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2009年4月19日 - 2009年4月25日

2009年4月25日 (土)

腐朽化が進む資本主義社会

 今日の資本主義社会が、もはや実体のある価値と価値法則を基準とした経済体制ではなく、実体のない虚偽の価値を市場でやりとりすることでしか延命できなくなっていることが見えてきたが、これはまさに資本主義社会の「腐朽化」が進んで、資本主義自らが価値法則を破壊しつつあるともいえるだろう。資本主義社会の腐朽化については、先頃亡くなったマルクス経済学者、大内力氏が40年以上も前に書いた「国家独占資本主義」という本の中ですでに触れている。その当時は、資本主義経済が、もはや資本自身による価値法則の貫徹を通した自立経済体制を維持できなくなり、通貨管理などによる国家のコントロールがなければ成り立たなくなっていることを価値法則の実質的破壊ととらえ、国家独占資本主義という形での資本主義社会の腐朽化ととらえていた。

 しかし、その後、いわゆる「社会主義的」(マルクスは社会主義という言葉を使ったことがなかったと言われている)政策に近いとされるケインズ派の政策が随所で頓挫した(例えばイギリスの労働党政権下でのいわゆるイギリス病といわれる現象など)ことにもより、それに反対するフリードマンらによる「新古典派資本主義が、政府主導ではなく市場原理に任せた経済を主張するようになり、レーガン政権代表される市場原理主導型資本主義体制が復活したのである。

 そしてその屋台骨を支えてきたのが、当初はハイテク産業やIT産業などの技術革新による剰余価値の増大であったが、やがて証券取引や不動産取引、そして政治情勢までをも左右する投機筋の投機的取引などが再び産業資本を飲み込んでいったのである。そしてそれを「実体」として支えてきたのが、アメリカ国民を中心とした消費の拡大による、商品市場の活性化であり(実は「消費」とは、労働賃金という形で労働者に前貸しした資本を商品の購買を媒介にして再び資本家の手に貫流することなのであるが)、借金をしてでも消費を増やしていくことが奨励されるようになった。そこに「付加価値」の創造という戦略が重要性を持ってきた根拠があったといえる。

 こうしてブクブクと肥え太ったメタボ金融資本は、一方で借金で首の回らなくなった多くの労働者と、他方で濡れ手に粟で巨額の金を獲得した富裕階級を生み出しながら、身動きできなくなり、動脈硬化を起こし、急速に体力を落としていったのであるが、もはや金融資本を産業界の「血液」としてその体内に組み込んでいた資本主義社会は、いまやその産業土台からの崩壊の危機に立たされている。労働者が生み出した価値の大半を剰余価値として無償で搾取し、しかも国家によりさらに吸い取られた血税を、(不当にも)膨大な量投入して金融資本を支援しなければ経済体制が崩壊してしまうという瀕死の状態なのである。

 価値の創造主である労働者達は、自らが創出した価値の大半を資本に搾取された上、資本家から前貸しされた賃金の一部をさらに国家から税金として吸い上げられた上、それを「定額給付金」などという形でまた貸しされ、それで何かを買わせることで、商品市場を活性化させてその金を資本に貫流させ、瀕死の資本主義にカンフル注射を打とうとしているのが、日本の為政者たちである。

 しかし残念なことに、この瀕死の資本主義体制の殻を打ち破り、そこからあらたな次世代を担うべき新しい経済システムを生み出してゆけるような推進母体がいまはもうほとんど存在しないのである。

 大内力の名前が出たので、ついでに記しておくが、日本においては、戦前から体系立った経済理論を持つのはマルクス経済学のみであって、大内力の父である大内兵衛や向坂逸郎などが論壇の中心であった。戦中の弾圧を乗り越えた戦後の一時期には、マルクス経済学の研究者が多く輩出され、理論界は活況を呈したのである。その後いわゆる「近代経済学」と呼ばれる、ケインズ派などの流れを組む人々やスミスやリカードの復活派などが、マルクス経済学に対抗する論壇を作り、やがて、政府の経済政策を支えるブレーンとなった人々を中心に、高度成長の時代に経済学の主導権を奪ったのである。今日ではソ連型社会主義が崩壊したこともあって、マルクス経済学は絶滅危惧種になってしまい、一方で「近代経済学」グループは経営論などと結びつき、さらには金融工学などというまゆつばの領域をも生み出して、一口に言えば「金儲けのための理論」に成り下がってしまったようである。

 もともと経済学は、社会の中で生み出される富をいかに無駄なく効率よく、しかも公平に分配し、健全な社会を築き上げるかという課題が中心であった。それが逆に無駄な消費を生み出さなければ成り立たないような経済の仕組みを主導し、それによって一部の人間が如何に上手にお金を儲けるかということが課題となってしまったようである。これこそ経済学の堕落というしかないだろう。

 しかし、19世紀にその基本形が完成したばかりの資本主義社会の仕組みが持つ本質的矛盾を分析したマルクスの経済学は、この現在の悲惨な状況を克服してあらたな社会経済システムを生み出して行くために避けて通ることのできない理論であると断言できる。私のような経済学者でもない素人の人間が懸命になってマルクス経済学を学んでいるのも、そうせざるを得ない状況だからである。

