことが要求される。しかしその世界観はあくまで客観的真理に支えられた世界観でなければ「科学者」とはいえないのである。

 デザインは科学か?という問いはかつて取り上げられ議論の俎上に上がったが、デザイン学会という学術団体があるのだから当然科学であるといった常識的な域を出なかったように思う。しかしこの問いの持つ意味は大きい。デザイン行為そのものは前述のように科学の方法だけでは済まされない問題を含んでいるが、デザイン行為を研究対象にする立場は科学的でなければならないだろう。

 国の経済政策を決定するためには、さまざまな客観的データの分析を基礎にして、それをどのように解釈し、どのような目的を設定しつつ現実の政策を決定するか迫られる。政策決定のような高度なデザイン行為は失敗が許されない。しかしデザイン行為には本質的に失敗の可能性が含まれているのである。それが創造的であればあるほど失敗の確率は高い。ということは試行錯誤が必然であるということでもある。しかも実証が必須の科学的真理の探究と異なり、政策は何が正解であるのか、いや、あったのかも明らかにすることができないことがほとんどである。

 このようなデザイン行為の中に必要なことは論理的思考にもとづく判断の他にある種の倫理的立場が要求されることであろう。この倫理的立場は、製品のデザインなどの場合は、美的価値観という形で現れ、政策決定のような場合は、政治家の倫理観として現れる。その根底にあるのは人間観や社会観であるといえるだろう。

 しかし、この人間観や社会観が多くの宗教のように客観的真理を本質的部分においてごまかす教えに基づいていると危険である。もちろん宗教における人間探求の深さは、われわれごとき俗物が一朝一夕に超えられるものではなく、人類の偉大な試行錯誤の記録としてそれらを批判的に継承する必要があるといえるだろう。

 さて今日の世界経済の混迷とそれによる、多くの働く人々の犠牲はそれぞれの国の政治が誰のためのものであったのかを知るためにもっともよい機会であるともいえる。政治家たちの打ち出す政策の行方をジーッと見守ろう。いまこそ彼らのデザイン能力が試されるときなのだから。

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