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2009年6月14日 - 2009年6月20日

2009年6月19日 (金)

思考のリアリティーについて考える

 最近資本論を読み直しながら感じていることがある。マルクスの強靱な思考力は、彼の強烈なモチベーションによって支えられている。それは彼が自分の生活を通じて感じている彼の生きている現実社会の矛盾に対する、激しい怒りであり、その激しい怒りの感情を論理的思考力に圧縮しているのである。彼の分析力は、資本主義社会で市民権を得ている形式論理学的思考をはるかに超えて、より鋭く深く現実を批判でき得る力として獲得された弁証法的な論理に裏打ちされた思考力である。マルクス自身はこれを「抽象力」と言っている。この抽象力の背後には彼の現実に対する激しい怒りの感情が埋め込まれているからこそリアリティーがあるのである。

 最近、書店で「マルクスの現代」という本を見つけて買ってきた。1999年初版で2002年に第5版が印刷されているところを見ると、かなり売れた本らしいが、ここでは柄谷行人や浅田彰などという当時売れっ子の「思想家」や「哲学者」が「マルクスのトランスクリティーク」などど銘打ってマルクスを論じている。少し読んだところで、あきあきしてしまった。その理由は、現代社会に対するリアリティー(アクチャリティーというべきかもしれない)が感じられないからだ。

 柄谷氏や浅田氏は哲学や思想を一種の知的ステータスのように扱っているのではないだろうか?たしかにマルクスをトランスクリティークするなんて「カッコいい」。いかにも知的な教養にあふれた教授陣の会話である。しかしリアリティーがない。マルクスもドイツ系ユダヤ人でありながら英語、フランス語などに堪能で当時の哲学や思想の最先端を担っていた教養人であった。しかし、そのことをステータスと感じていたことはなかったであろう。むしろそのインテリとしての能力や思考力を何のために誰のために駆使すべきかを知っていた。彼はそのことに命を掛けていたということが資本論を読んでいて感じられる。

 現代のマルクス経済学者はかつての宇野派マルクス経済学者の一人である柴垣和夫氏のように「知識人の資格としての経済学」などという視点でしかマルクスをとらえることが出来なくなっているのだ。的場昭弘氏もその一人かもしれないが、彼の「超訳 資本論」に垣間見ることのできる彼自身の視点は、少なくとも柄谷氏や浅田氏のそれよりはリアリティーがある。

 かく言う私は、マルクス経済学者でもないし、哲学者でも思想家でもない。私はデザイン教育とデザイン理論で飯を食ってきた人間である。だから大きなことは言えないのであるが、率直にそう感じたまでだ。

 そもそも自分が社会の中でどのような役割を担い生きてきたのか、その意義を理解したい。たまたま40年も前に学生運動と行動をともにした生活の中でマルクスに出会って、そこでそれまで自分が単純に考えてきた生きる意味を大きく変えざるを得なかった。工業デザイナーとして好きなデザインの仕事に進もうとしていた自分が、そのデザインという職能の持つ本質を知ってしまったときから悩みは始まった。

 11年にわたる大学研究室での疎外状態の中で独学で学んだマルクスの思想と経済学はおそらくアカデミックな場でそれを学んだ人達に比べれば偏った貧しいものであろう。だからその後研究者として飯を食えるようになろうと思い直し、デザイン理論の研究を本格的に始めた後も、デザインを既存の職能という形ではなくそれを批判的に抽象した普遍的な労働過程の一つの側面として見る立場を守ろうとしたにも拘わらず、単なる「付加価値」の付与のための方法に迷い込んでしまったこともあった。批判すべき社会の中で生きていくためにその社会の一部を担わざるを得ないと言うことは、想像以上につらく厳しいことであった。自分自身の存在をも否定するような気持ちにならざるをえないことがあった。

