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2009年4月12日 - 2009年4月18日

2009年4月17日 (金)

価値と価値観の違い(その2)

 経済学的範疇としての価値は、前回述べたように社会的経済関係の中で表れる客観的な指標である。しかし価値観は個人の主観の中に存在するものであり、美意識や人生観や生活観といった形でその人の内部に形成されている目に見えない判断基準であるといえる。

 もちろん個人的価値観も社会関係から独立し、それと無縁であることはできない。個人が存在し生活する社会の中で培われた美意識や人間観や人生観が個人的価値観を形成するのだから。そういう意味では個人的価値観も社会関係やその社会の歴史性を反映している、そのため価値観の中には商品の価値に対する考え方も含まれる。しかしそれは価値そのものとは区別されるべきであって価値のように直接社会関係を規定する法則とはなり得ない。 

 それにも拘わらず価値と価値観が混同される(意図的に同一視する場合もある)のは、もともと商品の価値が「交換価値」として表れることが一つの理由のように思われる。「魅力的商品」や「購入したあとでの満足感」というのは、主観の領域であり、商品を購入する場合に購買者がこうした主観を判断基準にするからである。前回述べたような物々交換的単純商品交換の場面では、相手が持つモノを交換するかしないかという二者択一的場面を想定したが、現実の市場では競合商品が山のように存在する。同じ使用価値の商品であれば安い方がいいと思うだろうが、個人的価値観に従って、使用価値の内容が異なれば(例えばかっこうがいい方が欲しいなど)多少価格が高くてもそちらを購入することも多い。その場合購入者は商品の使用価値の中で「かっこうがいいことによる満足感の達成」という効用を重視したといえるだろう。その効用に対して対価として多少高くてもよいという判断が働きそれを購入したといえるだろう。

 しかしその使用価値における効用の違いはそれを生み出すのに要した社会的に平均的な労働時間が同じであっても生じる。つまり価値が等しくても使用価値における効用が異なりうるのである。だからこそ市場においては、価値によって直接一義的に価格が決まるのではなく、需要供給の関係という恣意的で主観的な要因で価格がきまることになるともいえるだろう。効用と価値が一致しないのは矛盾ということもできるが、実は、効用という個人の主観はものを作るときの目的あるいは根拠となる動機であるのに対して、価値はそれを社会的な形で客観的に生産し流通させるときに必要となる概念であり、本来ひとつの生産物がもつ主観的側面と客観的側面という両面であるともいえる。資本主義社会がその基底に持つ商品経済社会ではその矛盾を市場での売り手と買い手における交換価値の「マッチ」によって解消させようとするのである。

 要するに商品市場では売り手は常に実際の価値以上の価格で商品を売りたいと思い、買い手は自分にとって効用のあるものをその価値観に相応しい対価で購入しようとする。この思惑が異なる両者が同じ交換価値に達したとき売買が成立する。(しかし労働市場においては労働力商品の売り手と買い手の立場は対等ではなく、圧倒的に買い手が強い立場であることはいうまでもない。つまり売り手の持つ労働力が買い手のために効用を発揮できるために必要な条件である労働手段や生産手段はすべて買い手側があらかじめ所有しているのだから。)

 もともとこうした売り手と買い手による主観的効用とその対象がもつ社会的な意味での価値との間の「矛盾」が存在するところに、その「矛盾」を意図的に利用し、また利用できる条件が整っている場合には、今日のような意図的な価値と価値観の同一視という現象が現れるのである。

 ケインズ以後の資本主義社会では、経済恐慌の原因となる過剰資本の蓄積に対して、それへの処理が労働者の生活資料の消費や戦争における消費のような、そのままでは固定資本に還元されない形での消費を促進する(ここではこういう消費を「過剰消費」と名付けることにする)ことによって、資本の圧迫とならずに、逆にそれらの消費を生み出す資本に投資が振り向けられるようになることによって、あらたな資本の蓄積が可能となるようなメカニズムができあがっているが、そこではそのような社会的「過剰消費」を促進するために、常にこの価値と価値観の同一視という戦略が意図的に用いられるのである。

