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2009年4月5日 - 2009年4月11日

2009年4月10日 (金)

すべての人々が持っているデザイン能力(その3)

 前回に、すべてのひとびとが生まれながらにして持っている本来のデザイン力を引き出し、それをあらたな、大きな社会的デザイン力に結集できないだろうか、という話をした。C.アレクサンダーが建築において達成しようとしていた目標も、建築空間におけるそれであったかもしれない。かれはその手立てを生み出すために苦闘してきたのだろうと思う。私たちは、それを生活空間全体にまで拡大して、私たちの生活空間を私たち自身の手で生み出せるような仕組みを目指すべきではないだろうか?それはアノニマスでボトムアップ的デザイン力を結集しうる手立てである。

 私たちが、それぞれの持ち場で生み出してきた生活資料は、結局、資本主義社会の市場の法則によって好むと好まざるに拘わらず過剰な競争状態に置かれ、市場での競争に勝って生き残るために、ほとんど無駄ともいえる商品を次から次へと生み出さされ、私たちはつねにそれを買いたくなるように(広告・宣伝などで)仕向けられた状況の中に生きている。そしてそのように仕向けられた私たちを「消費者」と位置づけ、ただ競争に勝つために生み出された商品を消費者の要求に従って作られたモノであると宣伝される。そういう商品を次々と購入して生活を営んでいくことが「消費者」の使命であるかのように思わされている。

 こうした状況は、根本的には資本主義経済の仕組みが生み出す、法則性が社会的に必要なモノづくりを支配することによって私たちの生活に必要な資料が生み出されていることが原因であるといえる。それはあらゆる人々の持つデザイン能力をそれぞれの分業種という持ち場で発揮させ、それを一つの商品全体という形にまとめ上げるというプロセス全体を支配している支配力として表れ、その目的は市場で競争に勝ち、あらたな利潤を生み出すことに集約されている。私たちの「ニーズ」はそのための手段におとしめられているのである。

 現代のデザイナーはモノづくりに必要なさまざまなな分業種を一つの商品全体としてまとめ上げる場面で必要な分業種として位置づけられており、その意味で資本の市場法則がもっとも直接的に作用する分業種であるといえる。だから良心的で能力のあるデザイナーほど、本当に望まれるデザインを希求する気持ちと「売れるデザイン」を目指さねばならない立場の中で揺れるのである。

 このように私たちが生活に必要なモノを生み出そうとする時にそこに働く資本の法則の支配力から、さしあたりは逃れられないことは確かなのであるが、一方でこの資本の支配力を牽制し規制するための政治の土台を築くことと、他方で、生活に必要なものをできうる限り、私たち自身の手で生みだし、私たち自身の力で流通させるための仕組みづくりへの努力も必要なのではないだろうか。

 例えば、いまや金融資本家や投機家にとって必須の道具であり、資本の支配力に大きく貢献しているITインフラは、しかし同時に私たちの力にもなりうる手段でもある。私たちがそれぞれの持ち場で日々営々と働きながら生み出している価値の大部分を「利潤」や「差益」として大規模に奪取している資本が、それによって蓄積した莫大な富を、ただ自らの利益のために右から左に動かしてさらに莫大な利益を上げ続けることを止めさせ、その莫大な富を、もう一度正当な受益者である私たちの手に取り戻すための手段としても有効であることは明らかであるし、私たちがそれぞれの持ち場で生み出す労働生産物を一つの生活資料(製品)として、直接私たち自身が望む姿にデザインすることができるための、共通の情報基盤としてもITインフラは有効に用いることが出来るはずである。

 そういうものを具体的に考えていくことこそいま必要なのではないだろうか?いたずらに「デザインの創造性」を強調しても、それが誰のための創造力なのか、何のための創造力なのかを考えれば、その答えは見えていると言えないだろうか?

 私たちが望む本当の意味でのデザイン創造力はすべての人たちが日々行っている労働の中で発揮され、それらがおおきな社会的デザイン・パワーとなりうるような仕組みを生み出すことで、結集され大きな歴史的な力となりうるような創造力なのではないだろうか?