 次世代社会の担い手が育っていない以上、死にきれない資本主義社会をめぐる混乱は今後長く続くことだろう。私の存命中は悪化の一途をたどることになるかもしれない。そしてその腐朽化はますます進行するだろう。落ちるところまで落ちて、しかし、いつかはきっとどこかで本当の意味での再生を担う人々が出てくるだろうとささやかな希望を持とうと思う。

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2009年4月20日 (月)

付加価値=実体のない価値(その2)

 付加価値と表現は似ているが内容が全く違うのが剰余価値(Surplus Value)である。剰余価値は、社会的な労働を行う労働者が労働過程を通じて生み出す価値の一部であって、それは実体のある価値そのものである。それがなぜ「剰余」なのかといえば、労働者が一日の労働過程を通じて生み出す価値のうち彼(彼女)の一日の労働力を養うために必要な生活資料の価値に相当する部分を超えて生み出される価値部分を剰余価値というのである。労働者は自分の労働力を養うに必要な価値に相当する貨幣(これが労働力商品の価値とみなされる)を資本家から労働賃金として受け取り、それで再び労働が行えるように生活資料を購入する。彼(彼女)の労働賃金はそれによって再び生活資料商品を生産する資本家の手に渡り結局労働者の手元に残らないのである。

 最近の労働者はマルクスの生きた19世紀のそれとは異なり、特にケインズ以後の高度資本主義社会においては、生活必需品を購入するに最低限必要な賃金よりも相対的に高い賃金を受け取り、それを生活必需品だけではなくいわゆる奢侈品やレジャーや趣味などに使うことができるようになっている。しかしそれらのために支払うことによってその賃金は再び資本家の手に戻るのであって、そのわずかな「可処分所得」を生涯かけて蓄財しても、せいぜい住宅産不動産業資本に寄与することで自分の住むための家を購入するのが精一杯なのである。基本的には19世紀と同様、労働者は働けなくなるまで自らの労働力を売って生活を維持するために働き続けなければならないのである。

 それではあの剰余価値部分はいったいどこに行ったのかといえば、無償で資本に持って行かれてしまうのである。資本はこの剰余価値部分を商品に上積みして市場で利潤を獲得するのであって、それによって生産にに必要な生産手段や新たな労働力を購入するのである。本来この剰余価値部分は、社会全体に必要とされる共有のファンドとして貯蓄され共有化されるべきものであって、社会保障や年金などはこの社会共有ファンドから支払われるべきものである。しかし現実にはその剰余価値部分は資本家によって上記のように占有(私有化)されてしまうのである。労働時間が一定ならば、労働によって生み出される価値のうち剰余価値部分は、生産力が増大すればするほど大きくなる。今日の生産技術によれば、おそらく労働者が一日働いて生み出す価値のうち大半は剰余価値部分であろうと思われる。

 古典的資本主義社会では、労働賃金の高騰は、結果的に過剰資本として資本を圧迫することになるため、労働者は労働市場で労働力の供給が足りない場合を除いては最低賃金の窮乏状態に置かれていたといえるが、ケインズ以後の資本主義社会では、通貨管理制度を通じた貨幣価値の国家による間接的コントロールなどを基礎にして、労働賃金の相対的高騰化が図られ、それとともに生活消費財産業や広告産業や流通産業など直接生産手段資本に結びつかない消費産業への資本の移行が推進されることによって、過剰資本が資本を直接圧迫しにくくなるようなメカニズムが出来上がっていったと考えられる。

 このケインズ以後の資本主義社会によって登場したのがいわゆる「大量生産・大量消費社会」でありそれによる「大衆社会化現象」あるいは「マス社会」の出現であったといえる。いわゆる高度成長期には、耐久消費財や広告産業・マスコミそして産軍複合体(軍需産業はもっとも巨大な消費産業である)などへの資本の集積が進み、そのような産業部門での利潤の増大が大きかったため、経済は活況を呈した。しかし、その結果として一方では急速な技術革新をもたらすとともに他方では絶え間ない局地戦争や公害・自然破壊をもたらしたのである。

 やがて急速な技術革新などの結果、さらに労働者が生み出した剰余価値による膨大な流動過剰資本化が進み、それを争奪する資本家同士の競争が激化した。資本はいまでは株の売買などを通じて社会全体の産業資本の「血液」として金融資本のもとに集約され、株の売買による企業買収や金融市場の思惑によって産業全体の動向が支配されているという状況になったと考えられる。そこでは巨額の資本が右から左に動くことで莫大な利益を上げるバブル経済構造が出来上がった。しかし所詮それは市場価格という実体としての価値を伴わない虚妄の楼閣であって、当然のことながらいつかは崩壊する運命だったのである。そしていまその崩壊によって社会のために働く大多数の労働者が自らが生み出した膨大な価値の収奪による資本とそれを所有する一部の人々によるマネーゲームの失敗の犠牲となって首を絞められ失業し、路頭に迷うことになってしまったのである。そのような状況の中で、税制の抜本的改革や市場取引の制限などによって社会的な富の再配分を行わなければならない立場にある政治の担い手が、巨額の血税を金融資本再生のために用いたり、ばらまきによる「消費の刺激による景気の再生」しか打ち出せないのがいまの無残な実情である。