 ケインズ以後の資本主義社会では、労働者の賃金を相対的に高める(これは決して本来の意味で労働者の所得が増えることではない)ことによってその生活資料商品(家電機器やクルマなどの耐久消費財も含めて)の消費市場を活性化させ、そこに労働者の賃金を支出させることによって、生活資料商品を生み出す資本にそれを還元し、全体として資本の利潤を増大させるという図式ができあがっている。そこでは必然的に、個人の「消費者」の価値観に訴えて、いかに同じ価値の商品を高い市場価格で買わせるかという視点からの競争が行われる。デザインはそのための典型的な戦略的武器である。そこにいわゆる「付加価値」なる概念が登場し、サービスなどの効用もひっくるめて実体のない「価値」が登場するのである。さらにはこの実体のない「価値」をめぐっての思惑にもとづいて投資された莫大な資本が国境を越えて、グローバルな流動過剰資本として世界中を駆け巡り、一部の投機家や金融資本に蓄積されていったのがつい先日までの資本主義社会の姿であったといえる。

 われわれは「消費者へのサービス」とか「消費者の利益(効用)」とかいうことばにだまされてはいけない。われわれはそもそも「消費者」などではなく、直接社会的生産労働を行う「生産者」なのであり、われわれが消費する対象はわれわれの手で作られたものなのである。だれかが金儲けのためにサービスを売り物にしてもかまわないが、資本の手を借りずに我々自身の手で生産物の効用を高めることもできるし、協力し合って互いに支援(サービス)をすることができるはずではないか!!

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2009年4月16日 (木)

価値と価値観の違い(その1)

 最近流行のことばに「価値創造」というのがある。これは単にハードウエアとしての「モノ」を作ることよりも「コト」としてのソフトを作ることで価値を生み出し、それを新たな産業にしていくという意図のもとに作り出された特殊な意味を持つことばである。例えばゲームやアニメなどのエンタテイメント商品を生み出すこと、いわゆる「付加価値」を付けた商品を考え出すこと、サービスを産業としてとらえることなどなどである。これらの商品ジャンルが持つ特有の価値を生み出すことが「価値創造」と呼ばれるのである。

 これらは従来のモノとしての商品とどこが本質的に違うかといえば、「価値」の担い手としての商品の実体がタンジブルではないが、受益者がそこに何らかの効用を認める行為や表象であるといえるだろう。

 経済学で言う価値は、社会関係の中で意味を持つ概念であって、社会的に必要とされるものがそれに要する労働をどれだけの時間費やして作られたかで決まる値を持った概念である。単純化した商品経済社会を想定すれば、商品所有者が、自分の所有しないあるものを得ようとする場合、自分の欲しいものを所有する人間と出会ったとき、自分の所有するモノと自分が欲しいモノとを等価交換するためにまず両方のモノが交換可能かどうかを考えるが、その際に相手のモノが持つ相対的価値形態(自分が欲しいモノの持つ使用価値を根拠としている)との関係によって初めて表れる自分の商品のもつ等価形態(自分の持つモノと相手の持つモノとが異なる使用価値でありながら交換に値するかどうかという意味での等価)を想定し、そのときに自分も相手も直接それを意識していないにも拘わらず、実はそれを作るのに要した平均的労働時間が形成する価値という概念が背後でその等価を決めているということであると言ってよいだろう。

 しかし市場の需要供給のバランスによって価値が価格として表れる商品経済社会では、商品所有者は市場における交換価値しか問題にしないため、価値を形成する実体である労働は見えない。商品の交換価値として抽象化された等価形態の価値を、貨幣という特別の商品に代表させ、これを媒介(支払い手段)にして商品を交換する仕組みを作り上げることで、たまたま自分が欲しいモノを持つ相手に遭遇しなければ成立しないという物々交換の偶然性とその非効率性を克服し、いつでもどこでも貨幣との交換による売買を可能にした。しかしその反面で、この貨幣が持つ、あらゆる商品と交換できるという特別の機能がやがて一人歩きしはじめ、これがさまざまな形をとりながら「価値を生み出す資本」という姿で社会を支配するようになったのが資本主義社会であるといえるだろう。