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2009年4月 7日 (火)

すべての人々が持っているデザイン能力(その2)

 前回で唐突に持ち出した民芸運動とアレクサンダーの思想であるが、アレクサンダーは彼のドクター論文"Notes on the synthesis of from"の中で、現代の建築家やデザイナーの特徴が、近代以前のそれにおけるアノニマス性に対し、「意識性(恣意性)」にあることを指摘している。しかし彼はそれを否定しているのではなく、それに相応しいデザイン方法論が必要であると主張し、例のTree構造で問題を解析・構造化してとらえ、それに対応した"Diagram”でボトムアップ的に複雑な問題を解決する方法を提唱している。しかしそのしばらく後に、"City is not a tree"という論文で、都市の持つ空間のデザインの問題が必ずしもTree構造ではないことを指摘している。彼はブラジリアの様な全く新たにデザインされた近代都市が持つ、無味乾燥な「非人間性」を批判し、京都やローマのような歴史の古い都市における「生活のさび」が住みよい都市にはが必要であり、それはアノニマスな人々が長い年月を通じて作り上げてきたものであり、特定のデザイナーによって整然とデザインされた結果ではないことを示唆している。そこから彼の「パタン・ランゲージ」によるボトムアップ的デザインの発想が育っていったのである。

 そこで、私は、現代のデザイナー達の中で、前回述べたような少数の「有名デザイナー」ではなく、圧倒的多数の「無名のデザイナー達」の仕事に着目しようと思う。例えば、日常使っている生活用具をデザインした人たちが誰なのか私たちはほとんど知る機会はない。しかしそれをデザインした人は必ずいるのである。彼(彼女)らは、ある企業の中で、設計やテストや部品調達やその他さまざまな分業種の人たちとの連携の中で、彼(彼女)の持ち場であるデザインという分業種を担い、一生懸命その仕事を行っているのである。そのようなさまざまな分業種の人たちがいるからこそ私たちの生活用具や生活空間全体が成り立っているのである。アレクサンダーの場合は、建築や都市という対象物について、それを生み出すために携わっているさまざまな分業種の人々が「共通に認識しうる何か」を手がかりとして全体を構成してゆけるような方法としてパタン・ランゲージを考えたのであろうと思われる。しかし大量生産が前提の工業製品のデザインにあっては、資本主義的商品経済の法則性が大きな影響力を持つため、基本的に一品制作的な建築とは違う困難な問題を持っているといえる。それは常に不特定多数の人間を相手にモノを作らなければならないことと、市場での競争に勝たねばならないことである。

 そのような状況においても私たちの生活意識は少しずつ変化している。過剰資本を消費によって処理するケインズ型資本主義経済体制の中で、モノを消費することが経済を支えるという構造が生み出されてしまったため、私たちはその経済体制を扇動する連中によって踊らされ、かつての節約を旨とした生活を止め、次から次へとモノを買い、廃棄してゆく生活に慣れてしまった。その中で、いわば消費促進の先兵として位置づけられた現代のデザイナー達がそのアノニマスな行為の中で生み出してきた生活空間はデザインされたモノであふれる一方で、本当に生活の中に定着するモノがなく、いたずらに廃棄物を増やし、目先の変化を追うような生活になってしまったといえるだろう。多くの人々はすでにこうした生活のありかたが、どこかで間違っているのではないかと気づいている。デザイナーの多くもそうであろう。しかし、それを止めることはできない。なぜなら、その仕事に生活が掛かっているからである。そこにこの問題の難しさがある。

 ひとりデザイナーだけでなく、社会的生産を支えるあらゆる分業種がこうした状況に置かれていることを考えれば、これはデザイナーという職能だけの問題では決してなく、社会全体の経済システムをリ・デザインしなければならない状況であることは明らかである。その意味で、みんなが感じている「何かが間違っている」という意識を出発点として、すべての人々が生まれながらにして持っている本来の意味でのデザイン能力が、結集されて、巨大で歴史的な「アノニマスなデザイン力」になりうる様な共通の手立てが、いまこそ必要なのではないだろうか。

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2009年4月 6日 (月)

