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2009年5月10日 - 2009年5月16日

2009年5月15日 (金)

いま何をすべきなのだろうか?(続き)

 いささか人生に疲れて、弱音を吐いたところ、mizzさんから励ましと受け止められるコメントをいただいた。やはり頑張らねば!!

 コメントでお訊ねの英語版資本論がドイツ語版原典とややニュアンスが異なるという話は、いまから30年以上も前に読んだ何かの本に書かれてあったことなので、残念ながらいまでは思い出せません。最近ドイツ語版もWebにアップロードされているのを発見(http://www.mlwerke.de/me/me23/me23_000.htm)しましたが、私の能力ではドイツ語版は到底読みこなせません。すみません。ペンギンクラシックシリーズの英訳資本論は機会があったら入手してみたいと思っています。

 mizzさんのデザイナーとしての豊富な経験が、いま資本論を読み進む中で、新たな真実の姿として立ち現れてきたのではないかとお察し致します。いままでは表面的な日常生活の姿に邪魔されて見えなかった現実の背後にある真実がマルクスの分析を手がかりに、見えてくるときの驚きと戦慄はいままた資本論を読み始めた私の中でも再び新たに呼び起こされつつあります。

 マルクスが価値の分析の終わりに近い部分で、未来社会では、価値に表現された社会的に必要な労働の平均的時間が貨幣という物神的な姿ではなく、社会的必要労働の分担の基準として用いられるようになるであろうというようなことを述べています。またやはり30年以上も前に、この考え方をめぐって未来社会のシステムを問題にした誰かの論文の中で、貨幣が労働時間を証明する「労働証紙」という形に変貌する、というようなことが書かれていました。もともと支払い手段でしかなかった貨幣がその私有を前提とした価値形態の持つ特異性から物神性を持つようになり、貨幣を生むための貨幣という資本の機能を持つようになり、やがて社会を支える労働者の労働力までもが商品として貨幣の獲得の手段にされてしまうようになったわけですが、やがて、われわれが社会全体の富を共有できるような世の中が来れば、同じ貨幣の形をしたものが労働証紙として富の分配基準に用いられるというわけです。

 しかし現在の社会では、われわれは自分たちが生み出した富に(それが資本家たちに私有化されることによって)自分たちが支配されているという矛盾の頂点にいるわけで、マルクスの分析によって見え始めた未来社会の姿を、ますますはっきりさせて行かなければいけないのだと感じました。しかもあくまでその答えは現実への徹底した批判の中からしか生まれえないのだと思います。現代の支配階級の視点から見た、「もうかる未来社会」のイメージとはほど遠いものであるはずです。彼らの「もうかる未来社会像」は、もはや「環境破壊・資源枯渇」と「消費拡大による経済活性化」というまったく相容れない二つの要素の絶対的矛盾にぶつかり完全に破綻しているのです。いまこそこのような矛盾の頂点にある現実への批判を通じてなされるべき「次世代社会のデザイン」という、労働者階級にしかできない本来の意味でのデザイン能力を発揮すべきときなのだと思います。

 その意味でデザイン理論は従来のデザイン論のような視点から180度転回して論じられねばならないのだと思っています。誰のためのデザインか?だれのためのデザイン理論か?ということをまず問題にしない限り、つまりデザイナーという職能が資本家的に分割された労働力の一つの形態に過ぎず、そのような形の労働力商品であるという事実を自覚することからしか真のデザイン論はスタートできないのだと思います。そのためにも資本論は避けて通ることの出来ないわれわれの武器です。

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2009年5月12日 (火)

いま何をすべきなのだろうか?

 このところいろいろなことがあり、いよいよ人生で残された時間をどう使うか真剣に考えねばならないと思うようになってきた。別に肉体的な余命がいくばくもないという意味ではなくて、あきらかに頭脳労働が可能な時間があと数年しかないであろうと感じされるようになってきたからである。

 そこでメールを通じて交流している友人Mさんが、サミュエル・ムーアとエドワード・エイブリングがエンゲルス監修のもとでマルクスのドイツ語版を英語に訳した、英語版資本論の邦訳を開始したので、これを追いかけながら、自分がかつて読んだ岩波版の向坂訳の資本論で得た知識をもういちど蘇らせ、刷新しようと試みている。

 Mさんの邦訳はあっというまに第2章まで進んだが、私は今日やっとそれを全部読み終わったところである。以前から英語版資本論は原典とはやや異なり、原典の内容を忠実に伝えていないという説があったが、少なくともMさんの邦訳には違和感を感じない。むしろ向坂訳の古典的邦訳の方がはるかに難解である。まだ英語版との読み合わせはやっていなないので部分的に言葉使いのチェックをしている段階である。

 それと平行して的場昭弘氏の「超訳 資本論」を読み始めたが、これはほんとに「超訳」である。マルクスが書いた文章のほんのさわりの部分だけをキーワードとして入れ、これに的場氏の解説を長々と付けたものである。あまりにすごいすっとばしぶりに最初は戸惑ったが、巻頭の部分で述べている的場氏の立場には共感を覚えたので、なんとか読み進むことができている。

 そしてその作業をしながら考えたのは、自分としていま何ができるのだろうか、ということである。

 かつて学生運動の片棒を担いだため、大学の研究室で11年にわたって干され、完全に職務から外され、毎月のようにやめないかと学科主任にプレッシャーをかけられながら、なんとか自分の思想的立場を確立しようと耐え続け、その間に読んだのがマルクスの著作であった。その後デザイン理論の研究者として身を立て直す決心をし、その世界で私なりにがんばってきたつもりであるが、その間、やはりどうしても現代の社会に対する違和感をぬぐいきれずにやってきた。思想的な本音と社会的立場の立て前の間で常に揺れ動いていた。そのためもあって、手塩にかけて育て上げようとした若手の研究者から疎んじられ、無視されるようになったこともあった。それはそれでほんとうにつらいことであったが、研究者としての仕事をリタイアしたのち、3年以上も考え悩み続けてきて、いま、もう悩んでいる時間などないのだという気がしてきたのである。

 このすさまじいまでに荒廃した現代社会に自分としてどう立ち向かい、何ができるのかが問題なのである。腐朽化が極度に進行し、もはや死を待つしかない現代資本主義社会が、それでもなお延命できているという事実。その中で驚くほど多くの若者が社会の矛盾に翻弄されながら希望を失って路頭に迷っている有様に目を向けようともしないで、「アキバ系の若者の気持ちはよく分かる」などとうそぶき、われわれの税金からふんだくった金をばらまいて、それに群がる人々を自身の選挙と結びつけてしか考えられないような男に将来が任せられるわけがない。

 しかしいくら怒ってみても、仕方のないことで、怒りだけではどうすることも出来ないのでる。しかも個人の力など無に等しい現実社会で、いったい何が出来るというのだ。敗北に敗北を重ねてきた経験から、あまりに悲観的になりすぎているのだろうか?

 そんな思いに駆られながら、資本論に展開されているマルクスの分析の研ぎ澄まされた鋭さをかみしめ、私の出来る範囲でそれを武器にして現代社会をさらに分析し続けるしかないのだろうと思っている。そしてその中には現代のデザイン理論の陥っているおおきな落とし穴を明らかにし、人間の労働過程という普遍的な視点から、もういちどデザインの理論を完全に再構築し直すという仕事も含まれている。

 しかし私にその時間はあるのだろうか?

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