 しかし資本は右から左に商品を動かす流通過程で利潤を獲得するだけではなく、社会に必要なものを作り出すために必要な人間の労働力までをも商品として取り込むことによって、初めて資本があたかも価値を生み出すかのように見える社会を確立したのである。価値を生む源泉である労働を資本が支配し、社会的に必要なものを生み出すことが、資本の価値を増殖するための手段となってしまう。労働によって直接社会的富を生み出している人々が、生み出した富の大部分を資本の所有物として収奪され、ほんの一部を資本から賃金として受け取り、それによって生活資料を買い求めることで、再び賃金として受け取った貨幣は資本の手に戻るため、また次の日も資本のために働くことで生きていかねばならない社会がこうして登場した。

 そのようにして商品となった労働力が労働市場(就職戦線や転職などというかたちで表れる)において交換されることを通じて、社会全体に必要な労働力を様々な労働分野に適正な比率で配分させるための調節が市場を通じて「自動的に」(もちろんここでいう「自動的」には解雇やレイオフ、失業といった過酷な状況をも含む)行われるのである。こうして資本主義社会において初めて価値が社会的な法則として機能する社会が成立したといえる。

 ところが、さまざまな国における資本主義化の度合いや形がことなるため(資本主義社会の不均等発展)、そこに生じた、いわゆる生活水準の差によって、世界的に見ると低い労働賃金で商品を生産する国々が登場する。高度に発達した資本主義国では生活に必要な資料をこうした低賃金労働の国々からの安い商品の輸入でまかなうことで、自国の労働はそれらの生活資料生産労働とは違った形で価値を生み出す労働に振り向けられる。高度に資本主義化した国々では、労働者は相対的に高賃金でああり(それは過去の労働運動などの結果としてそうなったのである)、低賃金労働が常態の国々の労働者に比べて可処分所得を持つ余裕がある。資本はその可処分所得を生活必需品ではない商品にも支出させることで、そこからあらたな利益を得ようとする。そこで自ずとこうした国々では奢侈品やエンタテイメント産業やサービス産業などのようないわゆる第三次的産業に資本が投入されるようになり、それらが輸出産業の花形となっていくのである。

 そこでは、個人の趣味や楽しみがターゲットとなるのであり、いかに個人がある商品やある行為、サービスなどで満足感を得るかが、それらを売る側からのセールスポイントとして考えられるようになる。そのうえIT技術の進展で、技術的にさまざまな可能性が生まれるようになったため、ますますその傾向が強くなった。だがだまされてはいけない、エンタテイメントやサービスは我々に対して本当の意味でサービスしているのではなく、サービスを売り物としてそこにわれわれがわずかに残している可処分所得の蓄積を注ぎ込ませ、それをも収奪しようというのが資本の目的であるのだから。われわれは「消費拡大」のかけ声に踊らされ、なけなしの金をサービスやエンタテイメントに使い果たした後、社会保障のあてもなく路頭に迷うことになるのだから。

 そういう状況の中で、個人の価値観と満足感を表す指標とが対応づけられることになり、個人の価値観があたかも社会的な価値と同義であるかのように考えられるようになってきたのだろう。そこに「価値創造」という言葉が流行る根拠があるように思う。

 では個人の満足感を充たすこと(別の言葉で言えば、商品の効用)は、上記で述べたような経済学的な範疇としての価値とどう違うのだろうか、次にそれを考えてみよう。

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2009年4月13日 (月)

コメントありがとうございます

 mizzさん、コメントありがとうございます。このブログを読んで資本論を再読する気になられたとお聞きして、やっと細々とこのブログを書いてきた甲斐があったと感じました。いまの世の中のひどい状況を見ていて、例えば選挙などでもTVなどのマスコミで顔を売っている有名人が圧倒的に勝利する有様を見ていると、もう選挙そのものが馬鹿馬鹿しくてやる気を失いますし、政治家達もそれをバックアップしている経済学者や社会学者もまったくいまの社会の病巣を真摯にとらえようとしていないことが分かります。しかしだからといって絶望して、自分の趣味に生きるという逃げ道に走っても、結局精神的にはちっとも充たされません。

 もちろん個人の力で世の中が変わろうはずはありませんが、それでもこのひどい絶望的な世の中にあって、何もしないで手をこまねいているよりは、自分の能力でできることを通じて、それに抵抗し続け批判を繰り返していくことこそ、自分の残された人生を生きる意味なのだと思っています。

 そういう意味でmizzさんからのコメントは、本当に私を勇気づけてくれました。

ありがとうございます。

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