すべての人々が持っているデザイン能力

 現在の職能としてのデザイナーだけがデザインという能力を持ち合わせているわけではない、というのがデザインの現状への批判から出発した私の抽象の一つの答えであった。たまたま現代社会という歴史的な段階でそれが一つの職能として現れたに過ぎず、その時代的職能という窓から見ればそこに優れたデザイン能力と劣った能力という比較が可能になるのだと思う。普遍的な意味での人間のデザイン能力は、誰でもが潜在的に持っている能力であり、肉体的・遺伝的な制約の中で、その人特有の形で表れる「時間の先取り」行為であるといえる。それはそれぞれの個人が置かれた個体としての制約(上に述べたような)とその実存を規定している社会的・歴史的状況の中で固有の表れ方をするものであり、その意味では同列に比較できる能力ではないと思う。言い換えれば、普遍的な意味でのデザイン能力は、それを現実に持っている諸個人の個別性・特殊性が存在するからこそ、それらに共通するエッセンスとしての普遍性を獲得しうる人間の能力なのだと思う。

 現代社会の中で、よくある問題を考えてみよう。例えば、自分が靴を買いに街の靴屋に出かけたとき、いろいろな種類の靴が店頭に並んでいるのを見て、どれが一番自分の好みに合うデザインかを考える。そして一つの気に入ったデザインの靴が選ばれると次にその値段を見る。自分が支払える能力と、その靴への「欲しさの度合い」のバランスを考え、そこで始めてその靴を買うか買わないかを決める。その靴を買ったとすると、その靴は私にとっては良いデザインであって手頃な値段であったということになる。しかし私以外の人にとってはそうでなかったかもしれないのである。

 そこで次に、その靴をデザインしているデザイナーの立場で考えてみよう。彼は自分の好みにあったデザインばかりしていたのではデザイナーとして失格となる。なぜなら彼(彼女)は、いろいろな人がそれぞれ好きになってくれそうな様々な種類のデザインの靴を用意することができなければ、デザイナーとしての能力を認められないからである。そのようにして様々な人たちが買ってくれるようなデザインを生み出せるデザイナーが優れた能力を持っていると認定され、そうでないデザイナーは無能であると評価される。つまり優れたデザイナーはまずデザイナー自身の個性を殺さねばならない。その上で高い評価が得られたならば、そこで始めて自分の個性を発揮したデザインが可能になる。それは、彼(彼女)が「デザイナー市場(デザイナーとしての労働力を売り買いする労働市場)」において、優れたデザイナーであるという「商標」を得たからであり、そこで個性を発揮できる可能性を得たなら、次には、彼(彼女)の名前を「ブランド」として商品の付加価値を上げることができるようになるのである。こうなれば、彼(彼女)は、自分の名前を看板として個性を発揮したデザインを商品化できるようになり、「自分のやりたいデザイン」ができるようになるのである。

 しかし、ここで「自分のやりたいデザイン」の実現された商品は、実は、市場において普通の人々がたやすく買えるような値段ではなくなっているのである。高付加価値商品とは、可処分所得を多く持っている人々を対象にした商品であり、誰でもたやすく買えないからこそ「価値がある」ものだからである。こうして有名デザイナー達は、流行を生みだし、普通の人々はそれにあこがれ、振り回されるのである。

 さて、ここでかつて柳宗悦らが主宰していた日本民芸運動において主張されていた、生活用具としての民芸品のデザインにおける匿名性と普遍性の問題を登場させよう。民芸品がもつ長い年月をかけて生み出されたデザインのもつ強靱さは、目先の流行にのっかた有名デザイナーのデザインに比べ、いかに良質の「何か」を含んでいるかは容易に感じ取ることができる。それはまた建築家クリストファー・アレクサンダーが主張する「時を超えた建築」であり、そこに貫かれている「語り得ぬ質」であって、彼の提唱するデザイン方法における「アノニマス性」とほとんど軌を一にする問題なのである。

 彼らが、現代のデザイナー達の仕事から失われてしまった、こうした普遍性を持った「語り得ぬ質」を取り戻すために行ってきた「戦い」(私はあえて戦いといいたい)の意味を問うことなくしては、デザインを論じる資格がないと言ってもよいのではなかろうか?

 今後この続きは少しずつ、このブログにおいて取り上げていこうと思う。

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