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2009年3月8日 - 2009年3月14日

2009年3月10日 (火)

デザイン行為の一般化・抽象化における問題点

 デザイン行為がその個々の具体的形態、例えば、工業デザイン、視覚媒体デザイン、機械設計、建築デザイン、ソフトウエアデザイン等々からその一般的な形態、つまり共通部分を抽出してデザイン一般を論ずることは(例えば、一般設計学のように)、それ自体意味のあることであるが、実はそのときに行われる抽象の方法が問題なのである。

 個々のデザイン行為に共通する要素を抽出し、すべてのデザイン行為に該当するデザイン行為の一般的かつ抽象的論理や形態を問題にする場合、実は出発点となった個々のデザイン行為に含まれている要素の何が捨象されたのかが問題なのである。何が現実の行為の中で変化する要素であり、何が普遍的要素であるかを判断するのは、それを論じる人自身である。その人は日々変化する現実の社会に生活している人である。その人にとって、なぜ普遍的な要素が「普遍的」と認識できるのか、これが問題である。

 他の個別的デザイン行為(職種)との比較の中で異なる要素と共通する要素を抽出できるようになる。これがさらに他の行為(比較の対象はデザイン行為とは限らない)と比較され、その違いと共通と共通性が弁別され、認識される共通要素の抽象度が高くなる。つまり、普遍性を発見するのは個別性における違いの発見が出発点なのであって、個別的・具体的事実があって、初めて抽象し得る状態になる。決して最初から普遍や一般が存在したのではないのである。それはあとから発見されるのである。

 これを間違えると一昔前に流行ったような「デザイナー=文明の形成者」的観念が生まれる。これは現代社会の申し子であるデザイナーという職能があたかも人々の生活形態のすべてをデザインする普遍的な使命を持っているかのように勘違いした考え方である。これは「デザイナー=独裁者」という考え方とほとんど同じである。つまりヒトラーやスターリンは理想的デザイナーであった、ということになりかねない。「政治・経済政策もデザインである」といった前回述べた考え方には、実はこのような考え方への批判が含まれている。

 言い方を換えると、普遍性や一般化への抽象には個々の現実に対する批判的な立場が貫かれているはずなのであって、それが忘れられてしまうと、「デザイナー=独裁者」的発想になる。

 例えば、現実の個々のデザイン行為(職能)がもつ業務内容に疑問を感じ、なぜそれがおかしいのかを突き詰めて考えるところから、抽象が始まるのである。あるがままの現実に何ら疑問を感じない場合は抽象のモチベーションは存在しない。デザインという行為は本来このようなものではないはずだ、という疑問が、本来あるべきデザインの姿はどのようなものであろうか、という思考を促し、そこから抽象が始める。批判に基づく抽象は、だから、常に現実的で具体的な疑問をモチベーションとしてその背後に持っている。

 横並びに個々のデザイン行為を並べ、その共通点を挙げて、デザイン行為一般を論じるのは危険である。そこには意図するかしないかに拘わらず、現実のデザイン行為における問題点を捨象してしまうからである。そのようにして抽象されたデザイン行為一般は、無内容な形式的一般化に過ぎないといえる。

 たとえば工業製品を作る場におけるその作り方全体を変え、それに携わる個々の人々の自己実現の在り方そのものをも変えるような射程を含まざるを得ない政治がデザイン行為のもっとも抽象度の高いエッセンスを含んでいるとしても、だからといって政治家がすべてを決する立場にいるわけではなく、すべての個々のデザイン行為のバランスを取る立場に過ぎないのである。すべてのデザイン行為に携わる人々のデザイン・モチベーションがバランスよく、社会全体をダイナミックに動かしていけるかが問題なのである。だから個々のデザイン行為に携わる人々は、政治に関して「親方日の丸」ではなく、自分自身が社会全体の在り方に対して目を開いていなければならないのである。

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