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2009年8月2日 - 2009年8月8日

2009年8月 8日 (土)

コメントありがとうございます

mizzさん、コメントありがとうございます。

 相変わらず精力的に英語版資本論の訳をなさっておられるようで、敬服しております。おっしゃる様に、ドイツ語版からの向坂訳の資本論は生硬で分かりにくく、日常的日本語からはほど遠い感じがします。mizzさんの訳がいつか公にされる機会を望みます。

 いまmizzさんが翻訳に取りかかっておられる、労働過程に関するマルクスの考え方は、私のデザイン論の中核を成す部分です。人間が生きるためにだれでもやっている労働過程が、人間と物質的自然との間の代謝関係として普遍的なものであるのに対して、それが「社会」という視点から見れば、その社会がどのような仕組みでその構成員である人々の労働の成果を社会全体に還元してゆくのか、といういわゆる生産様式の問題を避けて通ることはできず、その生産様式が歴史的にどう変わってきたのかを問題にせざるを得ないわけです。

 トレンズ大佐はそのことを理解せず、太古の人間が石を投げて動物を捕まえたとき、そこに目的と手段の関係が始まり、同時に資本の起源がある、と見たのは、普遍的な問題と歴史的な問題の同一性における区別を理解しなかったからでしょう。マルクスはその典型としてトレンズ大佐の言葉を引用したのだと思いますが、実は、トレンズ大佐と基本的には同じ考え方がいまの経済学者や政治家たちの考え方の主流なのです。

 彼らこそ間違った考え方をしているのに、それが主流になるとまるで正しい考え方であるかのように思われてしまう。これこそマルクスがいう、その時代の生産関係という土台の上に乗った上部構造の思想なのです。だからこそ既成概念というウロコを目から落とさねばならないのだと思います。

 たしかに核廃絶は資本主義社会が消滅しないと実現しないかもしれません。しかし、少なくともあの資本主義の権化のようなブッシュ大統領が失政し、そのあとに登場したオバマ大統領があのプラハ宣言をなし得たということは、私には正論はやがて世界に受け容れられるようになるだろうというかすかな希望を抱かせます。

 幾多の挫折を経験してきたわれわれにとって、いたずらに過剰な希望を抱くことは危険かも知れませんが、私は次の世代の労働の担い手(政治家ではない)に希望を託すしかないと思います。

 デザイン論の世界も、20世紀後半の資本主義社会に特有な職能であるデザイナーの本質を見抜くことなくして、デザインの本質など語ることはできないはずです。

 歴史的に特殊な労働過程の否定的な姿(これはデザイナーだけの問題ではなく資本主義社会の労働形態全体を指す)を見据え、そうなってしまった根拠への批判から、それを否定した普遍的な意味でのデザイン的能力を論理として抽出することができなければ、本当のデザイン論は成り立たないと思っています。

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2009年8月 6日 (木)

広島64年後の状況

 今日は言わずと知れた、原爆の日である。秋葉市長の弔辞は被爆市の市長としてじつに実感のこもったものであった。それに対して麻生首相のスピーチの何と味気なく空虚であったことか。北朝鮮が核武装するなら日本も核武装をすべきだと陰で主張しているこの人なら当然かも知れない。

 核兵器を実際に使用した唯一の国であるアメリカが率先して核廃絶を目指す責任があるという、オバマ大統領のプラハ宣言は、われわれにとって、感動的であったが、しかしそれはアメリカ大統領として当然取るべき立場であって、これまでの大統領がそれを言わなかったことがおかしいのである。アメリカが戦勝国であろうとなかろうと、アメリカには核廃絶の責任があるのだ。アメリカのすべての人々にそのことを自覚して欲しい。

 この期に及んで飢餓に苦しむ自国民を欺し続け、核武装して宿敵日本をターゲットにすると脅す北朝鮮のキム王朝など、何も怖くはない。われわれが核兵器など持たなくとも、彼らは本当に日本を核攻撃することなどできっこないからだ。マルクスのマの字もしらないくせに、「社会主義人民共和国」を名乗り、マルクスの歴史的業績を地におとしめた責任こそ裁かれなければならないだろう。そして核武装を掲げる独裁者に苦しめられている北朝鮮の人々と核兵器廃絶を希求するわれわれとは、本来同じものを目指しているのだということを知ってもらうべきであろう。われわれの交渉すべき相手は独裁者ではなく、そこで独裁と虚偽の愛国心の強要に苦しめられている人民である。

 世に「現実主義的政治」という言葉がある。核廃絶などという理想や憲法9条に唱われていることは「理想主義的」であって現実性がない、という主張である。しかし、この「現実主義」がいかに残虐で非人道的な結果を生んできたかは歴史が証明している。相手が武器を持って襲ってくるのに、裸で殺されるのを待つのか?と「現実主義者」はいう。しかしそれなら日常生活の中でいつ犯罪のターゲットにされるかわからないわれわれは、いつも武器を持ち歩かなければならないのか?

 われわれは殺されるのを待つわけでは決してないし、武器を持って殺そうとした相手を逆に殺そうというわけでももちろんない。不当に殺しにかかってくる相手にそれが不当であることを自覚させねばならないのだ。「目には目を」では、決して世界から戦争はなくならない。

 それが国という単位になると、「民族意識」や「愛国心」というものが持ち出されてくる。あのユーゴスラビアの内戦の時を思い出してみよう。つい昨日まで隣人として親しくつきあってきた人達と、「国家」や「民族」という看板が掛けられると途端に殺し合わねばならない関係になってしまうのだ。これが戦争というものである。われわれは「国家」とか「民族」とかいうまえに、もう一度隣の国に住む人々と、どうやって互いに協力して、無為な殺し合いのない世界を創っていけるのかを考えるべきではなかろうか?

 このような人間として「あたりまえ」のことが当たり前でなくなるような状況を許してはいけない。そういう意味で、目のウロコを落としてもう一度世の中を見直すべきときが来ているのだ。「ゴーマニズム」がかっこよく見えたとしてもそれこそ非現実的なパフォーマンスに過ぎないではないか。もう悪しき歴史を繰り返すのはやめよう! ここから新しい歴史を創りだしていこう!

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2009年8月 5日 (水)

閑話休題

あまりに遠くを見すぎてきたかもしれない。

真昼の夏の日に、窓を開けると聞こえてくる、遠い電車の音。どこか遠くの建設現場で打ち込まれるエアハンマーの音。あちこちで鳴いている蝉の声。曇天の空から降りてくるカラスの声。そして窓から流れ込むわずかな風。

これがいまという時間なのだ。

足もとを見よう。自分がこうして呼吸をし、考え、暑さに耐えかねて水を飲む。

何も思い浮かばないことにいらだち、かすむ目にもう一度めがねをかけ直してパソコンの画面を見る。

これがいまの自分なのだ。

足もとを見よう。

私が居ようと居まいとお構いなしに、世界は存在する。私が一生懸命叫ぼうと、こぶしを振り上げようと、それは毎日少しも変わらないように見える。

しかし、私の中の世界は、そこにある。私と世界はそこにある。

アブラゼミの声の中に突然ツクツクボウシの声が聞こえてきた。やがて圧倒的なアブラゼミの声にそれはかき消されていった。

これがいまの世界なのだ。

足もとを見よう。

ありが一匹、コンクリートのタタキの上を歩いている。忙しそうに。

雲間から日が射してきた。

8000万キロメートルかなたの巨大な太陽からやってきた一条の光が、いま、ありに降り注がれている。

ありはそんなことにはお構いなしに、忙しく走り去った。

そう、これが生きるということなのだ。

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