 そんな中で景気浮揚のためといいつつ市場の思惑によってなされる「付加価値の創造」がもたらすものは、何ら実体のない価値の「創造」であって、その虚妄の価値の上に築き上げられるのは再び巨大な根無し草的バブルとなり、それはただ次の崩壊を用意するものでしかないことは明らかではないか。

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付加価値=実体のない価値(その1)

 価値と価値観の違いを隠蔽した「価値創造」の虚偽性を取り上げてきたが、ここでもう一度、最近流行の「価値創造」というキーワードの示す意味の主要部分を占める「付加価値」というものの分析をしてみよう。

 経済学的範疇としては、ある生産物(人工物)が持つ価値は、その生産に費やされた社会的に必要な平均的労働時間によって決まる値を持った客観的な概念である。つまり価値を形成する実体は人間の労働である。したがって価値は人間の労働という実体を背後に持った概念であり、それは社会に必要とされるあらゆる部門のあらゆる形態の労働に共通するという意味で抽象的に社会的な必要労働一般の費やされた量(時間)によって、社会全体に必要な労働量におけるその労働の分担率を示す指標にもなっている。つまり価値は一定の社会関係の中で意味を持つ客観的で実体のある概念である。これはスミスやリカードの初期労働価値説を批判してマルクスが抽出し得た概念である。

 商品経済社会の「完成形態」としての資本主義社会の成立によって初めてこの価値という概念が抽出し得るようになったのであるが、それは同時に、市場における価値の価格化という現実への批判を通して初めて明らかにされた概念であった。それは商品経済社会に特有な、市場における生産物の売買という形での生産物の分配・流通形態において、日々繰り返される売買行為の結果としてその価格の背後にある価値という概念が抽出されうるという事実に基づいている。

 個々の商品交換の場では、「等価交換」と見える売買で、価値ではなく価格が指標となる。価格は市場における需要と供給のバランスで決まる値を持っており、商品の売買は、その商品に買い手が期待する「効用」に対して売り手ができるだけ高い価格で売ろうとする思惑の交錯する場面で展開される。この両者の思惑の中に価値は直接姿を現さないのである。その場は買い手の「効用」に対する個人的価値観と売り手の「利潤」という市場的価値観のぶつかり合いであり、直接的には客観的根拠がない主観的価値観の合意によって売買が成立するといってよいだろう。

 このような商品市場では必ずしも人工物でないもの(例えば宝石など)が驚くほど高価な価格で売れることがある。宝石を含む鉱石を掘り出し、加工するのに要した労働よりも遙かに高い市場価格が付けられるのである。それはその商品が基本的に人工物ではない(つまり自然の産物であって人間が作り出すことができないもの)ということと、それを売り手が私的に所有しており、買い手もそれを私的に所有するということによって生じる価格である。しかし、人工物においても需要を充たす供給が困難な骨董品や有名芸術家の作品などは同様に市場で高価格となる。

 このような現象は需要を充たすだけの供給が極度に困難な商品として、商品市場において、いわゆる「稀少価値」の対象となるからであるが、それと同時にそれらがたとえ価値をはるかに超えた高価格であっても納得して買う買い手が存在するから成立する価格なのである。言い方を変えれば、それだけリッチな買い手が市場に存在し、それら稀少価値をもつ商品を彼らの価値観のもとで高価格で購入できるからこそ、そのような価格が付くのである。買い手のいない市場などあり得ない。

 実は今日言われている「付加価値」とはこの市場における「稀少価値」を意図的に生み出すための戦略であり、実際の価値にどれだけこの実体のない付加価値を上積みして、「付加価値」は市場で獲得する利潤を増やせるかという思惑を背後に持った概念なのである。限定生産商品、デザイナーブランド商品、マスコミによって扇動される地域ブランド人気商品などなど、という形で今日の社会でおなじみの販売戦略に含まれている。このような実際の価値より高い市場価格でも買い手が納得して購入するように仕向けるためのイメージ、満足感を生み出す戦略が「価値創造」と呼ばれている。実際に価値を創造するにはそれに相応しい労働時間が必要であるが、付加価値にはそれに相応しい労働時間が含まれていない。つまり実体のない価値なのである。

 このような付加価値を持った商品は買い手の個人的価値観をゆさぶり、そこに効用を認めさせることで、実際の価値より遙かに高い価格で購入させるメカニズムによって生み出されたものなのであるが、それはそのような高価な商品を購入することが可能な人々が買い手として存在するから成り立つのである。それではそのような高い商品を追いかけ回すわれわれ「消費者」は本当にそれほどリッチなのだろうか?ここに現代の資本主義社会を分析するための一つのポイントがあると考える。

 それでは、次にさらに分析を進めてみることにしよう。

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