 しかし、そのつらさがかえって現実への批判のモチベーションとなったことも確かである。そのモチベーションはリアリティーを失えば直ちに「仮想現実」に成り下がってしまうものである。現実社会への批判を通じて自分が何者であるのかを明らかにしたい、という願望は強まるばかりであった。そしてそのためには自分が現実社会に対してリアルな視点を持たなければならなかった。そこにしか自分の生きる意味はないと感じるのである。そのために何度でもマルクスから学ぼうと思うのである。マルクスが与えてくれた知的武器を用いて立ち向かおうと思うのである。

 視野が狭いといわれればそれまでかもしれないが、私にはマルクスの方法を自分のものとして獲得することしか考えられないのである。

 柄谷さん、浅田さん、的場さんどうぞかく言う私を批判して下さい。多分このブログの存在すらお知りにならないでしょうけど。

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2009年6月14日 (日)

「景気底打ち」の意味するところ

mizzさん、いつもコメントありがとうございます。

 持続可能な社会やサステイナブル・デザインという話はかなり以前から論議されてきました。しかしほとんどは、資源再利用や「地球にやさしい」技術という技術レベルの話であって、経済界ではCO2排出権の売買などといういかにも資本主義的合理化の話が主流になっているようですね。

 もちろん地球環境保護の技術的な研究開発は重要ですし必須の問題だと思いますが、問題はその技術的研究成果をドライブしている経済界のメカニズムです。「あしたのエコでは間に合わない」などというキャンペーンをして、ひとびとの危機感を煽ってみても、われわれが個人としてできることなどたかがしれています。結局「エコ商品」を買わせるための宣伝という効果しかなく、その陰で排出権の売買を利用して着々と資本家が儲けていくという有様では決してサステイナブルな社会などやってこないでしょう。

 さて世の中、100年に一度の不況と言われながら、そろそろ景気の底打ち感が現れ始め、株価が上昇し、明るい兆しが見え始めたともっぱら取りざたされています。マスコミもその後押しをしています。

 これでもし「景気V字回復」したらどうなるのか?おそらくは、再び金融資本の支配のもとでの市場獲得と投資競争が再開され、やがて何年か先にはまたまたバブルとなりそれがはじけて、多くの労働者が路頭に迷う事態が来るのでしょう。もうたくさんです。株価が上昇してよろこぶのは投資家と株価に現れる企業評価を気にする資本家くらいなものです。しかしおおかたの労働者たちは、もうその宣伝をあまり信用していません。産業界やその代表選手の政治家たちが宣伝する「明るい未来」が「アカルイミライ」というパロディーでしかないことは誰もがうすうす気づいているのだと思います。

 一夜にして何兆円もの財産を「失うことができる人」がいる一方で、働きたくとも職に就けず、人生に希望を持つこともできず、アルバイトで日々の生活をつないでいる若者たちがたくさんいる(政治家達はそういう若者達を見て「やる気がない」と吐き捨てます)。また、収入の15パーセント以上も税金や健康保険料をさっ引かれ、病気になって医者に行っても、高額な検査料や治療費を取られて長年働いて貯めてきた貯金はますます減る、年金も年々少しずつ減っていく中でまるで暗黙の内に「早く死んでくれ」と言われているような高齢者たちがたくさんいる(そういう人たちから吸い上げた税金が金融資本のテコ入れなどに使われるのだ)。

 しかも不況の中で切り捨てられどん底におとされ「失うものは何もない」状態になっている人たちこそ、実は真の「価値創造者」なのである!自ら決して価値を生み出さない人たちが巨万の富を独り占めし、営々と働いて価値を創造している絶対多数の人々がすべてを失っていく。こんな世の中がそのまま「景気回復」してみたところで、何が良いのだ!

 こういうことを考えていると気が滅入るどころか、怒りがつのるばかりで、ますます血圧が上がりそうである。どうして労働者達はこんな状態に耐えているのだろう?耐えていいことと良くないことがあるはずだ。耐え続けることは永久に敗北を認めることではないのか?

 

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